第一次攻勢の失敗と各国の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:17 UTC 版)
「アチェ戦争」の記事における「第一次攻勢の失敗と各国の反応」の解説
1873年、シンガポールでアチェ王国とアメリカの現地駐在所の代表が、二国間条約締結に向けて会談した。これを1871年の英蘭条約違反とみなしたオランダは、この機会にアチェを軍事的に併合しようと画策した。1873年3月26日、ヨハン・ハーマン・ルドルフ・ケーラー少将率いるオランダ軍がアチェ領に侵攻し、首都のバンダアチェを砲撃するとともに、4月中に海岸線のほとんどを制圧した。アチェのスルターンの宮殿を破壊すれば全アチェがすみやかに併合できるだろうというのがオランダの意図であった。この危機に際してアラーウッディーン・マフムード・シャー2世はシンガポールに遣使し、イタリアとイギリスからの援助を取り付けた。またこうした事態に備え、アチェ軍は急速に近代化され、その規模も大幅に拡張されていた。なお、その規模については1万人から10万人まで諸説ある。アチェの軍事力を過小評価していたオランダ軍は各地で反撃にあい、ある戦闘で戦死した80人のオランダ兵の中にはケーラーも含まれていた。この敗北は、オランダ軍の士気と名声を大きく損なった。 陸軍の撤退を強いられたオランダは、今度はアチェの海上封鎖を開始した。マフムードは独立を守るために西洋列強やオスマン帝国の支援を受けようとしたが、うまくいかなかった。アメリカはアチェに同情的だったが、中立維持にとどまった。オスマン帝国も衰退著しく、さらに中東で相次ぐ反乱の鎮圧に忙殺されていたため、アチェ救援にはまったく無気力であった。イギリスはオランダとの関係を重視して介入要請を拒否し、フランスに至っては返答すらしなかった。
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