海上封鎖
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海上封鎖(かいじょうふうさ)とは、ある国が海軍力を用いて港湾や海岸に船舶が出入することを阻止すること。
- ^ a b c d e f “平成15年度各国における海上保安法制の比較研究”. 財団法人海上保安協会. 2023年5月18日閲覧。
- ^ 尾崎重義「国際連合憲章第41条の注解(その1)」『二松学舎大学国際政経論集』第16巻、二松学舎大学、2010年3月25日、1-41頁。
- ^ a b c d e f g h i j 新谷 哲之介「<研究ノート>海上保険における戦争危険の実際」『損害保険研究』第74巻第3号、公益財団法人 損害保険事業総合研究所、2012年、99-152頁。
- ^ a b c d e f g 和仁健太郎「伝統的国際法における敵船・敵貨捕獲の正当化根拠(一)」『阪大法学』第64巻第2号、大阪大学、2014年7月31日、37-72頁。
- ^ a b c 保井健呉「現代国際法における海上輸送規制法制の地位」『同志社法學』第72巻第1号、同志社法學會、2020年5月31日、15-67頁。
海上封鎖
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詳細は「海上封鎖」を参照 海上封鎖とは海軍力で敵の港湾の出入港を封鎖することである。17世紀末までは、9月から5月ないし6月まで、大型船を港外に出しておくことは不可能あるいは軽率なことと考えられていた。それ故に敵をその港に閉じ込めておくことは、いかなる海軍でも無理であった。更に敵を止めているよりも前に海に出ているかもしれず、艦隊の任務は商船隊の護衛の方に回された。最初の海上封鎖は1758年-59年イギリスのエドワード・ホーク卿によって開始され、セント・ヴィンセント伯ジョン・ジャーヴィスによって、また1793年から1815年の他の提督達によって完成された。
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海上封鎖
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海上封鎖とは海上戦力によって敵の沿岸所定区域につながる海上交通を途絶させる作戦行動である。これには平時封鎖と戦時封鎖があるが、戦時封鎖では戦時国際法(1909年の海戦法規に関するロンドン宣言)の海戦法規に基づいて第三国の船舶であっても封鎖を犯すことはできず、捕獲される。平時封鎖ではこの限りではないが、国籍を確認するための臨検は可能である。 海上封鎖は法的な行為でもあるために中立国の船舶に対して違法性を問うためには一定の手続きを要する。封鎖は交戦国の政府か海上封鎖部隊の指揮官により宣言され、しかもその海上封鎖は実力を伴って継続的に実施され、かつ全ての船舶に対して等しく行われることが必要である。その事例としては第二次世界大戦においてイギリスはドイツの全面封鎖に対抗して1939年11月と1940年7月に中立国の船舶とその貨物を捕獲、没収する措置を宣言している。
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海上封鎖
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「米英戦争の大西洋戦線」の記事における「海上封鎖」の解説
アメリカの港に対する封鎖が強化され、商船や軍艦は港に釘付けになった。アメリカのフリゲート「ユナイテッド・ステーツ」と「マセドニアン」は、終戦までコネチカット州ニューロンドンで封鎖され、係船されたままだった。ヨーロッパやアジアを拠点として活動を続ける商船もあった。ニューイングランドの商船は、1813年にアメリカ派遣艦隊の司令官サー・ジョン・ボーレイズ・ウォーレン提督の免許を得て貿易を行うことができた。これは、スペインで従軍中のウェリントン軍にアメリカの物資を運ぶことと、ニューイングランドの反戦活動を維持させるためでもあった。 緒戦の損失に懲りたイギリス海軍本部は、アメリカの3隻の重フリゲートとは、戦列艦を擁しているか、あるいは戦隊を組んでいる場合以外は交戦してはならないという方針を打ち出した。その一つの例が1815年1月の、「エンディミオン」、「マジェスティック」、「ポモーン」および「テネドー」の4隻のフリゲートからなるイギリス戦隊によるアメリカのフリゲート「プレジデント」の捕獲である。この戦法の活用と海上封鎖によって、イギリス海軍は陸軍をアメリカ海岸に輸送することが可能になり、1814年のワシントン焼き討ちとして知られる首都ワシントンD.C.の攻撃が可能になった。 アメリカの私掠船は活発に活動した。海軍に所属するものもあったが、多くは独自の利益のために動いていた。その活動は終戦まで続き、イギリス海軍による厳重な護送船団方式による警戒のみが部分的な効果を発揮した。アメリカの私掠船活動の大胆不敵なものの一つは、海軍のスループ「アーガス」によるイギリス本国海域でのものだった。「アーガス」は最終的に1813年8月14日にウェールズのセントデイビッド岬沖で、イギリス海軍のブリッグ「ペリカン」に捕獲された。アメリカ海軍と私掠船に捕獲された船舶は1,554隻に及んだが、そのうち1,300隻は私掠船によるものだった。もっともロイズ保険組合によれば戦争中にアメリカに拿捕されたイギリス船は1,175隻で、しかもそのうち373隻はイギリス側に再捕獲されたので、正味の喪失は802隻となっている。 イギリス海軍の基地であるノヴァスコシアのハリファックスは海上封鎖を管轄しそれによって大きな利益も得ていた。イギリスの私掠船はここを基地として多くのフランスやアメリカの船を捕まえ、その捕獲品をハリファックスで売り払っていた。 この戦争はイギリスが私掠船を使った最後の時と考えられている。というのもこのような行為は政治的に不適切であると見なされるようになり、イギリス海軍の優越性を保つ際に価値を失っていったからである。
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