封鎖突破船
封鎖突破船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:17 UTC 版)
封鎖突破船は大きな比率で北軍艦船の網をくぐり抜けたが、海上封鎖が完成してくると、海軍の哨戒線を破るに最も適した船のタイプは、小さく軽量で、喫水の浅いものだった。封鎖突破には適していたが、南部が最も必要とする重い武器、金属などの資材を大量に運ぶには適していなかった。南部の援助を成功させるためには繰り返し航海する必要があったが、捕獲や沈没の危険性も増した。 通常の船舶はあまりに鈍くて目に付きやすく海軍からは逃れられなかった。それゆえに封鎖突破船は主にイギリスで新造され、船高が低く、喫水が浅く、高速に作られた。無煙炭を燃焼させる蒸気機関によって推進される外輪船ならば速度17ノット (31 km/h)が期待できた。南部には十分な量の水夫と船長を集めるだけの人的資源とそれだけの船を作る造船能力がなかったため、多くの封鎖突破船はイギリスで建造され、イギリス人の士官と乗組員が乗り込んでいた。イギリスの個人投資家は封鎖突破船に恐らく5千万ポンド(2億5千万米ドル、2006年価値で25億ドル)を遣った。船員の給与も高かった。イギリス海軍の予備役士官の場合、一航海で給与ボーナス合わせて数千ドル(金で)を稼ぎ、通常の水夫でも数百ドルを稼ぐことができた。彼らは闇夜に、500ないし700マイル(800ないし1,100 km)離れたイギリス領バミューダ諸島、バハマ諸島あるいはキューバのハバナとの行き来に挑戦した。船には綿花、テレビン油およびタバコのような輸出品、ライフル銃、薬品、ブランディ、下着およびコーヒーのような輸入品を数百トンの凝縮され高付加価値の貨物として運んだ。貨物1トンあたり300ドルから1,000ドルが輸送料となった。1月に2回往復すれば、恐らく25万ドルの収入(人件費と経費合わせて8万ドル)が得られた。 1864年11月、ウィルミントンの卸売業者はバミューダの代理人に、多くのクロロフォルムを送るのを停止して、その代わりに「コニャックの香り」という香料が「極めて高く」売れるので、それを送るように依頼した。連合国の愛国者達は南軍の兵士達がボロを着て飢えながら戦っているのに封鎖破り達が贅沢品で暴利を得ている事を軽蔑していたが、その反面その勇気や独創性は国の生き残りのために必要だった。奥地にいる多くの女性は輸入された10ドルの安ピカ物や50ドルの帽子を、「にっくきヤンキー」が南部を外部世界から孤立させることに失敗した愛国的証として誇らしげにみせびらかした。リッチモンド政府は最終的に輸送料を規制し、輸入品の半数は武器弾薬であることを求めた。さらにその歳費で封鎖突破船を何隻か購入して運営し、戦争の必需品が積まれていることを確実にした。1864年までに北バージニア軍の兵士達は輸入された肉を食べていた。封鎖破りは両軍にとって適度に安全なものだった。まず封鎖を突破する事は国際法上違法ではないため罪を問われる心配はなく、捕獲された船舶に乗っていた外国籍の船員は釈放され、南軍の者は捕虜収容所に送られた。封鎖突破船は基本的に武装しておらず(大砲の重量は封鎖突破を困難にするため)、海軍の艦船に危険は無かった。 封鎖破り貿易の儲けになる(かつ短期間)一例として、ナッソーやバミューダから運行されたバンシーがある。この船はノースカロライナ州ウィルミントンへの7回目の航海で捕獲され、アメリカ海軍に押収されて封鎖船として使われた。しかし、その捕獲時に、イギリスの所有者にとっては7倍の利益を生んでおり、所有者は直ぐにバンシー2号を建造して就航させ、間もなくその会社の封鎖突破船隊に加わった。
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