遣独潜水艦作戦
遣独潜水艦作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 09:48 UTC 版)
1943年6月1日に第2次訪独潜水艦として呉を出港。目的はヒトラーから無償譲渡されるUボートU1224(日本名:呂号第五百一潜水艦)の日本回航の搭乗員(乗田貞敏少佐以下51名)の輸送のためであった。作戦中の暗号名は「フレッツィア」または「リラ」。この作戦のために3月21日より呉海軍工廠で魚雷発射管室を居住区にするなどの改造を行った。 6月1日、伊10、特設潜水母艦日枝丸(日本郵船、11,621トン)と共に呉出港。 6月10日 - 22日シンガポールに寄航し整備。 6月23日 - 7月7日ペナン寄港。 7月1日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯04度53分 東経87度20分 / 南緯4.883度 東経87.333度 / -4.883; 87.333の地点で伊10から燃料補給を受ける。 7月6日、南緯22度25分 東経76度15分 / 南緯22.417度 東経76.250度 / -22.417; 76.250の地点で伊10から燃料補給を受け、伊10と分離する。 7月18日~21日暴風圏を航行。 8月20日に大西洋アゾレス諸島西方でドイツ潜水艦U 161と会合し翌日レーダー逆探知装置を受領。 8月30日ドイツ水雷艇3隻(T22、T24、T25)と会合。 8月31日にドイツ占領下のフランス大西洋岸のブレスト港に到着(出港後66日)。 艦長の内野信二大佐と大尉以上の士官はパリ経由でベルリンを訪問し、カール・デーニッツ海軍総司令官と面会する。この訪問の最中、9月8日にイタリアが無条件降伏している。この他、通信長の桑島斉三大尉他数名がベルギーのオーステンデの電波兵器学校に派遣され、レーダー装置の取扱いなどの訓練を受けている。 呂号第五百一潜水艦の回航要員の他、積み込んでいた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置(図面)、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に提供された。 帰路の積み荷はダイムラー・ベンツ高速艇発動機MB501と取扱い装置や設計図面、メトックス受信機、エリコン20ミリ機銃120挺、エニグマ暗号機169台などであった。 また、後甲板にはドイツから譲渡された20ミリ4連装対空機銃が装備された。呂501(U 1224)に乗田貞敏少佐以下51名を移乗。 10月5日15時30分ブレスト出港。26日に赤道を通過、翌27日に哨戒機に発見され至近弾を受ける。 11月10日暴風圏を突破。 12月5日スンダ海峡経由でシンガポール港に到着。 12月21日 呉に到着。日本とドイツの完全往復に成功したのはこの伊号第八潜水艦のみであった。 呉に到着後、三井造船玉野造船所に回航されて整備と復元が行われた後、呉に戻った。
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遣独潜水艦作戦
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ドイツによる怒涛の攻勢が落ち着きを見せた1942年も半ばを過ぎると、イギリス海軍やアメリカ海軍、ブラジル海軍などにより大西洋上に張り巡らされた連合軍の哨戒網により、これらの水上艦にとって安全な航路はもはやなかった。このためドイツより電波探信儀(レーダー装置)導入を希望する日本海軍は、大型潜水艦をドイツに派遣することを決した。これが遣独潜水艦作戦の始まりである。
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