ジャワ‐とう〔‐タウ〕【ジャワ島】
読み方:じゃわとう
⇒ジャワ
ジャワ島
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ジャワ島(ジャワとう、インドネシア語: Jawa、英語: Java、ジャワ語: ꦗꦮ、 スンダ語: ᮏᮝ)は、インドネシアを構成する島の一つ。インドネシアの総人口の半分以上が居住し、世界一人口の多い島。インドネシアの首都・ジャカルタがある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。
注釈
出典
- ^ “Sekretariat Kabinet Republik Indonesia | Hasil Sensus Penduduk 2020; BPS: Meski Lambat, Ada Pergeseran Penduduk Antarpulau” (2021年1月23日). 2022年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月5日閲覧。
- ^ サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『クラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 27ページ)
- ^ a b 水間 2013, pp. 49–50
- ^ 製造元のハウス食品の説明
ジャワ島
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「国鉄C12形蒸気機関車」の記事における「ジャワ島」の解説
1943年(昭和18年)には海軍に2両が供出され、1067 mm軌間のままジャワ島に送られている。戦後はインドネシア国鉄に編入され、C32形 (C3201 - 02) となって、1970年代まで使用された。
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ジャワ島
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ジャワ島内には、PT Kereta Apiの9つの地域事業部(DAOP I - DAOP IV)が、ジャカルタ・バンドン・チルボン・プルウォクルト・スマラン・ジョグジャカルタ・マディウン・スラバヤ・ジュンブルが設置され、各々管轄している。メラク - ランカスビトゥン - ジャカルタ、ジャカルタ - チカンペック - チルボン - スマラン - スラバヤ、ジャカルタ - チルボン - クロヤ - ジョグジャカルタ - ソロ(スラカルタ)- マディウン - クルトソノ - スラバヤ、ジャカルタ - チカンペック - バンドン - クロヤ、スラバヤ - ジュンブル - バニュワンギなどの路線が幹線となっている。他に、昨今少なくなったものの、いくつかの支線が存在している。また島東端のバニュワンギへ行く路線は、バニュワンギ・バル駅からクタパン港、そこから連絡船でバリ島ギリマヌク港へ向かうこともできる。ただしバリ島には鉄道がないためバスでの移動となるが、州都デンパサールにはPT Kereta Apiの事務所があり、バス船鉄道の連絡乗車券が用意されている。 ジャワ島での鉄道輸送は、大半が旅客輸送である。旅客列車の等級にはSpecial(スペシャル)・Eksekutif(エグゼクティブ)・Bisinis(ビジネス)・Ekonomi(エコノミー)の4つがあり、速達列車(特急・急行)も多く設定されている。 また、ジャカルタ周辺ではPT Kereta Apiの線路を通勤電鉄(KRL JABOTABEK)の電車を運行している。また都市モノレールが建設されたが工事が途中で中断している、ほかジャカルタMRTが日本のODAの支援を受け建設工事中である。 このほか、製糖工場の専用線や森林鉄道などが600 mm, 700 mmなどのナローゲージで多数存在する。
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ジャワ島
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「日本占領時期のインドネシア」の記事における「ジャワ島」の解説
スカルノやハッタと共に独立運動をしていたシャフリルは、占領後は対日協力をせずに学生を地下活動に導いた。反対派政治家のアミル・シャリフディン(英語版)は、マルクス主義者や民族主義者との関係を通して地下のレジスタンス運動を組織するため1942年初頭に25,000ギルダーをオランダ人より与えられた。1943年に日本軍がアミルを逮捕するも、アミルはインドネシアで人気があり、スカルノの介入もあって処刑をかろうじて免れた。スラバヤに拠点を置くアミルのグループ以外で、連合側に味方した最も積極的な集団は、華人、アンボン島民、スラウェシ島のマナド市民だった。 シンガパルナ事件 1944年2月に西部のシンガパルナ(インドネシア語版、英語版)で、宮城遥拝を拒んだイスラーム系の指導者が住民を組織して抵抗した。日本軍はこれを弾圧したが、初めてのインドネシア人の抵抗であり、軍政監部はイスラーム指導者を優遇する政策をとっていたつもりであったために当局に衝撃を与えた。 タクシマラヤ事件、インドラマユ事件 日本軍の戦局悪化や米の強制供出により、1944年の春から夏にかけてジャワ島各地で抵抗活動が頻発した。1944年2月にはジャワ西部で農民の反抗としてタクシマラヤ事件、6月にはインドラマユ事件が起きた。これらの事件は、米の強制供出による食料不足が原因だった。1944年9月の小磯声明ののちも独立のための政策が打ち出されなかったため、民衆の不満は高まった。 ブリタル反乱 ジャワ島で民衆の不満が高まる中、1945年2月14日にはブリタルの郷土防衛義勇軍(PETA)の大団が蜂起するPETAのブリタル反乱(インドネシア語版、英語版)が起きた。反乱を指揮したスプリヤディは原因と理由について、(1) 民衆や労務者たちの悲歎を見るに忍びない。(2) 周囲の日本人の傲慢さと残酷さを我慢できない。(3) 日本をはじめ諸外国から干渉を受けない自由な独立を求めたい、小磯首相の約束は信じていないと述べた。また、大団の教育担当中団長スカンダルは原因について、(1) 労務者の悲惨な状況。(2) 日本人による義勇軍に対する侮辱や、独立の約束と矛盾する言動。(3) インドネシア女性に対する日本人の性的な搾取。(4) 組合の名のもとに行われる経済的搾取を述べている。蜂起に参加したのは大団500名のうち410名で、若手の小団長や分団長が中心となった。日本軍政監部は反乱に対して前面に出ず、インドネシア兵による威嚇や説得工作を行なった。反乱軍は同じインドネシア人に対しては抵抗しないという日本軍政監部の予想は的中し、反乱は鎮圧された。スプリヤディは独立後にインドネシア国家英雄となった。
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ジャワ島
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