カリマンタン‐とう〔‐タウ〕【カリマンタン島】
読み方:かりまんたんとう
ボルネオ島
(カリマンタン島 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/10 13:52 UTC 版)
ボルネオ島(ボルネオとう、英語: Borneo, インドネシア語: Pulau Kalimantan)は、東南アジアの島。南シナ海(西と北西)、スールー海(北東)、セレベス海とマカッサル海峡(東)、ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれている。インドネシア・マレーシア・ブルネイ、この3か国の領土であり、世界で最も多くの国の領地がある島[注釈 1]となっている。
注釈
- ^ 承認国家が少ない「国」も入れた場合、キプロス島も国連192か国が承認するキプロス共和国、トルコ共和国のみが承認する北キプロス・トルコ共和国、イギリスの海外領土のアクロティリおよびデケリアの3か国の領土がある島となる。
出典
- ^ 要地クチンを占領『朝日新聞』昭和16年12月17日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p451 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 要地クチンを占領『東京日日新聞』昭和16年12月30日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p451)
- ^ “インドネシア、首都移転先はカリマンタン島”. BBC News. BBC. (2019年8月27日) 2022年1月19日閲覧。
- ^ “東カリマンタンへの首都移転、2024年中に開始”. 日本貿易振興機構. (2019年9月3日) 2022年1月19日閲覧。
- ^ “インドネシア議会、首都移転法案を可決 新首都は「ヌサンタラ」”. ロイター. (2022年1月18日) 2022年1月19日閲覧。
- ^ マレーシア政府観光局. “旅の基本情報”. 2014年10月7日閲覧。
- ^ インドネシア共和国観光クリエイティブエコノミー省. “旅の基礎知識”. 2014年10月7日閲覧。
- ^ Visit Malaysia 2014公式サイト. “グヌン・ガディン国立公園”. 2014年10月7日閲覧。
- ^ ホット・スポット 最後の楽園 2015年2月15日
- 1 ボルネオ島とは
- 2 ボルネオ島の概要
- 3 地名
- 4 行政区分
カリマンタン島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:11 UTC 版)
「日本占領時期のインドネシア」の記事における「カリマンタン島」の解説
カリマンタン島の南部では、インドネシア人民族主義者とオランダ人による日本軍への反乱計画が発覚した。これは1943年9月に南カリマンタンのアムンタイ(インドネシア語版)で起こり、イスラーム国家の創設や日本人の追放が含まれていたが、同計画は日本軍によって潰された。1943年に、日本軍は王族の一員であるスルタンのTengku Rachmadu'llahを処刑した。 ポンティアナック事件 1943年から1944年のポンティアナック事件にて、日本軍はカリマンタン島のスルタン全員を含むマレー人エリートおよびアラブ人、華人、インドネシア人、オランダ人、インド人、ユーラシア人の大量逮捕を行った。彼らは日本の統治を倒そうと企てたことで告発され、その後全員処刑された。イスラームのペムダ・ムハマディヤ(インドネシア語版)などの民族集団や組織のすべてが日本軍を転覆させて「西ボルネオ人民共和国(Negara Rakyat Borneo Barat)」を創設する計画に関与していた、と日本軍は主張した。日本軍は 「互いに敵対していたスルタン、中国人、インドネシア政府関係者、インド人、アラブ人が、日本軍を皆殺しにするため一丸となった」と主張し、計画された反乱の首謀者の一人としてポンティアナックのスルタンを名指しした。最大25人の貴族、ポンティアナックのスルタンの親族、ほか多くの著名人が計画の参加者として日本側に名指しされ、その後マンドールにて処刑された。ポンティアナックのほかにも、サンバス、ケタパン、メンパワなど各地のスルタン全員が日本軍に処刑された。この事件は「12Dokoh(ジャワ語で12の垂れ飾り)」として知られている。カリマンタン島西部の海軍特別警察隊による取り締まりの様子は関係者によって記録されている。 日本軍はポンティアナックのスルタンであるシャリフ・モハマド・アルカドリの男性親族28人全員を処刑した。息子であるシャリフ・アブドゥル・ハミド・アルカドリ(英語版)を投獄し、このハミド2世は処刑時期にジャワにいたため、家族の中で殺されなかった唯一の男性となった。日本軍に処刑されたポンティアナックのスルタンの親族29人の中には、王位継承者がいた。1944年後半に、同事件に関与しておりその残虐行為で知られていた、ナカタニという名前の日本人男性をダヤク族が暗殺した。ポンティアナック・モハマド・アルカドリの4番目の息子、ペンゲラン・アゴーンともう一人の息子ペンゲラン・アディパティが、この事件で日本軍に殺害された。日本側は公開処刑にて、この両名を斬首した。 マジャン村戦争 日本軍によるポンティアナックのマレー人エリートの殲滅は、代わりに新たなダヤク族エリート出現の道を作った。メアリー・F・ソマーズ・ヘイドゥーズによると、1945年5月から6月にかけて、サンガウ(英語版)にいた何人かの日本人がダヤク族による反乱で殺害された。ジェイミー・S・デヴィッドソンによると、多くのダヤク族および日本人が殺害された。この反乱は1945年4月から8月にかけて起こり、マジャン村戦争(インドネシア語版、英語版)と呼ばれた。ポンティアナック事件は、学者によって2つの事件に分けられ、異なる日にいくつかの段階で発生した集団殺害や逮捕に従って様々に分類されている。この事件はカリマンタンにいる華人コミュニティに悪影響を与えた。
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