1944年後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 16:04 UTC 版)
1944年(昭和19年)6月の時点で南西方面艦隊に所属し、測量任務に就いていた。1日、マカッサル着。4日測量艇3隻を乗せて同地発、測量を行い8日ソロン着、測量艇1隻を同地に残した。翌9日同地発、14日マカッサルに到着した。17日マカッサル発、19日スラバヤに帰着、同地で整備作業や逆探装備等を行った。 7月4日スラバヤ発、7日バリクパパン着、測量班先発隊と測量艇1隻を降ろした。10日同地発、12日タラカン着、15日同地発、17日バリクパパン着、21日同地発、24日スラバヤに帰着した。 測量機材52トンを搭載し8月8日にスラバヤ発、12日シンガポール着、測量機材を降ろした。以後パレンバンで測量の予定であったが、フィリピン方面で測量を行っていた「第36共同丸」が消息不明となる。このため勝力はブルネイ湾の測量引き継ぎ、マニラへの進出を命令された。便乗者40名や兵器等を搭載しシンガポールを18日発、22日スラバヤ着、マニラへの物品約70トン等を搭載し28日スラバヤ発、30日バリクパパン着。9月1日同地発、12日マニラ湾に入港、直ちに出港しマニラ湾西方で避泊、同地で整備作業を行い16日マニラ港に再度入港した。17日同地で新艦長が着任し、前艦長は退艦、20日測量班員25名と測量艇4隻を収容した。また第36共同丸の生存者9名も勝力に収容された。
※この「1944年後半」の解説は、「勝力 (敷設艦)」の解説の一部です。
「1944年後半」を含む「勝力 (敷設艦)」の記事については、「勝力 (敷設艦)」の概要を参照ください。
1944年後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 01:53 UTC 版)
詳細は「第三十一戦隊」を参照 先のサイパン島地上戦で第二海上護衛隊司令部と第三水雷戦隊司令部(司令官中川浩少将)が全滅したため、日本海軍は第三水雷戦隊の残存艦艇をもとに1944年(昭和19年)8月20日付で第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将)を編制した。第三十一戦隊は対潜掃蕩を主任務とし、連合艦隊に編入された。新編時の戦力は、軽巡洋艦「五十鈴」(旗艦)、第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)、 第43駆逐隊(松、梅、竹、桃)、海防艦(干珠、満珠、笠戸、三宅、第22号)であった。第三十一戦隊は徐々に増強され、10月20日には同戦隊の海防艦4隻(三宅、笠戸、干珠、満珠)で第21海防隊が新編された。 9月上旬、三宅はヒ75船団部隊に加入した。海防艦3隻(干珠、満珠、三宅)は9月7日をもって第一海上護衛隊の指揮下に入る。ヒ75船団部隊(指揮官は第八護衛船団司令官佐藤勉少将)は、軽空母神鷹(第九三一海軍航空隊の対潜哨戒機 14機を搭載)、第30駆逐隊(夕月、卯月)、海防艦(干珠、満珠、三宅)、水上機母艦秋津洲ほか船団10隻という編成だった。9月8日、ヒ75船団部隊は門司を出航する。13日午後2時、台湾高雄に入港。翌14日午後4時、海防艦倉橋など新規加入船をくわえて高雄を出発する。9月17日朝、4隻(西貢丸、秋津洲、夕月、卯月)はヒ75船団部隊から分離、マニラに向かった。9月22日、ヒ75船団部隊はシンガポールに到着した。 帰路のヒ76船団部隊には特設運送艦君川丸、海防艦倉橋と第28号、水雷艇鵯が加わった。10月2日、ヒ76船団部隊(倉橋〈旗艦〉、神鷹、三宅、干珠、満珠、鵯、加入船舶10隻) はシンガポールを出発する。10月6日、君川丸がアメリカ軍潜水艦(ベクーナ)に雷撃されて損傷、マニラに回航された。ヒ76船団北上中の10月10日、アメリカ海軍機動部隊は沖縄諸島に対する大空襲を敢行する(十・十空襲)。ヒ76船団は海南島三亜に退避した。台湾沖航空戦がおわった10月16日、ヒ76船団部隊は海南島を出発したが、米機動部隊によるルソン島空襲をうけて、ふたたび海南島に引き返した。この時、連合艦隊は燃料補給部隊について各方面に内示をおこない(GF機密第161535番電)、三宅に対しては「四 日榮丸、良榮丸及三宅、倉橋、滿珠(何レモ十五日〇八〇〇楡林発馬公回航中)ヲ第一遊撃部隊ニ編入ス」と発令した。10月16日、海防艦満珠と三宅は第一海上護衛隊の作戦指揮を解かれ、第一遊撃部隊(指揮官栗田健男海軍中将・第二艦隊司令長官)に編入された。10月18日午後、ヒ76船団は海南島を出発した。 同18日、大本営は捷一号作戦を発動した。第一遊撃部隊(通称「栗田部隊」または「栗田艦隊」)と第二遊撃部隊(指揮官志摩清英海軍中将・第五艦隊司令長官、通称「志摩艦隊」)に燃料を補給する必要が生じ、タンカーの手配をめぐって大本営陸海軍部は紛糾した。第二艦隊司令長官栗田健男中将はタンカーの確保に追われ、その一環として独断で日栄丸と良栄丸の海南島三亜待機を命じた。最終的にヒ76船団からタンカー4隻(日栄丸、良栄丸、黒潮丸、東邦丸)をひきぬき、遊撃部隊の補給にあてることになった。ヒ76船団は、事実上空中分解した。三宅と満珠は良栄丸を護衛することになり、澎湖諸島馬公へ移動する。同20日0930、馬公に到着し、第二遊撃部隊への補給を実施した。22日0700、栗田長官は補給部隊を編成し、海防艦3隻(倉橋、三宅、満珠)とタンカー2隻(日栄丸、良栄丸)により、第二補給部隊が編成された。10月23日、馬公出航。対潜掃蕩を実施したのち、26日に台湾対岸の厦門市入港。29日、白沙特務艦長加賀山外雄大佐指揮下、三宅と僚艦は特設測量艦(特設工作艦)白沙(ミ23船団として10月27日、馬公着) を護衛して馬公を出発する。当初はボルネオ島ブルネイへの進出を命じられていたが、その後シンガポールに行先変更となった。 11月14日、海防艦3隻(満珠、三宅、笠戸)は第一海上護衛隊の作戦指揮下にもどった。11月17日、三宅は第五護衛船団司令官吉富説三少将(旗艦「香椎」)が率いるヒ80船団部隊に加入し、シンガポールを出発する。12月初旬、ヒ80船団部隊は北九州に到着した。 詳細は「ヒ85船団」を参照 11月20日の時点で、第三十一戦隊は第五艦隊(司令長官志摩清英海軍中将、旗艦「足柄」、第二遊撃部隊指揮官)に編入され、多号作戦部隊に区分されていた。12月5日、第五艦隊は南西方面艦隊に編入される。12月13日から大牟田から高雄へのモタ28船団の護衛に従事。航海中の12月15日、三宅と屋久は第21海防隊からのぞかれ連合艦隊付となった。12月25日、第101戦隊司令官渋谷紫郎少将(旗艦「香椎」)が指揮するヒ85船団部隊(陸軍特殊船神州丸ほか)が台湾高雄市に到着した。ここでシンガポール行のヒ85船団部隊本隊と、ルソン島行の陸軍船団に分離する。12月26日、海防艦(三宅、能美、他4隻)と陸軍特殊船4隻(神州丸、日向丸、吉備津丸、青葉山丸)はタマ38船団部隊として高雄を出発した。29日、ルソン島サンフェルナンド(北サンフェルナンド)着。12月30日、空襲により第20号海防艦や青葉山丸沈没等の損害が出るが、三宅に被害はなかった。
※この「1944年後半」の解説は、「三宅 (海防艦)」の解説の一部です。
「1944年後半」を含む「三宅 (海防艦)」の記事については、「三宅 (海防艦)」の概要を参照ください。
- 1944年後半のページへのリンク