ソビエト赤軍とNKVD
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:03 UTC 版)
「ソビエト連邦による戦争犯罪」の記事における「ソビエト赤軍とNKVD」の解説
「カティンの森事件」も参照 「内務人民委員部による捕虜虐殺」も参照 赤軍は、政治的抑圧を実施していた内務人民委員部(NKVD)の支援を頻繁に行った。NKVDの主たる機能はソ連各州の安全を保護することであり、これは「階級の敵」に対する大規模な政治的抑圧によって達成されていた。ソビエト連邦の歴史を通じ、NKVD軍は、治安部隊とグラグの看守として、交戦期間中の戦争犯罪と同様に政治的抑圧においても役割を果たしていた。特に彼らはグラグの統制維持に責任を有し、ソビエト連邦が政策に敵対的で敵と協力する可能性があると見なした複数の民族集団の集団追放と強制移住を行った(チェチェン人、クリミア・タタール人、朝鮮民族(高麗人)等)。 第二次世界大戦中、NKVDによるヨーロッパ東部、主にポーランド、バルト諸国、ルーマニア、ウクライナ等における囚人の大量処刑が行われている。これは1941年、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動してソ連領内に侵入後、赤軍が撤退する際に行ったものである。犠牲者は全体で約100,000名と推測されている。ソ連軍による戦争犯罪の指摘は多く、とりわけ戦争初期および戦闘中に漸次捕虜となったドイツ空軍パイロットを対象としたものが指摘されることが多い。これはドイツ空軍の無差別爆撃によって民間人の大規模な犠牲が生じていたという要因がある。NKVD治安部隊はソビエト赤軍部隊ととも戦闘に参加し、督戦隊を含めて後方地域保全に用いられた。ソビエト赤軍に解放、もしくは占領された地域においてNKVDは大量の検挙、追放、および処刑を行った。対象者は対独協力者や非共産主義レジスタンスであり、ウクライナにおけるUPA、リトアニアの「森の兄弟」、ポーランド国内軍などであった。またNKVDは1939年から1941年の間、ポーランド軍将校捕虜の即座処刑を行っている(カティンの森事件)。 ドイツ軍をソ連領域から排斥した後の1944年後半、ソビエト赤軍はドイツ、ルーマニア、ハンガリーに侵入した。ソビエト赤軍将兵はナチス・ドイツの戦争犯罪を認識していたため、報復として降伏もしくは拘束されたドイツ将兵の処刑を頻繁に行った。略奪、民間人の殺害、強姦といったソビエト赤軍による戦争犯罪について多数の報告が存在しているが、「大祖国戦争」についてのソ連、ロシアの歴史書でこれらの戦争犯罪が言及されることは稀である。 1939年から1941年の間のソ連占領地域(ルーマニアのベッサラビア、バルト諸国、およびウクライナ西部)での民間人および捕虜に対する戦争犯罪、そして1944年から1945年の間の戦争犯罪は、それ以来、これらの地域において忘れられることはなかった。ソ連崩壊以後にはこれらの出来事に関してより体系的かつ地域主導の議論が行われており、これはソ連が1945年8月に日ソ中立条約の継続を拒否した後に占領した満州、千島列島についても同様である。
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