ソビエト赤軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 08:08 UTC 版)
ウラヌス作戦は11月17日まで延期されていたが、ゲオルギー・ジューコフは空軍の準備ができていないと判断、さらに2日延期を提案、結局、作戦は19日に発動された。前線に配属されていたルーマニア軍のゲルハルト・シュテック(Gerhard Stöck)中尉は、19日朝午前5時、その日起こることとなったソビエト赤軍の反撃の情報を掴んだ。しかし、早朝5時という時間であったため、誤情報で司令官を起こすことを恐れ、受信した情報をルーマニア軍の情報将校へ流すことを行わなかった。一方、ソビエト赤軍司令官は濃霧のために視界不良となっていたため、攻撃開始前の準備砲撃を延期することを提案したが、前線司令部はそれを拒否した。 午前7時20分(モスクワ時間、ドイツ時間は午前5時20分)、ソビエト砲兵部隊指揮官は作戦発動の暗号、「サイレン(siren)」を受信、それから80分にわたって攻撃地点のドイツ軍へ砲撃を続けた。約3,500門の砲門がルーマニア第3軍とドイツ第6軍の北方側面へ砲撃を行った。当日は濃霧のため、着弾地点の修正ができなかったが、前々から準備していたため、ドイツ軍陣地を正確に把握しており、確実な砲撃を行った。その砲撃のために、ドイツ軍の通信回線が破壊されたため、その砲撃の効果はさらに高まり、弾薬集積所、前線の観測所などが破壊された。その後、この砲撃を乗り切った多くのルーマニア兵たちが、退却を始めていた。さらに退却するルーマニア軍へ砲撃を行い、ソビエト赤軍砲兵部隊はルーマニア軍砲兵陣地、及び第2防衛線を目指して砲撃を続けた。
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