ベルリン市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 05:22 UTC 版)
ベルリン市街戦(ベルリンしがいせん、英: Battle in Berlin)は、ベルリンの戦いにおける一方面の戦いである。ベルリンの戦いは第二次世界大戦における終末期のナチス・ドイツと連合国との間における支配地をめぐる戦いで、本市街戦はその局地戦のひとつであった。ソ連赤軍3方面軍によるベルリン占領まで続いた。ドイツ軍にとっては戦いの初期段階ですでに絶望的な状況であったにもかかわらず、赤軍が市の中央部に進撃するためには通りごとに多大な犠牲を払わなければならなかった。ベルリン攻防戦(ベルリンこうぼうせん)とも呼ばれる。
注釈
- ^ ライマンからベルリン防衛軍司令官を引き継いだがエルンスト・ケーターが1日で解任されたため、その後任にヴァイトリングが任命されたが、その間をエーリッヒ・ベーレンフェンガーが代理を務めたとする説もある。
- ^ 45,000 人のほとんどが、ゼーロウ高地の戦いで第9軍に所属していた第LVI装甲軍団の所属であった。
- ^ Dollingerによると、ヴァイトリングは4月26日までベルリン防衛軍司令官には任命されていないとする。ただし、ビーヴァーによれば4月23日任命されたとしている[8]。また、高橋慶史によれば4月25日となっている[9]。ここでは英語版に従い、26日とする。ソビエト赤軍がベルリン市内に進撃し始めた4月23日、ヴァイトリングが司令官を務める第56装甲軍団は武装SSと国防軍の正規兵で再編成された。
- ^ ソ連はドイツ軍の兵力を180,000と推測していたが、これは捕虜としてソ連に運ばれた数であり、武装していない鉄道員や国家労働奉仕団員などが含まれている[1][10][11]。
- ^ 急造バリケードのほとんどが戦闘の最初にまず吹き飛ばされた[14]。また、ベルリン市民の間ではソビエト赤軍がバリケードを突破するのに2時間15分かかるが、大笑いするのに2時間、突破するのに15分として皮肉っていた[15]。
- ^ この出来事は、死者数と発生日について論議されている。Beevor はヒトラー死後の5月1日、クルッケンベルクに命令が下され、「ノルトラント」の工兵が行ったとしており、少なくとも5月2日の早朝までには爆発させただろうとしている[45][46]。Hamilton によれば、運河の決壊はソビエト赤軍による重砲撃とロケット砲攻撃によるところが大きいだろうとしている。また、重要なこととして、トンネルは司令部との連絡や病院、防御拠点として有効活用され、その上、ソビエト赤軍を奇襲するための迅速な行動が行える通路としており、武装SSもトンネルに司令部を置いた。よって、武装SSがトンネルを崩壊させることは無意味としている[47]。いずれにしろ、ソビエト赤軍は「ノルトラント」のフランス人義勇兵の待ち伏せ攻撃を受ける前にヴィルヘルム街のUバーンの駅に到着した3両のT-34で攻勢を続けたが、結局、フランス人義勇兵に阻止された[48][49]。
- ^ 帝国議会議事堂からは600m、ゲシュタポ本部からは2kmほどの距離である。
- ^ 空軍に対する命令については諸説ある。Beevorによればポツダム広場となっているが、 Ziemkeによればヴェンクの第12軍の攻撃を支援するよう命令されたとしている。ただし、ヒムラー逮捕の確認については両者は同じ意見である。
- ^ The Last Days of Hitler によれば遺書を口述筆記した後、結婚したとされている[60]。
- ^ Dollinger (p.239) によればヨードルが応答したとされる。しかしZiemke (p.120) と Beevor (p.537) によるとカイテルになっている。
- ^ Dollinger (p.239) によれば午前3時、 Beevor (p.367)によれば午前4時にクレープスはチュイコフと面会しているとされる[83]。
- ^ 資料によっては、ヴァイトリングは脱出命令を出していないとされる[93]。
出典
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ベルリン市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 15:26 UTC 版)
「ハンス=イェスタ・ペーアソン」の記事における「ベルリン市街戦」の解説
「ベルリン市街戦」も参照 1945年4月、第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」はベルリンの戦いに参加し、廃墟と化したベルリン市内でソビエト赤軍と市街戦を繰り広げた。この時、ペーアソンは4月15日付でSS大尉(SS-Hauptsturmführer)に昇進しており、また、4月17日からは「ノルトラント」師団司令部付の情報将校(Ic)を務めていた。 その期間中、ペーアソンは師団長のヨアヒム・ツィーグラーSS少将から休暇を与えられ、残留スウェーデン人の送還への援助を拒否するかどうか、スウェーデン大使館に様子を探りに行くよう指示された。 1943年に武装親衛隊に移籍するまでは国防軍の参謀将校であったツィーグラーSS少将は、狂信とは無縁のリアリストであり、これ以上の戦闘が無意味であることを理解していた。既に4月中旬にフェリックス・シュタイナーSS大将と秘密裏に連絡を取っていたツィーグラーは、「ノルトラント」師団の将兵や外国人義勇兵をベルリンから脱出させてシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ向かわせようと画策した。しかし間もなく、ツィーグラーは総統アドルフ・ヒトラーの命令によって「ノルトラント」師団長の職を解任された上で総統官邸に軟禁された。ツィーグラーの計画に協力したペーアソンも身柄を拘束されたものの、(詳細は不明であるが)ペーアソンは釈放された。 1945年4月25日、再び中隊長として古巣の第11SS装甲偵察大隊第3中隊に戻ったペーアソンは、ヴィルヘルム・モーンケSS少将(SS-Brigf. Wilhelm Mohnke)が指揮を執る総統官邸守備隊に4月27日付で編入された。ペーアソンはフランツ・ベレズニャークSS伍長とともに、3輌のSd Kfz 250をもって各部隊の連絡役を務めた。 5月1日、ペーアソンは民間人の服を着てティーアガルテンにあるスウェーデン大使館地下壕に赴き、自分も含めた武装親衛隊スウェーデン人義勇兵の生存者の保護を求めた。当時、スウェーデン大使館で牧師を務めていたエリク・ミルグレン(Erik Myrgren)は、戦後の1993年のインタビューでこの時のことを次のように述べている。 「 スウェーデン人SS兵士たちの保護を求めて大使館の地下壕に現れた1人のスウェーデン人SS将校の話により、ヒトラーが自殺したという知らせがもたらされました。この将校(民間人の服を着た、痩せ型で黒髪の将校)の名はペーアソンといいました。彼と彼の中隊は(市街戦の)最後の局面で総統官邸の援護を担当しており、また、彼は作戦会議で総統官邸に赴いた際に総統の死を知らされたそうです。こうして、我々のグループ(スウェーデン大使館)はこの知らせ(アドルフ・ヒトラーの死)を、それが公式に発表されるよりも早く入手しました。 」 しかし、ペーアソンの期待もむなしく、スウェーデン大使館の外交官はペーアソンの要求を拒否した。やむをえずペーアソンは再び軍服に着替え、戦闘に戻った。ペーアソンは戦後(1945年10月)の供述の中で、ベルリン市街戦で兵士たちが最後まで戦い続けた理由の1つを次のように説明している。 「 これらの日々の中で、ゲシュタポは兵士たちに耐え難い重圧を絶え間無くかけ続けていた。信頼できない(戦おうとしない)と判断された将兵がいきなり警察部隊によって拘束・連行され、審理を経ずに射殺されることも頻繁にあった。 」
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「ベルリン市街戦」を含む「ハンス=イェスタ・ペーアソン」の記事については、「ハンス=イェスタ・ペーアソン」の概要を参照ください。
ベルリン市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 18:30 UTC 版)
「ヴィルヘルム・ブルクドルフ」の記事における「ベルリン市街戦」の解説
1945年4月24日に総統地下壕で行われた作戦会議ではヒトラーに対し、フェリックス・シュタイナーの進撃を断念するように言ったが断られた。また、ソ連軍と単独で降伏交渉を行なおうとしたハンス・フリッチェを「総統の命令に違反した」として国民啓蒙・宣伝省まで押しかけ、フリッチェを殺害しようとしたが未遂に終わっている。 4月28日にハインリヒ・ヒムラーが連合国と独断で和平交渉を行おうとしていたことが発覚し、ヒトラーはヒムラーの側近であるヘルマン・フェーゲラインを裁くため、ブルクドルフ、ハンス・クレープス、ヨハン・ラッテンフーバー、ヴィルヘルム・モーンケを臨時軍事法廷の判事に任命した。しかし、フェーゲラインは泥酔状態で泣き喚き嘔吐するなどしたため、モーンケの主張を受けて裁判は中止され、フェーゲラインはラッテンフーバーに引き渡された。その後、フェーゲラインはペーター・ヘーグルにより処刑された。 4月29日、ヒトラーの政治的遺書の立会人として、クレープス、ヨーゼフ・ゲッベルス、マルティン・ボルマンと共に署名した。ヒトラーの自殺後、地下壕からは脱出者が相次いだが、ブルクドルフは地下壕に残り、5月2日に地下壕の倉庫でクレープスと共に自殺した。二人の遺体は地下壕に突入したソ連軍により発見された。
※この「ベルリン市街戦」の解説は、「ヴィルヘルム・ブルクドルフ」の解説の一部です。
「ベルリン市街戦」を含む「ヴィルヘルム・ブルクドルフ」の記事については、「ヴィルヘルム・ブルクドルフ」の概要を参照ください。
ベルリン市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:43 UTC 版)
「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「ベルリン市街戦」の解説
「ベルリン市街戦」も参照 1945年4月26日朝、「ノルトラント」師団第11SS戦車大隊「ヘルマン・フォン・ザルツァ」所属のティーガーII重戦車の支援を受けたフランスSS突撃大隊は、テンペルホーフ空港近くのノイケルンで反撃を開始した。ベルリン市街の道路を進む彼らの前にはソビエト赤軍の戦車、対戦車砲、PM1910重機関銃、迫撃砲、狙撃兵が待ち構えていた。たちまち激戦が繰り広げられ、パンツァーファウストでT-34戦車を撃破する武装親衛隊フランス人義勇兵、そしてその彼らを的にしたソビエト赤軍狙撃兵によって双方の被害は甚大なものとなった。 ノイケルンの戦い(ベルリン市街戦の中でもソビエト赤軍が後退を余儀なくされた稀有な戦い)でフランス人義勇兵たちが「鉄クズ」にしたT-34戦車は14輌 を数え、ソビエト赤軍将兵の死傷者は数え切れないほどであったが、フランスSS突撃大隊も150名~200名の将兵を失った。 ベルリン市街戦におけるドイツ軍の防衛線は4月28日までに著しく縮小したが、その一方でソビエト赤軍の戦車約108輌がベルリン南東部のSバーン防衛線内で撃破されており、それらのうち62輌はアンリ・フネSS義勇大尉が指揮するフランスSS突撃大隊の攻撃によって撃破されたものであった。フネと彼の大隊は各拠点の防衛のために、ノイケルン、ベレ=アリアンス・プラッツ(Belle-Alliance-Platz, 現メーリンクプラッツMehringplatz)、ヴィルヘルム通り(Wilhelmstraße)、フリードリヒ通り(Friedrichstraße)などを絶え間なく転戦した。
※この「ベルリン市街戦」の解説は、「第33SS武装擲弾兵師団」の解説の一部です。
「ベルリン市街戦」を含む「第33SS武装擲弾兵師団」の記事については、「第33SS武装擲弾兵師団」の概要を参照ください。
ベルリン市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 17:44 UTC 版)
詳細は「ベルリン市街戦」を参照 4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるかわからない状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。ナチス党員は降伏すれば即決裁判で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くの赤軍将兵を道連れにすることを考えていた。ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたため、ドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた。 赤軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くはベルリン市内のティーアガルテン、フンボルトハイン市民公園(ドイツ語版)、フリードリヒスハイン市民公園(ドイツ語版)の3箇所に建てられた高射砲塔(通称「G塔」、詳細はベルリンの高射砲塔(ドイツ語版)を参照)をはじめ、軍が構築したコンクリート製の大型防空壕や、地下鉄の駅構内、下水道、個人宅の庭に掘った防空壕、個人宅の地下室など、身を潜められる所にはどこでも避難したが、動くことすらままならず水道も断水され衛生状況は悪かった。 そのうち送電が断たれたためラジオ放送すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐアメリカ軍が救援のために味方してくれるなどの信憑性に乏しい噂が流れた。戦争の終盤になってもナチスの宣伝省は相変わらず愛国のために徹底抗戦を訴えるプロパガンダを放送していたが、多くの市民にとっては既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。白旗を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなければソビエト兵に殺される状態であり、もはや助かる道はアメリカ軍に降伏する以外になかった。 戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵で一杯になった。医薬品も麻酔薬も不足していたため、負傷兵は傷を負ったまま放置された。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒されたため、ある野戦病院では看護婦がシーツと口紅で赤十字の旗を作って掲げたが、旗の意味を理解できないか、意図的に無視した等の理由により赤軍の砲撃が止む事はなかった。生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している。
※この「ベルリン市街戦」の解説は、「ベルリンの戦い」の解説の一部です。
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