クールラントとは? わかりやすく解説

クールラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 01:09 UTC 版)

クールラントの範囲、リヴォニアとリトアニアに挟まれた地域
ラトビアに残るクールラント公国の宮殿
1740年のクールラント公国(中央・薄い黄色)

北にロシア帝国(黄緑)、東にポーランド領リヴォニア(濃いオレンジ)、南にはリトアニア大公国(薄いオレンジ)がある

クールラントドイツ語:Kurland、ラトビア語:Kurzeme)は、現在のラトビア西部地方の旧名。16世紀から18世紀にかけ、小規模なバルト・ドイツ人国家クールラント公国が存在した。

歴史

クール人

リヴォニア地方の中西部に位置し、古くからバルト語系ラトビア人が居住していた。その語源は支族クール人に由来する。スウェーデンに伝わるサガには、ヴァイキングが9世紀まで支配したとあるが定かでない。

テッラ・マリアナ

13世紀始めにドイツから攻め込んだリヴォニア帯剣騎士団に征服され、1237年にドイツ騎士団領に吸収された。また沿海地域の一部にはクールラント司教区が設置された。クールラントはリヴォニアの他地域と同じくドイツ人の入植地となり、入植者とその子孫はバルト・ドイツ人と称された。その社会構造は、バルト・ドイツ人の支配階層がラトビア人農民を支配する、典型的な植民地型である。この構造は20世紀に至るまで長く続いた。

1525年プロイセン地域のドイツ騎士団領が単独で世俗化し、リヴォニア地域の分団であったリヴォニア騎士団は孤立した。

クールラント公国

クールラントは1561年に世俗国家を形成する。イヴァン4世モスクワ大公国の脅威に対抗するため、リヴォニアの騎士団は1561年、ポーランド王ジグムント2世に臣従して世俗化し、プロテスタント領邦国家クールラント公国となった。時の団長ゴットハルト・ケトラー(初代、在位1561年 - 1587年)の子孫が公位を継承し、首都はミタウ(現在のイェルガヴァ)及びゴルディンゲン(現在のクルディーガ)に置かれた。国政は公爵と貴族との合議によって進められた。多くの旧騎士団領が近隣国家に分割されていく中で、公国は長期にわたるリヴォニア戦争1558年1583年)を生き延びた。

16‐17世紀にかけてバルト帝国を形成していたスウェーデンと、ポーランド・リトアニア共和国の盟主ポーランド王国との対立の中で、主な係争地帯リヴォニアにおける緩衝国家として機能した。広大な公爵直轄領における農業経営を成功させ、通商や産業の発展に努め、17世紀中葉までには経済的繁栄を達成していく。第4代公爵ヤーコプ・ケトラー(在位1642年 - 1682年)の時代になると、一時は西アフリカの聖アンドレ島カリブ海トバゴ島を植民地とした。しかし17世紀後半には、再びバルト海の覇権をめぐる国際戦争に巻き込まれ、衰微していった。また歴代公爵による宮殿や庭園、温室などの贅を尽くした建築事業も国庫を圧迫した。

17世紀の北方戦争大洪水時代)と18世紀の大北方戦争1700年 - 1721年)で一時スウェーデンに占領された。第6代公爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー(在位1698年 - 1711年)は1710年、ピョートル大帝の姪アンナ・イヴァノヴナを妻に迎えた。この第6代当主は翌年子供のないまま急死したが、アンナはそのまま公国の主権者(1711年 - 1730年)となった。アンナは1730年にロシア女帝となったため、フェルディナント・ケトラー(在位1731年 - 1737年)に統治を任せた。女帝アンナの治世間に、弱体化したポーランド・リトアニア共和国の宗主権が形骸化する中で、公国は実質的にロシア帝国の版図に組み込まれた。またアンナは建築家ラストレッリに命じて、ロシア・バロック様式の壮麗な宮殿群を建築させた。1737年ケトラー家が断絶すると、アンナはクールラント出身の寵臣エルンスト・ビロン(在位1737年 - 1741年、1763年 - 1769年)に公国を継承させている。

ロシアによる併合

やがてロシア帝国が強大化し、1795年の第3次ポーランド分割により、正式にロシアに併合されてクールラント県ロシア語版英語版とされた。

18世紀末、首都ミタヴァМитава)の公爵宮殿には、フランス革命の難を逃れたルイ18世の亡命宮廷が一時的に滞在していた。19世紀は家畜繁殖や乳製品の生産で知られた。

第一次世界大戦中

ラトビア

1920年8月、民族国家ラトビアが共産化したロシア(ソ連)から独立するとその一部となり、現在に至っている。

第二次世界大戦中

第二次大戦中、ドイツ軍北方軍集団はヒトラーの死守命令によってクールラントに孤立状態で取り残された。これはクールラント・ポケットと呼ばれ、孤立したドイツ軍はクールラント軍集団に再編成された。


クールラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)

マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「クールラント」の解説

1799年春、叔父ルイ18世亡命ロシア領クールラントのミタウ城(英語版)に到着した。彼女は父ルイ16世処刑立ち会ったエッジワース神父対面したが、神父涙ぐみ言葉にならなかった。マリー・テレーズ同年6月10日アングレームルイ・アントワーヌ結婚した結婚祝いルイ18世は、ルイ16世夫妻結婚指輪マリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦抱き合って泣いた当時ロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りロシア結婚証明書豪華なダイヤモンドアクセサリー一式ほか、金がつまった財布帽子ガウンなど山ほど贈り物持たせたマリー・テレーズ勇気褒め称えフランス帰国できるまでロシア滞在認め手紙添えられていた。彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べたこの頃マリー・テレーズについてルイ18世は「両親それぞれに似ており、身長母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。軽やかに優雅に歩き悲運を語る時も涙は見せない善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世宛ての手紙で評した。この結婚アングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったとの説もある[要出典]。 アングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望み1800年4月ナポレオン第2次イタリア戦役開始すると、コンデ公と共に戦うためミタウ去った夫婦愛し合っていたがイギリス合流するまで、この時から長年離れて生活せねばならなくなる。5月ミタウ訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力感じられず、結婚生活不幸なのではと考えたその後父の処刑賛成票を入れたオルレアン公フィリップ・エガリテ)の長男ルイ・フィリップ(後のフランス王)が訪ねてきたが、マリー・テレーズ面会すら拒んだ1801年1月22日ルイ18世パーヴェル1世よりロシア領からの退去命令下されマリー・テレーズにはサンクトペテルブルク自分の客として過ごすよう薦めた。しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車一行加わった真冬ロシアら行き先も決まらない旅に備え家具売却して金策した。旅費乏し極寒の旅の最中ルイ18世秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父自殺する最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を言い残す聖職者密かな恋を知りマリー・テレーズショックを受ける。 ルイ18世プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世滞在許可求め手紙送りメーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオン刺激したくないのでフランス許可先に待つという返事受け取る。マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王ルイーズからサンクトペテルブルク安全な所を提供されるが、「叔父見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断ったその後ルイーズ王妃手紙で「ナポレオンルイ18世リル伯爵マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人名乗る条件付きで、この一家側近ワルシャワ滞在許可出した」と伝えその後も王に代わりフランス亡命宮廷のためにナポレオン各国の王族との交渉重ねてマリー・テレーズ頼れるとなった

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