クンタ・キンテ島とは? わかりやすく解説

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クンタキンテ‐とう〔‐タウ〕【クンタキンテ島】


クンタ・キンテ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 08:04 UTC 版)

クンタ・キンテ島(Kunta Kinteh Island)は、ガンビアジュフレアルブレダに近いガンビア川に浮かぶで、ガンビア川の河口から30km上流にある。かつては、ジェームズ島という名であった。




  1. ^ a b Hughes & Gailey (1999) pp.54-55
  2. ^ ライス (1968) p.53
  3. ^ Hughes & Gailey (1999) p.150
  4. ^ Hughes & Gailey (1999) p.75
  5. ^ a b c The Gambia (2001) pp.20-21
  6. ^ Hughes & Gailey (1999) p.160
  7. ^ Hughes & Gailey (1999) p.53
  8. ^ ライス (1968) p.69
  9. ^ NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー [ジェームズ島と関連遺産](2011年10月20日閲覧)


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クンタ・キンテ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 21:07 UTC 版)

クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の記事における「クンタ・キンテ島」の解説

詳細は「クンタ・キンテ島」を参照 クンタ・キンテ島(旧ジェームズ島世界遺産登録ID 761-001)は、この世界遺産中心的な構成資産となっている小島で、世界遺産としての登録面積は 0.35 ha である。 ガンビア川河口から30 km位置に浮かぶ中島で、現地民の口承によればヨーロッパ人たちの到来前は釣り人たちが一休みするのに使っていた場所だったという。 ガンビア川前述のようにかなり上流まで外洋船が遡上できる川であり、そこでの交易拠点として、島の所有権争われた。ガンビア川流域では16世紀半ば英仏相次いで交易参入しても、恒常的な交易拠点建設されることはなかった。最初にそれを達成したのはクールラント・ゼムガレン公国である。クールラント人たちは1651年にこの島を、地元小王であったバラ (Barra) の王から借り受けたバラの王はこうした賃貸売買契約様々な相手に何重に繰り返しており、これもその一つに過ぎなかったが、クールラント公国はこの契約根拠積極的に島に進出した。 同じ年に彼らは島を聖アンデレ島名付け要塞築き始めた。しかし、すぐに短期間オランダの手渡り1661年にはイングランド攻囲し占領した1664年クールラントから正式に譲渡されたその島を、イギリス人たちはヨーク公ジェームズにちなんジェームズ島改称した。 それ以後ヨーロッパ諸国植民地戦争影響受けて、島とそこに築かれ要塞所有権イギリスフランスオランダなどの間で揺れ動き度重なる攻防によって要塞7度もの破壊と再建繰り返した。なお、この島の要塞真水補給などを考慮せず建てられていて、対岸からを運ばなければならないなどの不便さ伴っており、風土病存在とも相俟って平時であっても死亡率の高い環境であった例えば、1721年アフリカ会社から派遣されて島にたどり着いた60人の男性は、7か月全滅した。常にそこまで酷かったわけではないにせよ、配置され兵員寿命数年程度だったといわれている。 そして、要塞1779年フランス軍破壊したのを最後に再建されることはなかった。島はその後もしばらくは利用されたが、修復不可能な状態になった上に拠点としての重要性失われたため、1815年には完全に放棄された。島が放棄された後にバオバブ生い茂るようになり、ペリカン生息地にもなっている。世界遺産推薦書作成され2001年時点では、島に定住者はいない。 島に残るジェームズ要塞は、1654年クールラント人が建造したのである当初の名前はクールラント公ヤーコプ・ケトラーにちなんでヤーコプ要塞とされていたが、イギリス人奪取した後に現在の前になった。現存している要塞遺構は、方形四隅見張り塔設置されており、塔と塔の間には防壁張り巡らされている。防壁と塔の高さは5 m で、後述するバレン要塞よりも高い。 島にはその要塞のほか、奴隷貿易が行われていた頃に、船出前の奴隷たちを収容していた施設など遺構残っている。先述した『ルーツ』のクンタ・キンテも、船出前にこの島に移送された。ガンビア政府はその名をとって、2011年2月6日ジェームズ島をクンタ・キンテ島と改名した。 島には厨房鍛冶場貯蔵庫跡なども当時のまま残っているが、他方で、航海灯奴隷小屋レプリカトイレ施設旗竿などは、20世紀以降整備される中で追加されたものであるガンビア政府はこの島を奴隷貿易開始とその拡大様子伝え資産一つ位置付けて世界遺産の構成資産含めたまた、アフリカの地を二度と踏むことができなかった人々にとって、船出前に見た最後光景がこの島の景色だったはずという点からも、大西洋奴隷貿易伝え文化遺産の中で特殊な位置占めているとした。

※この「クンタ・キンテ島」の解説は、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の解説の一部です。
「クンタ・キンテ島」を含む「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の記事については、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の概要を参照ください。

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