クンタキンテ‐とう〔‐タウ〕【クンタキンテ島】
クンタ・キンテ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 01:36 UTC 版)
クンタ・キンテ島 | |
名の由来 | クンタ・キンテ(小説『ルーツ』) |
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地理 | |
座標 | 北緯13度19分03秒 西経16度21分41秒 / 北緯13.31750度 西経16.36139度座標: 北緯13度19分03秒 西経16度21分41秒 / 北緯13.31750度 西経16.36139度 |
隣接水域 | ガンビア川 |
面積 | 0.0035 km2 (0.0014 sq mi) |
行政 | |
州 | ノースバンク地方 |
クンタ・キンテ島(Kunta Kinteh Island)は、ガンビアのジュフレやアルブレダに近いガンビア川に浮かぶ島で、ガンビア川の河口から30km上流にある。かつては、ジェームズ島という名であった。
ジェームズ要塞という要塞があり、川の北岸にあるアルブレダやジュフレからは数キロメートル程度である。この島はかつて西アフリカの奴隷貿易の拠点となっていた場所で、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
歴史
イギリス人たちは16世紀にガンビア川流域に進出したが、恒常的な拠点は築いていなかった。それに対し、この島に最初に入植したヨーロッパ人はクールラント公国のバルト・ドイツ人たちだった。
彼らが植民地化するよりも前に、イングランド王権によって1588年と1618年に2つの会社に対して承諾が与えられていた。それに対し、バルト・ドイツ人たちは1651年にこの島を、地元の小王国であったバラ (Barra) の王から借り受けた[1]。バラの王はこうした賃貸や売買の契約を様々な相手に繰り返しており、これもその一つに過ぎなかった[2]。
クールラント公はこの島を聖アンデレ島と名付け、1651年には、クールラント公ヤーコプ・ケトラーにちなんでヤーコプ要塞と名付けた要塞を建造し、貿易拠点として利用した。
その後、クールラント公の失墜に乗じて公国領を代理保護するという名目で、短期的にオランダが掌握した(1659年 - 1661年)。しかし、オランダと対立していたイングランドがそれを奪い、1664年にクールラント公国から正式に譲渡された[1]。
イギリスはヨーク公ジェームズにちなんでこの島をジェームズ島、ヤーコプ要塞をジェームズ要塞とそれぞれ改称した。島の統治は、勅許を得た王立アフリカ冒険商人会社 (Royal Adventurers of England Trading into Africa) に委ねられた[3]。同社は主に、この島を象牙や黄金の交易に利用し、後には奴隷貿易に利用した。1669年8月1日には、独占権はガンビア冒険商人会社 (Gambia Adventurers) に又貸しされ[4]、1684年には王立アフリカ会社の手に移った。
1695年にはジェームズ要塞は戦闘の末にフランスの手に渡った。イギリスは1697年に奪還したものの、1702年に再び奪われた。この時期には英仏間の戦闘や海賊の襲撃などによって、ジェームズ要塞は破壊と再建を繰り返した[5]。
1750年には、ガンビアの行政権は王立アフリカ会社の後継に当たるアフリカ商人会社 (the Company of Merchants Trading to Africa) が受け持つこととなった。1765年5月25日から1779年2月11日までは、ジェームズ島のイギリス領のセネガンビア州の一部だった。1779年にフランス軍によって、ジェームズ要塞は徹底的に破壊され、それ以降は再建されることはなかった[6][5]。
1783年のヴェルサイユ条約によって、ジェームズ島(および他のガンビア川沿岸地域)がイギリスに帰属することになったが[7]、要塞を破壊しつくされた島は1815年に完全に放棄され、その後は定住者もいなくなっていた[5]。ガンビアの独立(1965年)から間もない頃には、要塞は野草に覆われ、大砲も錆びて廃れていたというが[8]、その後、史跡に指定され、現在ではかつての奴隷貿易の拠点として、世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」に含まれている。
アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』と、それを原作とするテレビドラマによって、ガンビアの奴隷貿易は広く知られるようになったが、それらにおいてヘイリーの先祖として描かれたクンタ・キンテも、かつてはジェームズ島から奴隷として出航させられたという[9]。そのクンタ・キンテにちなみ、2011年にジェームズ島はクンタ・キンテ島と改名された。
脚注
参考文献
- The Gambia (2001), James Island and Related Sites (PDF) (ガンビア政府による登録推薦書)
- Arnold Hughes & Harry Gailey (1999), Historical Dectionary of The Gambia, Third Edition, London ; The Scarecrow Press
- バークレー・ライス (1968) 『愉快なガンビア建国記』 杉辺利英 訳、朝日新聞社
関連項目
外部リンク
クンタ・キンテ島
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「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の記事における「クンタ・キンテ島」の解説
詳細は「クンタ・キンテ島」を参照 クンタ・キンテ島(旧ジェームズ島、世界遺産登録ID 761-001)は、この世界遺産の中心的な構成資産となっている小島で、世界遺産としての登録面積は 0.35 ha である。 ガンビア川の河口から30 km の位置に浮かぶ中島で、現地民の口承によれば、ヨーロッパ人たちの到来前は釣り人たちが一休みするのに使っていた場所だったという。 ガンビア川は前述のようにかなり上流まで外洋船が遡上できる川であり、そこでの交易の拠点として、島の所有権が争われた。ガンビア川流域では16世紀半ばに英仏が相次いで交易に参入しても、恒常的な交易拠点が建設されることはなかった。最初にそれを達成したのはクールラント・ゼムガレン公国である。クールラント人たちは1651年にこの島を、地元の小王国であったバラ (Barra) の王から借り受けた。バラの王はこうした賃貸や売買の契約を様々な相手に何重にも繰り返しており、これもその一つに過ぎなかったが、クールラント公国はこの契約を根拠に積極的に島に進出した。 同じ年に彼らは島を聖アンデレ島と名付け、要塞を築き始めた。しかし、すぐに短期間オランダの手に渡り、1661年にはイングランドが攻囲し、占領した。1664年にクールラントから正式に譲渡されたその島を、イギリス人たちはヨーク公ジェームズにちなんでジェームズ島と改称した。 それ以後、ヨーロッパ諸国の植民地戦争の影響を受けて、島とそこに築かれた要塞の所有権はイギリス、フランス、オランダなどの間で揺れ動き、度重なる攻防によって要塞は7度もの破壊と再建を繰り返した。なお、この島の要塞は真水の補給などを考慮せずに建てられていて、対岸から水を運ばなければならないなどの不便さを伴っており、風土病の存在とも相俟って、平時であっても死亡率の高い環境であった。例えば、1721年にアフリカ会社から派遣されて島にたどり着いた60人の男性は、7か月で全滅した。常にそこまで酷かったわけではないにせよ、配置された兵員の寿命は数年程度だったといわれている。 そして、要塞は1779年にフランス軍が破壊したのを最後に再建されることはなかった。島はその後もしばらくは利用されたが、修復不可能な状態になった上に拠点としての重要性が失われたため、1815年には完全に放棄された。島が放棄された後にバオバブが生い茂るようになり、ペリカンの生息地にもなっている。世界遺産推薦書が作成された2001年時点では、島に定住者はいない。 島に残るジェームズ要塞は、1654年にクールラント人が建造したものである。当初の名前はクールラント公ヤーコプ・ケトラーにちなんでヤーコプ要塞とされていたが、イギリス人が奪取した後に現在の名前になった。現存している要塞の遺構は、方形で四隅に見張り塔が設置されており、塔と塔の間には防壁が張り巡らされている。防壁と塔の高さは5 m で、後述するバレン要塞よりも高い。 島にはその要塞のほか、奴隷貿易が行われていた頃に、船出前の奴隷たちを収容していた施設などの遺構も残っている。先述した『ルーツ』のクンタ・キンテも、船出前にこの島に移送された。ガンビア政府はその名をとって、2011年2月6日にジェームズ島をクンタ・キンテ島と改名した。 島には厨房、鍛冶場、貯蔵庫跡なども当時のまま残っているが、他方で、航海灯、奴隷小屋のレプリカ、トイレ施設、旗竿などは、20世紀以降に整備される中で追加されたものである。 ガンビア政府はこの島を奴隷貿易の開始とその拡大の様子を伝える資産の一つと位置付けて、世界遺産の構成資産に含めた。また、アフリカの地を二度と踏むことができなかった人々にとって、船出の前に見た最後の光景がこの島の景色だったはずという点からも、大西洋奴隷貿易を伝える文化遺産の中で特殊な位置を占めているとした。
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