フランスりょう‐インドシナ〔‐リヤウ‐〕【フランス領インドシナ】
フランス領インドシナ
フランス領インドシナ
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インドシナ連邦(インドシナれんぽう)、通称フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語: l'Indochine française、ベトナム語:Đông Dương thuộc Pháp / 東洋屬法、クメール語: សហភាពឥណ្ឌូចិន、ラーオ語: ຝຣັ່ງແຫຼັມອິນດູຈີນ、中国語: 法属印度支那)は、1887年から1954年にかけての東南アジアに存在したフランスの植民地である。現在のベトナム・ラオス・カンボジア・中国広東省湛江市に相当する地域で構成されていた。
- ^ 『広辞苑』(第六版)岩波書店、2008年11月11日。
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- ^ 村嶋英治「タイ近代国家の形成」『東南アジア史 I 大陸部』、412-413頁。
- ^ 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、354頁。
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- ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、324頁。
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- ^ a b c d 村嶋英治「タイ近代国家の形成」『東南アジア史 I 大陸部』、432頁。
- ^ a b 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、335頁。
- ^ a b 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、360頁。
- ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、337頁。
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- ^ a b 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、343頁。
- ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、345頁。
- ^ a b レイ・タン・コイ, p. 175
- ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、346頁。
フランス領インドシナ
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「第二次世界大戦の影響」の記事における「フランス領インドシナ」の解説
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。 ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
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フランス領インドシナ
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詳細は「フランス領インドシナ」を参照 1887年にフランス領インドシナが成立すると、インドシナ総督府はハノイに設置され、総督はハノイとサイゴンを往復することになる。フランスがトンキンを重視していたことは後にインドシナ大学がハノイに設置されたことにも現れている。良質の無煙炭を産出するホンゲイ炭鉱はフランスの重要な収入源であった。
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フランス領インドシナ
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「ルアンパバーン王国」の記事における「フランス領インドシナ」の解説
1905年にはラオス全領域が保護国化されフランス領インドシナが完成した。 第二次世界大戦開始後、1940年11月、タイとフランスとの間で仏印国境紛争が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を開始した。ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調することによって、抑圧者フランスに対して抵抗することを訴えた。このタイの反仏抵抗に対してフランスがとった政策は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・家族・祖国」をスローガンに「母なる祖国・フランス」への奉仕が説かれた。このような政策を広めるために大きな役割を果たしたのは1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。しかし、このことは、ラオス人のなかに「ラオス」という国民意識を生み出す契機となった。 1945年3月9日、日本軍が明号作戦でフランス軍を撃破した後、日本軍は4月8日にはルアンパバーン国王シーサワーンウォン王にラオス王国の独立を宣言させた。同年8月日本政府のポツダム宣言受諾後にあって、シーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回したものの、独立派はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成し、臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月には再びフランス軍がラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きた。ラオ・イサラはタイに亡命政府を樹立した。フランスは同年8月、親仏派のシーサワンウォン王に対し、フランス連合におけるルアンパバーン王国を含めた統一ラオス王国の王として内政の自治権を与えた。それを受け、シーサワンウォン王は1947年5月に憲法を制定し、ラオスを立憲君主国とした。
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フランス領インドシナ
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「ベトナムの歴史」の記事における「フランス領インドシナ」の解説
1887年 - 1945年。詳細はフランス領インドシナを参照 ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(英語版)・1884年の甲申条約(英語版)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。 1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。1930年に、2月にグエン・タイ・ホックらベトナム国民党がイエンバイ省でイエンバイ蜂起を起こし、その後、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。
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