第一次インドシナ戦争
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第一次インドシナ戦争(だいいちじいんどしなせんそう、ベトナム語: Chiến tranh Đông Dương、フランス語: Guerre d'Indochine)は、1945年から1954年にかけて当時フランスの植民地であったフランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの脱植民地化をめぐってベトナム民主共和国(ベトナム)とフランス共和国(フランス)との間で勃発した戦争である。単に「インドシナ戦争」と言った場合は、通常この戦いを指す事が多い[1]。
注釈
- ^ ルクレール自身は9月2日の東京湾上における降伏文書調印式に参加したのち仏領インドシナに着任する。
- ^ 1961年国務省白書によれば当時の解放戦線の武器の大部分が米・仏製あるいはジャングル内の原始的工場で作られたものだった
- ^ 1954年3月11日にワシントンD.C.で行なわれた米仏統合参謀総長会談でアーサー・W・ラドフォード米海軍大将がポール・エリー仏陸軍大将に「あなたがたは1952年冬の時点で敗北していた。」と語った。
- ^ ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特にニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。
- ^ ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する原爆の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年 ISBN 4062024462)に記している。
- ^ ディエンビエンフーの戦いでは、1万人にのぼるフランス連合軍兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿して、フランスとの交渉での取引材料とし、ジュネーヴ協定の交渉過程でフランス政府に身代金の支払と引き換えでの送還が実現した。この捕虜問題は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こし、フランスはかつて反仏的だったカオダイ教やホアハオ教、サイゴンの幇であるビン・スエン派などを資金援助してフランスの私兵団化させた。
出典
- ^ a b c d e f g h “インドシナ戦争”. コトバンク. 2023年8月22日閲覧。
- ^ “NHỮNG CON SỐ BIẾT NÓI...!”. Trung Phương (2020年7月16日). 2023年8月22日閲覧。
- ^ ガブリエル・コルコ「ベトナム戦争全史」p33 社会思想社
- ^ ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p143 共同通信社
- ^ a b c d e ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月
- ^ ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p144 共同通信社
- ^ バーナード・フォール「二つのベトナム」p130 毎日新聞社
- ^ Pentagon Papers,Origins of Insurgency in South Vietnam 54-60,pp270-282
- ^ Bernard B. Fall,The Two-Vietnams: a Political and Military Analysis,p129,Frederick Praeger, New York
- ^ タウンゼント・フープス「アメリカの挫折」p94 草思社
第一次インドシナ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/08 05:23 UTC 版)
「ラウル・サラン」の記事における「第一次インドシナ戦争」の解説
1952年1月11日、インドシナ駐留軍司令官ジャン・ド・ラトル・ド・タシニー(英語版)元帥の死去にともない、後任として司令官に着任する、ベトミンによるトンキン地方への攻勢を撃退したのち、ベトミン軍の行動に対応してラオス地方へ作戦を指向し、12月にはナサンの戦いに勝利する。ベトミン側はヴォー・グエン・ザップ将軍指導の下、ラオス戦に挑んだ。1953年5月28日、大きな戦果を挙げることなく戦局拡大の責任を取る形での離任となり、フランスへ帰還した。
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第一次インドシナ戦争
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「ファム・ヴァン・ドン」の記事における「第一次インドシナ戦争」の解説
1940年、インドシナ共産党に参加し、その後はホー・チ・ミンにより指導された様々な活動に貢献した。1945年の八月革命で、ホー・チ・ミンが権力の座に登ると、ファム・ヴァン・ドンはベトナム民主共和国新政府の財務相に任命され、1954年までこの職にあった。また彼は、1946年5月、フランス・フォンテーヌブローの仏越戦後交渉において、ベトナム側代表団長を務めた。 日本の降伏に続き、ベトミン軍は1945年から1954年の第一次インドシナ戦争において、フランス植民地軍と戦った。フランスは1954年、ディエンビエンフーの戦いにおける大敗北を受け、講和を求めるようになった。1954年5月、彼はジュネーヴ会談において、ホー・チ・ミン政権の代表団を率いた。激しい交渉の後、和平条約が結ばれ、フランス軍は新たに独立した北ベトナムとの直接対決から撤退した。ファム・ヴァン・ドンは、フランス首相ピエール・マンデス=フランスとともに、この和平協定に署名した。
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第一次インドシナ戦争
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「マルセル・ビジャール」の記事における「第一次インドシナ戦争」の解説
1945年10月にインドシナへ派遣される。2年間の勤務の後に帰国するも、再びインドシナに戻り、第3タイ大隊やインドシナ行進大隊に勤務し、1952年7月に第6植民地落下傘大隊の大隊長となる。1953年11月にディエンビエンフーに先遣隊として降下し、要地確保後に撤収する。1954年3月16日、ディエンビエンフーの戦いの増援としてエリアンヌ陣地に降下、アンヌ=マリー1号/2号陣地の奪回を図るも不成功に終わる。その後はピエール・ラングレ中佐と共に、ディエンビエンフー防衛戦の事実上の指揮を執る。戦闘中に中佐に昇進、ディエンビエンフー陣地群の陥落後、ベトミン軍の捕虜となる。
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第一次インドシナ戦争
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「軍事境界線 (ベトナム)」の記事における「第一次インドシナ戦争」の解説
詳細は「第一次インドシナ戦争」を参照 第一次インドシナ戦争は、1946年から1954年までの間、フランスとホー・チ・ミン主導下のベトナム民主共和国とが戦った戦争だった。 第二次世界大戦中、ベトミンは日本軍のベトナム占領に対する抵抗を行なう中で、徐々に戦闘技術を練達していった。そして大戦後には、旧仏領インドシナ連邦の再構築を目論むフランスの官憲に対して反抗し、1946年から7年にも及ぶ血みどろの戦争を継続した。 第一次インドシナ戦争は、フランス国民にとって評判が芳しいものではなかったが、第二次世界大戦の惨禍から復興を目指していた第四共和政政府は、結果的に戦争の遂行を継続することとなった。 戦争中、アメリカ合衆国は政治的・財政的にフランスを支持していた。しかし、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が壊滅的な損失を被ったことで、ジュネーヴ協定の締結に至った。
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