ディエンビエンフーの戦いとは? わかりやすく解説

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ディエンビエンフーの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 08:29 UTC 版)

ディエンビエンフーの戦い(ディエンビエンフーのたたかい、ベトナム語: Chiến dịch Điện Biên Phủ IPA: [t͡ɕjěn zîk̚ ɗîənˀ ɓīən fû], 漢字: 戰役奠邊府, フランス語: Bataille de Diên Biên Phu 発音: [bataj də djɛ̃ bjɛ̃ fy])は、1954年3月から5月にかけてフランス領インドシナ北西部のディエンビエンフーベトナム語: Điện Biên Phủ, 漢字: 奠邊府)で起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム人民軍フランス軍合わせて約1万人の戦死者を出した。


注釈

  1. ^ ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特にリチャード・ニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。
  2. ^ 自転車に可能な限りの荷物を固定し、乗車せず人が手押しした。当初の最大積載量は100kg程度でそれでも人力に数倍したが、荷物固定や車両強化のノウハウが蓄積され、次第に輸送量は増加した。最高記録はフート省の男性Ma Van Thangによる370kgとされ、実物はハノイのベトナム軍事歴史博物館で展示されている[6]
  3. ^ フランス側の補給機はベトナム側の対空砲火を避けるために高空飛行を行わなければならず、その結果補給物資が投下目標を外れてベトナム側の陣地内に落ちることもあった。
  4. ^ ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際、要塞周囲の山岳地帯に集結したベトミン軍と中華人民共和国とソ連の軍事顧問団に対する原爆投下をアイゼンハワー大統領に進言するが、冷たく拒絶されたことを自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社、1986年、ISBN 4-06-202446-2)に記している。
  5. ^ ディエンビエンフーの戦いでは、フランス本国出身者、植民地、外人部隊などの兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿することでジュネーヴ協定の交渉過程での取引材料とし、フランス政府からの身代金の支払いと引き換えに送還が実現した。

出典

  1. ^ ディエンビエンフーの戦い”. 世界史の窓. 2023年5月16日閲覧。
  2. ^ a b c "ディエンビエンフーの戦い". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年7月13日閲覧
  3. ^ a b c d ディエンビエンフーの戦い”. 文教大学 (2009年7月23日). 2023年5月16日閲覧。
  4. ^ a b c 田中 1986, p. [要ページ番号].
  5. ^ Chiếc xe đạp thồ trong chiến dịch Điện Biên Phủ(ディエンビエンフーの戦いにおける自転車輸送隊)” (ベトナム語). ベトナム労働総同盟英語版 (07/05/2023). 2024年1月17日閲覧。
  6. ^ Pack-bikes contribute to the Dien Bien Phu Victory” (英語). ベトナム国防省. 2024年1月17日閲覧。


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ディエンビエンフーの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)

第一次インドシナ戦争」の記事における「ディエンビエンフーの戦い」の解説

詳細は「ディエンビエンフーの戦い」を参照 1953年11月20日カストール作戦英語版)が実施されディエンビエンフーに3個空挺大隊降下同地占領し12,000人の兵力火砲配備され地上設備空中補給および近接航空支援態勢整えられた。 ベトミン軍はディエンビエンフー降下一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団集結決定周辺の山岳諸民族連携し隠密裏陣地大砲食糧運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊駆使して各地フランス軍拘束し部隊移動秘匿した。 1954年3月13日戦闘が始まるが、攻撃開始日からベトミン軍の猛烈な砲撃加えられ人海戦術により独立高地設けた2個のフランス軍陣地早々に陥落したフランス軍劣勢となり3月末には滑走路使用不可になった4月ハノイから3個空挺大隊派遣近接航空支援増強したが、塹壕篭るベトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季天候空軍活動制限しベトミン軍の砲撃支援受けた夜襲次々と陣地攻略していった末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日陥落し生き残ったフランス兵捕虜となった

※この「ディエンビエンフーの戦い」の解説は、「第一次インドシナ戦争」の解説の一部です。
「ディエンビエンフーの戦い」を含む「第一次インドシナ戦争」の記事については、「第一次インドシナ戦争」の概要を参照ください。

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