パヴィアの戦いとは? わかりやすく解説

パヴィアの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 15:19 UTC 版)

パヴィアの戦い
第三次イタリア戦争

パヴィアのつづれ織りの一部(ベルナールト・ファン・オルレイのデザイン,1531年頃)
1525年2月24日[1]
場所 イタリアパヴィア
結果 決定的なスペイン=神聖ローマ帝国の勝利
衝突した勢力

フランソワ1世:

カール5世:

指揮官
フランソワ1世 シャルル・ド・ラノワ,
アントニオ・デ・レイバ,
ゲオルク・フォン・フルンツベルク
戦力
歩兵 17,000
騎兵 6,500
大砲 53門[2]
歩兵 19,000
騎兵 4,000
大砲 17門[2]

パヴィアの戦い(パヴィアのたたかい)は、イタリアの覇権を巡ってハプスブルク家神聖ローマ帝国スペイン)とヴァロワ家フランス)が15世紀末から半世紀以上に渡って争ったイタリア戦争における戦いの一つ。

1525年2月にイタリア・ロンバルディアパヴィーア城塞外のミラベッロにある広大な狩猟場で、フランス王フランソワ1世軍とスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世軍が争った戦いである。スペイン・神聖ローマ帝国連合軍側はナポリ総督シャルル・ド・ラノワが名目上指揮し(実質上の指揮は第5代ペスカーラ侯爵フェルナンド・ダヴァロス)、アントニオ・デ・レイバが指揮するパヴィア駐屯軍と合同で、フランソワ1世が直接指揮するフランス軍を攻撃し、勝利した。

4時間30分の戦いで、皇帝軍は小銃パイクを組み合わせて効果的に戦い、フランス軍は分断され総崩れとなった。フランス側は、有力貴族のそれぞれの長を含む多数の犠牲者を出した。フランソワ1世自身もスペイン軍の捕虜となり、カール5世によって投獄され、重要な領域をカールに引き渡すという内容の屈辱的なマドリード条約に署名させられた。

ブルボン公シャルル3世は、かつてフランソワ1世に仕えていたが、1523年にカール5世の下に亡命していた。この戦いでは皇帝軍を指揮して、フランソワ1世を捕虜にする働きを見せている。

王の義兄でアランソン家最後の男子であったアランソン公シャルル4世は、帰国後に責任を糾弾され、同年に死去してアランソン家は断絶した。

背景

第三次イタリア戦争を参照。

経過

カール5世が領有を主張するミラノを攻撃し失敗したフランソワ1世は主力軍をイタリアから撤退させたが、1524年、ナポリ総督ラノワ率いる神聖ローマ帝国連合軍は北部イタリアに分散していた残存フランス軍を掃討し、さらに2万の兵でフランス南部のプロヴァンスに侵攻した[3]。これに対しフランソワ1世は4万の兵を南下させて帝国軍をフランスから撤退させ、さらにイタリアに進撃した[3]。ミラノで疫病が流行中だったため、ラノワはミラノ南方のパヴィア城塞まで後退したがその間に多くの兵力を失い、追尾するフランス軍に対し、一部を城塞内に残し、主力を東南に撤退させた[3]。フランス軍は城塞を包囲したが、フランソワ1世は軍を二分し、一部をスコットランドオールバニ候スチュアートに指揮させてナポリ王国征服に向かわせ、さらにスイス傭兵軍の一部が前線を離れたこともあり、フランス軍の兵力は2万に減少した[3]。一方、帝国軍は増援し、城に残った味方を支援するため2万の兵を率いてパヴィアに戻った[3]

城塞を包囲したフランス軍は、城内に残る敵の食料が尽きるの待ち、持久戦となっていた[4]。そこへ帝国軍の再編成部隊が駆け付け3週間砲撃を続けたが、中央集権化が早くから進み国王のために命をかけ働くという体制の整ったフランス軍と違い、傭兵や農民兵を主力とする帝国軍は長期戦となると士気が下がって総崩れとなる怖れがあったため、実質的な指揮官だったペスカーラ侯は短期終結のため、城塞前の狩猟場に沿って流れる小河を迂回して、狩猟場の北の一翼から包囲する奇襲作戦を1525年2月24日未明に決行、狩猟場のミラベロ城近くに張っていたフランソワ1世の本陣を背後から真っ先に襲い、のちに城塞内の駐屯軍も加わって戦い、奇襲に慌てたフランス軍は死者1万人を出し敗退した[4][3][5]

画像

脚注

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月10日閲覧。
  2. ^ a b Knecht, R. J. (1994). Renaissance Warrior and Patron. New York: Press Syndicate of University of Cambridge. pp. 225 
  3. ^ a b c d e f パヴィアの戦い『勝利を決めた名将たちの伝説的戦術』松村劭、PHP研究所, 2010
  4. ^ a b 第7話  イタリア征服を再び狙ったフランソワ1世、激闘のパヴィーアの戦いで捕虜となるどらまちっく・ひすとりー
  5. ^ he Battle of Pavia 24/02/1525 Imperial Victory (Strategic)

関連項目

外部リンク


パヴィアの戦い

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第三次イタリア戦争」の記事における「パヴィアの戦い」の解説

1524年10月中旬フランソワ1世は4軍勢率いてアルプス山脈越えミラノ行軍したブルボン公ペスカーラ軍隊プロヴァンスでの戦いからまだ回復しておらず、フランソワ阻止する力がなかった。フランス軍縦隊分けて進軍したので皇帝軍の攻撃容易に撃退できたが、会戦持ち込むことには失敗した全滅免れたが、ミラノ守備担当しているシャルル・ド・ラノワ(英語版)は自軍1万6千しかなく、倍以上のフランス軍撃退することは不可能だ悟り10月26日ミラノ放棄してローディ撤退したフランソワミラノ入城しルイ2世・ド・ラ・トレモイユミラノ総督任命すると、ボニヴェの後押し受けて皇帝軍のアントニオ・デ・レイバ(英語版)が守備しているパヴィア行軍した。このとき、他の指揮官反対して、ラノワ追撃主張した受け入れられなかった。 10月末にはフランス軍大半パヴィア到着した11月2日アンヌ・ド・モンモランシーティチーノ川渡りパヴィアの南に行き包囲完成させた。市内残った人数は9千人程度だったが商人多く占めレイバ賃金払え教会装飾を溶かして資金にする羽目になったフランス軍皇帝軍の小競り合い砲撃がすぐに開始し11月には城壁の2ヵ所を破壊し突破口作った。しかし、11月21日試みられ侵入大損害を出して失敗その後続き、またフランス軍火薬不足したため兵糧攻め転換した12月、ウゴ・デ・モンカダ(英語版率いスペイン軍ジェノヴァ近く上陸したジェノヴァでは親ヴァロワか親ハプスブルクかを巡る争い起きていて、スペイン軍はその介入目指していた。フランソワはそうはさせまい大軍サルッツォ侯ミケーレ・アントーニオに送らせた。フランス軍人数勝たれた上アンドレア・ドーリア率いフランス艦隊到着したことでスペイン軍勝ち目なくなり降伏余儀なくされた。続いてフランソワ教皇クレメンス7世の間で秘密条約締結され教皇皇帝協力しない代わりフランソワ教皇ナポリ侵攻援助することが約された。条約に基づきフランソワ指揮官たちの反対はねつけて軍の一部指揮官オールバニ公ジョン・ステュアート英語版)と一緒に南へ送ったラノワはフィオレンツオーラでオールバニ公足止めようとしたが、フランス側についたばかりのジョヴァンニ・デ・メディチ黒旗隊(英語版)に攻撃され大損害を出してローディ撤退したメディチフェラーラ公アルフォンソ1世提供した多量火薬とともにパヴィア到着しフランス軍補強した。しかし、同時に5千人グラウビュンデン州出身スイス傭兵が州をランツクネヒト略奪から守るために戻ってしまった。 1525年1月ゲオルク・フォン・フルンツベルク1万5千人ランツクネヒトとともにイタリア到着増援得たラノワ侵攻再開したペスカーラがサンタンジェロを占領してパヴィアミラノ連絡断った一方ランツクネヒトたちはベルジョイオーゾまで進軍一時メディチとボニヴェの反撃苦戦した最終的に占領した2月2日ごろにはラノワパヴィアから数キロのところまで到着したフランソワ1世自軍近くミラベッロ城に駐屯させ、ちょうどレイバ部隊救援軍の間に配置した2月中にはパヴィアへの砲撃続いたメディチ重傷負いピアチェンツァ療養入ったためフランソワミラノ駐屯軍大半呼び戻し包囲軍を補強したが、パヴィア一向に落城しなかった。2月21日物資尽きつつある皇帝軍はフランス軍大軍勘違いし撤退経路確保面子のためにミラベッロ城を攻撃した1525年2月24日の朝早く皇帝軍はミラベッロ城壁に穴をあけ、ラノワ軍の侵入成功させた。ラノワパヴィア残留した兵士連れ出して戦闘参加させた。その後4時続いた戦いでは、まず10年前のマリニャーノの戦い英語版)で大活躍したフランス軍重騎兵急速に前進したが、後方援護射撃をしている砲兵隊誤射避けるために一時射撃取りやめる羽目になり、さらに皇帝軍のランツクネヒトスペイン軍火縄銃部隊騎兵砲兵分断された。一方皇帝軍の歩兵スイス傭兵フランス歩兵敗走させた。フランス軍多数犠牲者出し、ボニヴェ、ジャック2世・ド・ラ・パリス(英語版)、ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ、リチャード・ド・ラ・ポール(英語版)は戦死モンモランシーロベール3世・ド・ラ・マルク、ナバラ王エンリケ2世、そしてフランソワ1世自身捕虜となったその夜フランソワ母への手紙をラノワ託した手紙の内容には「余の残りの不幸がどう進行しているかをお知らせする次第です。全て失ったが、誇りと命だけは安全だ。」とある。そのすぐ後、フランソワはさらに衝撃受けたナポリ送ったオールバニ公軍勢脱走などで兵士大半失いナポリ到着することなくフランスへ帰還したであった結局イタリアフランス軍スフォルツェスコ城を守る小部隊以外はアランソン公シャルル4世指揮下、アルプス越えてフランスへ帰還3月にはリヨン着いた

※この「パヴィアの戦い」の解説は、「第三次イタリア戦争」の解説の一部です。
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