パヴィアの戦い
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パヴィアの戦い | |||||||
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第三次イタリア戦争中 | |||||||
![]() パヴィアのつづれ織りの一部(ベルナールト・ファン・オルレイのデザイン,1531年頃) |
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衝突した勢力 | |||||||
指揮官 | |||||||
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戦力 | |||||||
歩兵 17,000 騎兵 6,500 大砲 53門[2] |
歩兵 19,000 騎兵 4,000 大砲 17門[2] |
パヴィアの戦い(パヴィアのたたかい)は、イタリアの覇権を巡ってハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が15世紀末から半世紀以上に渡って争ったイタリア戦争における戦いの一つ。
1525年2月にイタリア・ロンバルディアのパヴィーア城塞外のミラベッロにある広大な狩猟場で、フランス王フランソワ1世軍とスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世軍が争った戦いである。スペイン・神聖ローマ帝国連合軍側はナポリ総督シャルル・ド・ラノワが名目上指揮し(実質上の指揮は第5代ペスカーラ侯爵フェルナンド・ダヴァロス)、アントニオ・デ・レイバが指揮するパヴィア駐屯軍と合同で、フランソワ1世が直接指揮するフランス軍を攻撃し、勝利した。
4時間30分の戦いで、皇帝軍は小銃とパイクを組み合わせて効果的に戦い、フランス軍は分断され総崩れとなった。フランス側は、有力貴族のそれぞれの長を含む多数の犠牲者を出した。フランソワ1世自身もスペイン軍の捕虜となり、カール5世によって投獄され、重要な領域をカールに引き渡すという内容の屈辱的なマドリード条約に署名させられた。
ブルボン公シャルル3世は、かつてフランソワ1世に仕えていたが、1523年にカール5世の下に亡命していた。この戦いでは皇帝軍を指揮して、フランソワ1世を捕虜にする働きを見せている。
王の義兄でアランソン家最後の男子であったアランソン公シャルル4世は、帰国後に責任を糾弾され、同年に死去してアランソン家は断絶した。
背景
第三次イタリア戦争を参照。
経過
カール5世が領有を主張するミラノを攻撃し失敗したフランソワ1世は主力軍をイタリアから撤退させたが、1524年、ナポリ総督ラノワ率いる神聖ローマ帝国連合軍は北部イタリアに分散していた残存フランス軍を掃討し、さらに2万の兵でフランス南部のプロヴァンスに侵攻した[3]。これに対しフランソワ1世は4万の兵を南下させて帝国軍をフランスから撤退させ、さらにイタリアに進撃した[3]。ミラノで疫病が流行中だったため、ラノワはミラノ南方のパヴィア城塞まで後退したがその間に多くの兵力を失い、追尾するフランス軍に対し、一部を城塞内に残し、主力を東南に撤退させた[3]。フランス軍は城塞を包囲したが、フランソワ1世は軍を二分し、一部をスコットランドのオールバニ候スチュアートに指揮させてナポリ王国征服に向かわせ、さらにスイス傭兵軍の一部が前線を離れたこともあり、フランス軍の兵力は2万に減少した[3]。一方、帝国軍は増援し、城に残った味方を支援するため2万の兵を率いてパヴィアに戻った[3]。
城塞を包囲したフランス軍は、城内に残る敵の食料が尽きるの待ち、持久戦となっていた[4]。そこへ帝国軍の再編成部隊が駆け付け3週間砲撃を続けたが、中央集権化が早くから進み国王のために命をかけ働くという体制の整ったフランス軍と違い、傭兵や農民兵を主力とする帝国軍は長期戦となると士気が下がって総崩れとなる怖れがあったため、実質的な指揮官だったペスカーラ侯は短期終結のため、城塞前の狩猟場に沿って流れる小河を迂回して、狩猟場の北の一翼から包囲する奇襲作戦を1525年2月24日未明に決行、狩猟場のミラベロ城近くに張っていたフランソワ1世の本陣を背後から真っ先に襲い、のちに城塞内の駐屯軍も加わって戦い、奇襲に慌てたフランス軍は死者1万人を出し敗退した[4][3][5]。
画像
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合戦風景
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フランス国王フランソワ1世
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帝国軍指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・ダヴァロス。本戦で負った傷がもとで同年末に死亡。詩人ヴィットリア・コロンナの夫としても知られる。
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帝国軍のドイツ傭兵部隊ランツクネヒト指揮官ゲオルク・フォン・フルンツベルク
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シャルル3世 (ブルボン公)。フランス人だがフランソワ1世と反目していたため帝国軍についた。
脚注
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月10日閲覧。
- ^ a b Knecht, R. J. (1994). Renaissance Warrior and Patron. New York: Press Syndicate of University of Cambridge. pp. 225
- ^ a b c d e f パヴィアの戦い『勝利を決めた名将たちの伝説的戦術』松村劭、PHP研究所, 2010
- ^ a b 第7話 イタリア征服を再び狙ったフランソワ1世、激闘のパヴィーアの戦いで捕虜となるどらまちっく・ひすとりー
- ^ he Battle of Pavia 24/02/1525 Imperial Victory (Strategic)
関連項目
- シャルル3世 (ブルボン公)
- グッロ - パヴィアの戦いに参加したスコットランド兵の落人伝説がある
- コンラート・フェルディナント・マイヤー - 本戦終結後、ペスカーラ侯をイタリア側に取り込もうとする対ハプスブルク陣営による政略劇を基に小説『ペスカーラの誘惑』(1887年)を執筆
外部リンク
- he Battle of Pavia 24/02/1525 Imperial Victory (Strategic)(英語) - 両軍配置図、作戦、経過など
パヴィアの戦い
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「第三次イタリア戦争」の記事における「パヴィアの戦い」の解説
1524年10月中旬、フランソワ1世は4万の軍勢を率いてアルプス山脈を越え、ミラノへ行軍した。ブルボン公とペスカーラの軍隊はプロヴァンスでの戦いからまだ回復しておらず、フランソワを阻止する力がなかった。フランス軍は縦隊に分けて進軍したので皇帝軍の攻撃を容易に撃退できたが、会戦に持ち込むことには失敗した。全滅は免れたが、ミラノの守備を担当しているシャルル・ド・ラノワ(英語版)は自軍が1万6千しかなく、倍以上のフランス軍を撃退することは不可能だと悟り、10月26日にミラノを放棄してローディへ撤退した。フランソワはミラノに入城してルイ2世・ド・ラ・トレモイユをミラノ総督に任命すると、ボニヴェの後押しを受けて皇帝軍のアントニオ・デ・レイバ(英語版)が守備しているパヴィアへ行軍した。このとき、他の指揮官は反対して、ラノワの追撃を主張したが受け入れられなかった。 10月末にはフランス軍の大半がパヴィアに到着した。11月2日、アンヌ・ド・モンモランシーはティチーノ川を渡りパヴィアの南に行き、包囲を完成させた。市内に残った人数は9千人程度だったが商人が多くを占め、レイバは賃金を払えず教会の装飾を溶かして資金にする羽目になった。フランス軍と皇帝軍の小競り合いや砲撃がすぐに開始し、11月には城壁の2ヵ所を破壊し突破口を作った。しかし、11月21日に試みられた侵入は大損害を出して失敗、その後も雨が続き、またフランス軍は火薬が不足したため兵糧攻めに転換した。 12月、ウゴ・デ・モンカダ(英語版)率いるスペイン軍はジェノヴァ近くに上陸した。ジェノヴァでは親ヴァロワか親ハプスブルクかを巡る争いが起きていて、スペイン軍はその介入を目指していた。フランソワはそうはさせまいと大軍をサルッツォ侯ミケーレ・アントーニオに送らせた。フランス軍に人数で勝たれた上アンドレア・ドーリア率いるフランス艦隊が到着したことでスペイン軍の勝ち目がなくなり、降伏を余儀なくされた。続いて、フランソワと教皇クレメンス7世の間で秘密条約が締結され、教皇が皇帝に協力しない代わり、フランソワが教皇のナポリ侵攻を援助することが約された。条約に基づき、フランソワは指揮官たちの反対をはねつけて軍の一部を指揮官のオールバニ公ジョン・ステュアート(英語版)と一緒に南へ送った。ラノワはフィオレンツオーラでオールバニ公を足止めしようとしたが、フランス側についたばかりのジョヴァンニ・デ・メディチの黒旗隊(英語版)に攻撃され、大損害を出してローディへ撤退した。メディチはフェラーラ公アルフォンソ1世が提供した多量な火薬とともにパヴィアに到着し、フランス軍を補強した。しかし、同時に5千人のグラウビュンデン州出身のスイス傭兵が州をランツクネヒトの略奪から守るために戻ってしまった。 1525年1月、ゲオルク・フォン・フルンツベルクが1万5千人のランツクネヒトとともにイタリアに到着。増援を得たラノワは侵攻を再開した。ペスカーラがサンタンジェロを占領してパヴィアとミラノの連絡を断った一方、ランツクネヒトたちはベルジョイオーゾまで進軍、一時はメディチとボニヴェの反撃に苦戦したが最終的には占領した。2月2日ごろにはラノワはパヴィアから数キロのところまで到着した。フランソワ1世は自軍を近くのミラベッロ城に駐屯させ、ちょうどレイバの部隊と救援軍の間に配置した。2月中にはパヴィアへの砲撃が続いた。メディチが重傷を負いピアチェンツァで療養に入ったためフランソワはミラノの駐屯軍の大半を呼び戻し、包囲軍を補強したが、パヴィアは一向に落城しなかった。2月21日、物資が尽きつつある皇帝軍はフランス軍を大軍と勘違いし、撤退経路の確保と面子のためにミラベッロ城を攻撃した。 1525年2月24日の朝早く、皇帝軍はミラベッロの城壁に穴をあけ、ラノワ軍の侵入を成功させた。ラノワはパヴィアに残留した兵士も連れ出して戦闘に参加させた。その後4時間続いた戦いでは、まず10年前のマリニャーノの戦い(英語版)で大活躍したフランス軍の重騎兵が急速に前進したが、後方で援護射撃をしている砲兵隊は誤射を避けるために一時射撃を取りやめる羽目になり、さらに皇帝軍のランツクネヒトとスペイン軍の火縄銃部隊に騎兵と砲兵を分断された。一方、皇帝軍の歩兵はスイス傭兵とフランス歩兵を敗走させた。フランス軍は多数の犠牲者を出し、ボニヴェ、ジャック2世・ド・ラ・パリス(英語版)、ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ、リチャード・ド・ラ・ポール(英語版)は戦死、モンモランシー、ロベール3世・ド・ラ・マルク、ナバラ王エンリケ2世、そしてフランソワ1世自身は捕虜となった。その夜、フランソワは母への手紙をラノワに託した。手紙の内容には「余の残りの不幸がどう進行しているかをお知らせする次第です。全てを失ったが、誇りと命だけは安全だ。」とある。そのすぐ後、フランソワはさらに衝撃を受けた。ナポリに送ったオールバニ公の軍勢は脱走などで兵士の大半を失い、ナポリに到着することなくフランスへ帰還したのであった。結局、イタリアのフランス軍はスフォルツェスコ城を守る小部隊以外はアランソン公シャルル4世の指揮下、アルプスを越えてフランスへ帰還、3月にはリヨンに着いた。
※この「パヴィアの戦い」の解説は、「第三次イタリア戦争」の解説の一部です。
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