神聖ローマ帝国とは?

神聖ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/11 14:32 UTC 版)

神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語Heiliges Römisches Reich, ラテン語Sacrum Romanum Imperium, イタリア語Sacro Romano Impero, 英語: Holy Roman Empire)は、現在のドイツオーストリアチェコイタリア北部を中心に存在していた国家[1][2]。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。中世以降は国号に「ドイツ国民の」が加えられ(解散時には単なる「ドイツ帝国」)ドイツ人国家としての性格を明確化したが(ただし、支配下にかなりの他民族領域も含まれる)、同時に国家としての統一性は形骸化し、分立するドイツ諸邦の形式的な連合体へと変質していった。




神聖ローマ帝国
: Heiliges Römisches Reich
: Sacrum Romanum Imperium
東フランク王国 800年962年[1] - 1806年 オーストリア帝国
プロイセン王国
ライン同盟
ドイツ帝国の国旗 ドイツ帝国の国章
(国旗) (国章)
ドイツ帝国の位置
領土の変遷
公用語 ドイツ語ラテン語イタリア語チェコ語オランダ語フリジア語フランス語スロベニア語ソルブ語ポーランド語
首都 プラハ1346年-1437年1583年-1611年
ウィーン1483年-1806年
レーゲンスブルク国会の設置場所として、1663年-1806年
皇帝
800年 - 814年 カール1世(フランク・ローマ皇帝初代)
915年 - 924年ベレンガーリオ(フランク・ローマ皇帝11代、最後)
962年 - 973年オットー1世(初代)
1155年 - 1190年フリードリヒ1世(第10代)
1355年 - 1378年カール4世(第16代)
1508年 - 1519年マクシミリアン1世(第17代)
1519年 - 1530年カール5世(第20代)
1792年 - 1806年フランツ2世(最後)
人口
1550年17,000,000人
変遷
成立 962年2月2日
金印勅書1356年[2]
ヴェストファーレン条約1648年10月24日
滅亡1806年8月6日
  1. ^ フランク王国カール1世フランク・ローマ皇帝戴冠を神聖ローマ帝国の起源とする場合は800年、フランク・ローマ皇帝の継承者を自認するオットー1世の戴冠をあくまでも建国と見なす場合は962年である。
  2. ^ 勅書のうち1から24条は1月10日、24から31条までは12月25日に作成。

注釈

  1. ^ たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。
  2. ^ 例外はオーストリア継承戦争中に短期間在位したカール7世(ヴィッテルスバッハ家)のみ。
  3. ^ イタリアがドイツ国制に編入されることは無く、カール5世が手に入れたイタリア領土はスペイン・ハプスブルク家が継承した。
  4. ^ カール大帝の戴冠は「ローマ帝国」の復興であった。
  5. ^ ラテン語: imperator Romanum gubernans imperium
  6. ^ ドイツ語の Reich は「帝国」を意味し、ラテン語の imperium に対応する概念である。
  7. ^ 北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。ウィルスン(2005),p.105-108
  8. ^ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。
  9. ^ 神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium
  10. ^ 通常、これをもって「カールのローマ帝国皇帝即位」としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、フランク王をローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。
  11. ^ 東ローマ帝国との関係が悪化した時、カールはハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものといわれる。
  12. ^ 皇帝としてはハインリヒ「1世」であるが、ハインリヒ帝はドイツ王としてザクセン朝初代の捕鳥王から代数を数えるのが一般的である。
  13. ^ 皇帝としては唯一の「コンラート」であるが、他のコンラート王との区別のためドイツ王として「2世」をつけることが一般的である。
  14. ^ ルドルフ3世から見てハインリヒ2世は姪の婿、コンラート2世はいとこの婿にあたる。
  15. ^ ベネディクトゥス9世シルウェステル3世グレゴリウス6世
  16. ^ クレメンス2世ダマスス2世レオ9世ウィクトル2世
  17. ^ 帝国の関与を排してステファヌス10世を選出。菊池(2003),pp.70-71。次のニコラウス2世は教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する教皇勅書を発して、帝国支配からの脱却を図った。菊池(2003),pp.71-72。
  18. ^ この協約の前には叙任権を全て放棄する代わりに教会領全没収という過激な案を通そうとしたが、暴動が起きたため阻まれた。
  19. ^ 皇帝としてもドイツ王としてもロタール「2世」であるが、ロタリンギア王ロタール2世、あるいはイタリア王ロタール2世との区別のため「3世」とされることが多い。
  20. ^ 関税徴収請求権、貨幣鋳造権、城塞構築権といった本来国王にのみ許される大権
  21. ^ 1220年の「聖界諸侯との協約」(Confoederatio cum principibus ecclesiasticis)、1232年の「諸侯の利益のための協定」(Statutum in favorem principum
  22. ^ パドヴァのマルシリウスの人民主権論『平和の擁護者』
  23. ^ レンス判告、帝国法「リケット・ユーリス」(Licet iuris)と皇帝命令書「フィデム・カトリカム」(Fidem catholicam
  24. ^ ヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったとされる堀越(2006),pp.380-381。ドイツでは1350年に発生し、14世紀末まで断続的に続いた。成瀬他(1997a),p.365
  25. ^ ユダヤ人保護はボヘミアにおいてのみであり、ドイツ全土においては阻止しえず、却って虐殺を助長している。坂井(2003),pp.53-54阿部(1998),pp.74-75
  26. ^ 世襲制と領地不可分の確認、裁判権、関税権、貨幣鋳造権、鉱山採掘権、ユダヤ人保護権など
  27. ^ 共同王として従弟のヨープストも選出されたが、一年で死去している。
  28. ^ ルドルフ4世は5通の特許状に添えて証拠として提出した手紙の差出人をカエサルネロとし、偽書であることをあからさまにしてカール4世を暗に恫喝している。菊池(2004),pp.201-208
  29. ^ ドイツ語ではErzherzog(オーストリア大公)とSchlafmütze (寝帽/眠たがり屋)を語呂あわせしたReichserzschlafmutze。ウィルスン(2005),p.33
  30. ^ この改革の基本的な考えは、主にニコラウス・クザーヌスによって提唱された皇帝と帝国等族 (enとの政治的協調論に基づいている
  31. ^ 15世紀末になると数百人規模の強盗団が犯行後に決闘状を形式的に送りつけるということが常態化する事態にまでなっていた
  32. ^ フランクフルト・アム・マインに置かれ、1523年シュパイアーへ移転し、最終的に1693年ヴェッツラーに落ち着いた。君主の威光を示す性質を持たず、設備は極めて簡素であった
  33. ^ 帝国統治院は旧態依然の帝国議会(Reichstag)に代わって20人の聖俗諸侯と帝国自由都市の代表からなり、皇帝の財政と外交を司ることになっていた。皇帝の権力抑制を目的としたが、諸侯も統治院に縛られたため廃止された
  34. ^ 1613年にブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントはルター派からカルヴァン派に改宗している。成瀬他(1997b),p.48
  35. ^ a b マクシミリアン2世はルター派に近い信仰を持っていた。成瀬他(1997a),pp.474-475
  36. ^ ルドルフ2世とマティアスの争いはグリルパルツァーの戯曲「ハプスブルク家の兄弟の諍い」(Ein Bruderzwist im Hause Habsburg)に描かれている。
  37. ^ 2001年時点のチェコ共和国の宗教は無宗教(59%)に次いでカトリック(26.8%)が多く、プロテスタント諸派は2.1%と少数派になっている。CIA - The World Factbook
  38. ^ クリスチャン4世が参戦した直接的な動機は王子のハルバーシュタット司教職就任を皇帝に拒否されたことである。菊池(1995),pp.75-76
  39. ^ ピルニッツ宣言の時点では諸国はフランスへの武力干渉に否定的で、文面的には直接行動断念を表明したものだったが、フランス革命政府はこれに過剰に反応した。成瀬他(1997b),p.133
  40. ^ 帝国内で「国王」の称号を許された諸侯はボヘミア王のみである。その他の国王の称号を有する諸侯は帝国領域外の王国の統治者である。
  41. ^ 当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「ドイツ人国家」という概念は後年に生まれた。
  42. ^ a b 概説書としては、成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』や、ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』などが詳しい。
  43. ^ ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)や【神聖ローマ帝国】(世界大百科事典巻14,平凡社,1988年)

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    「教会の主要役職に側近の聖職者を配置し、広大な所領を寄進して、それにインムニテート(不輸不入権)の特権を与えて保護し、貨幣鋳造権、市場開設権、関税徴収権等を賦与し、さらに王領地の管理権から、ときによるとグラーフシャフト(伯領)そのものの管理までゆだねて」
    「聖職者が政治権力と癒着した結果、修道院改革運動が起こるとこれが攻撃の対象とされ、帝国教会政策の前提である国王の聖職者叙任権そのものが叙任権闘争によって根底から動揺させられることになった」
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