第二次ブルガリア帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 01:53 UTC 版)
第二次ブルガリア帝国(ブルガリア語: Второ българско царство, 英語: Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。
注釈
出典
- ^ 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、83,85頁
- ^ a b 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、85頁
- ^ 井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、318頁
- ^ a b クランプトン『ブルガリアの歴史』、34頁
- ^ a b c クランプトン『ブルガリアの歴史』、35頁
- ^ 寺島「アセン兄弟の蜂起」『東欧を知る事典』、9頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、612頁
- ^ a b 井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、319頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、84頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、120頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、85頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、121頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、614頁
- ^ a b c d e f g ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、86頁
- ^ a b c 尚樹『ビザンツ帝国史』、618頁
- ^ a b c d クランプトン『ブルガリアの歴史』、36頁
- ^ a b c 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、87頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、88頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、89頁
- ^ a b c 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、122頁
- ^ クランプトン『ブルガリアの歴史』、36,38頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、695頁
- ^ a b c d e f g h i ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、90頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、123頁
- ^ 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、87,89頁
- ^ a b c d e 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、89頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、90-91頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、718-719頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、91頁
- ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、719頁
- ^ a b c d e ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、95頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、93頁
- ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、753頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、93-94頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、94頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、124頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、125頁
- ^ a b c クランプトン『ブルガリアの歴史』、38頁
- ^ 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、90頁
- ^ a b 井上、栗生沢『ビザンツとスラヴ』、321頁
- ^ a b 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、126頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、758頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、764頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、98頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、97頁
- ^ a b c d 寺島「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』、32-33頁
- ^ 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、90-91頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、99頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、789頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127頁
- ^ a b c 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、91頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、790頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、100頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、102頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、129頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、130頁
- ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、801頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、103-104頁
- ^ a b c d e f g ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、104頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、131頁
- ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁
- ^ クランプトン『ブルガリアの歴史』、41頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、105頁
- ^ a b c d e 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、133頁
- ^ a b 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、134頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、132-133頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、106-107頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、133-134頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、107頁
- ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、844頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、134-135頁
- ^ a b クランプトン『ブルガリアの歴史』、42頁
- ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、111頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、136頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、137頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、112頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、138頁
- ^ a b c d e 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、138頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、113頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、118頁
- ^ a b c 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、142頁
- ^ a b c d e f g ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、116頁
- ^ a b c d 金原「中世のバルカン」『バルカン史』、92頁
- ^ a b c d e 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、140頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、117頁
- ^ a b c d e f 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、141頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、139頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、140-141頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、108頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、108-109頁
- ^ a b c d e f g h ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、115頁
- ^ Ангелов, Д. По въпроса за стопанския облик на българските земи през XI-XII век ИП, 1950, 429頁
- ^ Georgius Acropolita. Historia, 18頁
- ^ Сакъзов, Ив. Средновековното манастирско стопанство в България- СБИД, 22, 1923/1924, 221頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、115-116頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、75-76,116頁
- ^ a b c 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、147頁
- ^ a b c d ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、109頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、147-148頁
- ^ a b c d e f g h ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、122頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、144-145頁
- ^ a b c d e 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、145頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、146頁
- ^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、123頁
- ^ a b クランプトン『ブルガリアの歴史』、40頁
- ^ a b c d ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、121頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、148頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、148-149頁
- ^ クランプトン『ブルガリアの歴史』、41-42頁
- ^ a b c d ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、120頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、143頁
- ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、143-144頁
- ^ a b c d 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、144頁
- ^ a b 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、149頁
- ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、127頁
第二次ブルガリア帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 15:50 UTC 版)
「ブルガリアの歴史」の記事における「第二次ブルガリア帝国」の解説
詳細は「第二次ブルガリア帝国」を参照 1185年にトドル(のちのペタル4世)とアセン(のちのアセン1世(英語版))という二人の兄弟が、アセンとペタルの蜂起を起こし、ヴェリコ・タルノヴォで独立を宣言。1187年のロヴェチ包囲戦(英語版)ではクマン人の協力を得て要塞に立てこもり、東ローマ帝国と和約を結ぶことに成功。1190年のトリャヴナの戦いでは東ローマ軍を撃退した。都をタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ)に定め、ブルガリア人のほか周辺民族も統治下においた。13世紀初頭には、東ローマ帝国が第四回十字軍によってコンスタンティノープルを占領されるなど分裂状態にあったため、再びバルカン半島に版図を拡大した。イヴァン・アセン2世(位1218-41)のもとで最盛期を迎え、周辺諸国とは婚姻政策を通じて良好な関係を維持し、ブルガリア独自の通貨を発行するなど経済振興も図った。1232年にはブルガリア正教会をカトリック教会から独立させた。しかし1241年のイヴァン・アセン2世死去後のカリマン1世治世で、モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)(モンゴルのポーランド侵攻)でモンゴルと同盟関係を結んだ東ローマ勢力が徐々に復活してきたうえ、1245年にヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版)で、ヨーロッパ防衛の橋頭堡だったハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国になると、ローマ教皇インノケンティウス4世は、ブルガリアを新たなヨーロッパ防衛の橋頭堡とすべく、アセン2世の時代に失効したブルガリアとの教会合同をカリマン1世に申し出た。1246年に帝国内で王位をめぐってカリマン1世がエピロス専制侯国出身の義母イレネ(英語版)に暗殺され、幼帝ミハイル2世・アセンが即位した。王室が求心力を失った機会を近隣諸国は逃さず、ブルガリアに侵攻して領土の多くを奪い、ブルガリアは周辺諸国との同盟を失った。1256年にミハイル2世・アセンも暗殺された。 1277年にイヴァイロが反乱を起こして皇帝に即位した。しかし、クマン人の流れを汲む地方の封建貴族であったテルテル家のゲオルギ1世テルテルがクーデターを起こして皇帝に即位したものの、他の封建貴族も半独立状態で乱立していた。ゲオルギ1世テルテルは、対外政策ではジョチ・ウルスに臣従を誓い、国内ではなおも止まない政争で分裂状態へと陥った。1299年のジョチ・ウルスの内乱時には、亡命してきたモンゴル人のチャカが皇帝に即位した。シシュマン家の時代にはセルビア王国との抗争で国力を疲弊させていった。 14世紀の半ばにアナトリア半島の新興国家オスマン帝国がバルカン半島に進出。1371年のマリツァの戦いでセルビア帝国連合軍は壊滅した。セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチがキリスト教徒同盟の結成を呼びかけると、イヴァン・シシュマン(英語版)はボスニア王ステファン・トヴルトコ(英語版)と共に同盟に参加した。その後、いくつかの戦場で勝利したものの、ブルガリアはオスマン帝国の標的とされ、1388年にイヴァン・シシュマンは再びムラト1世に臣従を誓った。1396年、ニコポリスの戦いのあと、ブルガリアはついにオスマン帝国に併合された。
※この「第二次ブルガリア帝国」の解説は、「ブルガリアの歴史」の解説の一部です。
「第二次ブルガリア帝国」を含む「ブルガリアの歴史」の記事については、「ブルガリアの歴史」の概要を参照ください。
第二次ブルガリア帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:23 UTC 版)
「ブルガリア帝国」の記事における「第二次ブルガリア帝国」の解説
詳細は「第二次ブルガリア帝国」を参照 ブルガリアは第一次帝国の滅亡後東ローマ帝国領となっていた。バシレイオス2世はブルガリアの事情に配慮した統治を行ったが、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政がしかれ、民衆の不満が増大していった。12世紀後半にコムネノス王朝が倒されると東ローマ帝国は急速に衰退していった、そんな最中の1185年、タルノヴォ地方でブルガリア貴族の反乱が起こると、東ローマの統治に不満を持っていたブルガリアの人々はたちまち反乱者に荷担してゆき、1187年に反乱の指導者のひとりアセン1世(英語版)が即位して第二次ブルガリア帝国(ワラキア=ブルガリア王国)を建国した。 第二次ブルガリア帝国は東ローマ帝国を破って勢力を拡大し、第四回十字軍によってコンスタンティノポリスが征服されて東ローマ帝国が滅亡する1204年までにトラキアの西北部まで勢力を拡大した。東ローマ帝国が滅びるとトラキアの正教会信徒の保護を名目にラテン帝国と戦い、1205年には第2代皇帝カロヤン=ヨハニッツァがラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世を破った。 カロヤンの死後、イヴァン・アセン2世(アセン1世の子)とその従兄ボリルとの間で皇位をめぐっての争いが起きたが、イヴァン・アセン2世が最終的に勝利して皇帝として即位した。 イヴァン・アセン2世の時代にブルガリア帝国はアルバニア、マケドニアにまで進出してブルガリア帝国の最大版図を実現、帝国の最盛期を築き上げた。また、ヴェネツィア共和国と通商関係を結び、修道院や大学を建設するなど経済・文化的にもブルガリアに繁栄をもたらし、1235年には第1次ブルガリア帝国の滅亡以来失われていたブルガリア正教会の自治独立を回復した。 しかし1241年にイヴァン・アセン2世が死去して以降はモンゴル帝国の侵攻を受けて国土が荒廃し、また東ローマ帝国の継承政権の中でもっとも繁栄したニカイア帝国と戦って敗れた。13世紀末にはジョチ・ウルスの有力者ノガイによる侵攻を受けてその属国に陥り、その後も1330年にはセルビア人に大敗、また皇族や貴族の間での内紛が続いて急速に衰退していった。 1362年に新興のオスマン帝国がブルガリアのすぐ南方にあたるトラキア地方のアドリアノープル(エディルネ)を征服するとブルガリアはその直接の侵攻にさらされるようになり、オスマン帝国に服属を余儀なくされた。オスマン帝国はさらにブルガリアの直轄地化を徐々に進め、1396年までに全ブルガリアがオスマン帝国に併合されて、第二次ブルガリア帝国は滅亡した。
※この「第二次ブルガリア帝国」の解説は、「ブルガリア帝国」の解説の一部です。
「第二次ブルガリア帝国」を含む「ブルガリア帝国」の記事については、「ブルガリア帝国」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 第二次ブルガリア帝国のページへのリンク