モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻
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モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻(モンゴルのセルビア・ブルガリアしんこう)とは、「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻)のうち、バトゥとカダアン率いるモンゴル軍がハンガリー王国領クロアチア、ダルマチア、ボスニアを荒らした後、1242年の春にセルビア王国・第二次ブルガリア帝国に侵攻した際に生じた諸戦闘の総称である。
注釈
- ^ 日本人モンゴル史研究者の杉山正明は、「バトゥの征西」の主目的が当初から「ルーシ・東欧」にあったとするのは近代のヨーロッパ優越史観に基づく誤解であって、本来の目的はキプチャク草原の遊牧勢力の統合にあったとする[5]。その上で、キプチャク人の長コチャン(コテン)・カンが4万の大集団を率いてハンガリーに向かったことが、「東欧遠征」の直接的な切っ掛けになったとする[6]。
- ^ ルブルックの旅行記には、「ところで、マングカン(モンケ・カアン)は兄弟が8人ある。……アラブッカという名の同腹の末弟は自分のもとにおき、彼はキリスト教徒だった彼等の母親の幕営を有している。ヴィレルムス親方はその奴僕である。すなわち、父親からの兄弟の一人が親方をフンガリアのベレグラーウェという町で捕らえた……」とある[17]
- ^ ノガイがジョチ・ウルスの「右翼」に属することは『集史』に明記されるが、この「右翼」の実態については研究者によって意見が異なる。ジョチ・ウルス史研究者の赤坂恒明は、左翼=オルダ・ウルス、中央=バトゥ・ウルスとは別個に「右翼ウルス」が存在し、この「右翼ウルス」がヨーロッパ遠征の結果得た「新領土」こそドナウ川河口部一帯であったとする[30]
- ^ ノガイ諸子のバルカンでの活動についてはマムルーク朝の史家ヌワイリーの記述に詳しく、ヌワイリーはノガイの死亡後、ノガイの息子の間で内紛が起き、弟のテケを殺害したチュケが副官のトングズとともに「ワラキア人の国」を掠奪した上で「アスの国々(=ブルガリア)」に移住したと伝えている[34]
出典
- ^ 佐口 (1968), pp. 192–193.
- ^ a b Sophoulis (2015), p. 257.
- ^ Jackson (2005), p. 61.
- ^ Dimitrov (1997), p. 14.
- ^ 杉山 (2016), pp. 161–163.
- ^ 杉山 (2016), p. 165.
- ^ a b Giebfried (2013), p. 132.
- ^ 佐口 (1968), pp. 179.
- ^ Madgearu (2016), pp. 223–24.
- ^ Korobeinikov (2008), pp. 387–407.
- ^ a b Jackson (2005), p. 65.
- ^ a b c d e Sophoulis (2015), pp. 269–72.
- ^ Fine (1987), p. 145.
- ^ Curta (2006), pp. 412–14.
- ^ Fine (1987), p. 138.
- ^ a b c d e f g Madgearu (2016), pp. 228–35.
- ^ 高田 (2019), p. 259.
- ^ a b Sophoulis (2015), pp. 259–60.
- ^ Radičević (2012), p. 87.
- ^ Patsch (1993), p. 556.
- ^ a b Sophoulis (2015), pp. 272–73.
- ^ Giebfried (2013), p. 131.
- ^ Jackson (2005), p. 79, n. 55.
- ^ 佐口 (1968), p. 194.
- ^ Sweeney (1982), p. 183.
- ^ 高田 (2019), p. 207.
- ^ Jackson (2005), p. 103.
- ^ Rogers (1996), p. 21.
- ^ a b Vásáry (2005), p. 70.
- ^ 赤坂 (2005), pp. 133–136.
- ^ a b Jackson (2005), pp. 203–204.
- ^ Bruce Lippard, The Mongols and Byzantium, 1243–1341, Ph.D. dissertation, Indiana University, 1984, 194-195
- ^ Ciocîltan (2012), pp. 248–280.
- ^ 赤坂 (2005), pp. 178–180.
- 1 モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻とは
- 2 モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻の概要
- 3 ブルガリア侵攻
- 4 影響
- 5 参考文献
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