東ローマ帝国とは?

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東ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/29 15:57 UTC 版)

東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国ビザンティン帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。皇帝府は主としてコンスタンティノポリス[注 1][注 2]に置かれた。




  1. ^ 現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール
  2. ^ 380年以前の皇帝府は東方では主にニコメディアアンティオキアに置かれた。
  3. ^ オドアケルは東ローマ皇帝によって任命されたイタリア領主として帝国の西半分を統治するという体裁をとった。ローマ人にせよ「蛮族」と呼ばれた人々にせよ、これによって帝国がローマ人と蛮族の領域とに区別されたなどという認識は持っていなかった[4]
  4. ^ なお、当初はあくまでもそれまでの分担統治同様、一つの帝国を二人で分担統治する体制と捉えられていた。例えば、443年に地震で破損したローマ市のコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている[7]
  5. ^ 「東のローマ帝国」ではなく「ローマ帝国の東の部分」という意味である。
  6. ^ 井上浩一は「ユスティニアノス一世は皇帝Imperator,Augstusとだけ名乗った。七世紀のヘラクレイオス(在位610‐41年)や八世紀のレオーン三世(在位717~41年)も同様である。彼らはわざわざ「ローマ皇帝」と名乗っていないし、名乗る必要もなかったのである」(井上2009p20)と記載している。これはユスティニアヌス以前も同様で、例えば当時の皇帝からペルシア王への書簡がアンミアヌス・マルケリヌス『ローマ帝政の歴史Ⅰ』p216に引用されているが、皇帝は「陸海の勝者コンスタンティウス、永劫のアウグストゥス」と名乗っているだけで、「ローマ皇帝」とは名乗っていない。550年頃著されたプロコピオス『秘史』(以下、引用箇所は京都大学学術出版会和田廣訳)でも、無数に登場する「皇帝」は、わずかな例外以外「皇帝αὐτοκράτωρ/βασιλεὺς」単独で用いられている。「ローマ皇帝」そのものは、四つの用語で登場している。即ち、Ῥωμαίων ἄρχοντος,(ローマ人のアルコン、13-23(p107))、Ἰουστινιανὸς Ῥωμαίων αὐτοκράτωρ(ローマ皇帝ユスティニアヌス、26-30(p198))、Ῥωμαίων ἀρχὴν(23-1,p169)、Ῥωμαίων αὐτοκράτορες(30-2,p218)である(Ῥωμαίων ἀρχὴνは18-20(p139)では「ローマ帝国の支配者」と訳されていて、事実上「ローマ皇帝」を意味する箇所となっている。これを加えれば五か所)。Ῥωμαίων ἀρχὴνはこの箇所以外は総て「ローマ帝国」を表す用語として用いられている。なお、『秘史』(2015)では Ῥωμαίοις6-11(p51)や、βασιλέα24-27(p182)とだけあるところを、日本語訳では「ローマ皇帝」と訳しているので注意が必要である(Ῥωμαίοιςは通常は「ローマ人」を意味する用語)。このように、『秘史』に登場する「ローマ皇帝」という用語は登場回数も少ない上に表記にゆれがあり、称号として定着していた用語とは言い難いが、これはタキトゥスからアンミアヌス・マルケリヌスに至るまでの古代ローマの文学作品と共通している。なお、ディオクレティアヌスについても、26-41(p202)でΔιοκλητιανὸς Ῥωμαίων と登場しており、直訳すれば「ローマ人のディオクレティアヌス」となってしまうが、ここでのῬωμαίων は「ローマ皇帝」の意味で用いられている。『秘史』では都市ローマは4回言及されているが、いずれも、Ῥώμης となっていて、「ローマ帝国」とは異なった用語となっている)。Ῥωμαίων ἄρχοντοςは、principem Romanumの訳語である可能性がある(ケンタッキオー大学作成の文書ALL THAT GLITTERS IS NOT GOLD: THEORIES OF NOBLESSE OBLIGEIN CAROLINGIAN FRANCIA のp32に、"Society of Biblical Literature Greek New Testament"というギリシア語聖書におけるἄρχωνがヒエロニムスのウルガタ聖書のprincepsに対応しているとの記載がある。これが正しいとすれば、Ῥωμαίων ἄρχοντοςは「ローマの元首」ということになる
  7. ^ 「212年のカラカラ帝の立法<<Constitutio Antoniniana>>をもって、<<deditici>>を除くローマ帝国の全住人にローマ市民権が与えられて以来、「ローマ人」概念はもはや都市ローマとの結びつきを失って、ローマ帝国に居住するすべての市民を意味する言葉に変じていたのである」(渡辺金一著『ビザンツ経済社会史研究』p83、「三世紀以降「ローマ人」は、単なる都市の名称とは関係なく、「ローマ帝国の臣民」の意味で理解されることになった。なればこそローマ帝国の首府がローマ市を離れ、ニコメディアを経てコンスタンティノポリスへ移った後にも、「ローマ人」の名辞は帝国臣民の意味を保ちつつ、全帝国の自由民を対象に適用された」杉村1981pp139-140。杉村1981の第三章二節第一項の「「ローマ人」の概念」(pp138-146)は、後期ローマ帝国期における「ローマ人」概念を論じている。なお、東西分裂期の用語法については、註25(pp145-46)で解説されている。以下註25の全文「なお国民として「ローマ人」を論ずる際に、三九五年におけるローマ帝国東西二分問題にも注意しなければならない。三九五年以後、ローマを中心とする帝国の「西の部分 pars occidentalis」の住民は「西ローマ人οι έσπέριοι Ρωμαίοι 」と呼ばれたのに対し、帝国の「東の部分 pars orientalis」の住民は「東ローマ人οι έώοι Ρωμαίοι 」と呼ばれた。この限りでは一応「西ローマ」と「東ローマ」という概念は用いられたが、「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスに君臨した皇帝を指し、ローマで君臨した皇帝に対しては「ローマにおける皇帝ό βασιλευς έν Ρώμη」と呼ばれた。この二種類の帝位号は四七六年まで適用されたに過ぎず、ローマ帝国がその領域を西の部分で失った後は、もはや「ローマ人」を東西に分けて考える必要がなくなり、その意味でかれらはふたたび「ローマ人」の名で統一して呼ばれた」
  8. ^ 550年頃に書かれたプロコピオス『秘史』の日本語訳(2015、京都大学出版会、和田廣訳)では、「ローマ帝国」という日本語用語は60回登場しているが、原典では、それぞれ「Ῥωμαίων ἀρχῆς」が28回(更に「全帝国」の訳で2回、「ローマ皇帝」の訳で1回)、「Ῥωμαίων」が16回、「Ῥωμαίοις」が9回、「Ῥωμαίους」が2回と、原典に相当する用語がないのに日本語訳で「ローマ帝国」となっている箇所5回となっている。「Ῥωμαίων ἀρχῆς」は、「ローマ帝国全土」のニュアンスが強いが、「ローマ帝国」以外の意味で用いられているのは二度だけ((23-1,p169)と18-20(p139))で、それには「ローマ皇帝」「ローマ帝国の支配者」の訳語が当てられている。「Ῥωμαίων」と「Ῥωμαίοις」「Ῥωμαίους」は、「ローマ帝国」の意味よりも、「ローマ人」の意味の方で利用されている場合が多い(p169、23-1)
  9. ^ 「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P23))
  10. ^ もっとも初期の史料のひとつはアレクサンドリアのアタナシオスで373年の著作(杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』p109)、ラテン語の最古の用例は『ローマ帝政の歴史』16巻11-7(日本語版第一巻p169註7) Romaniaeであるが、転写の際に Romanae reiの表記が変わったとする研究者もいる(同書注)。なお、ロマニアは中世西欧では小アジアの旧ビザンツ領だと認識していたようで、第一回十字軍を提唱した1095年クレルモン教会会議におけるウルバヌス2世の演説では、「トルコ人やペルシア人がロマニア(Romaniae)の土地の境界にまで押し寄せた」との文言がある(Fulcheri Carnotensis著『Historia Hierosolymitana』1-3-3,p133(フーシェ・ド・シャルトル『エルサレムへの巡礼者の事績』)なお、丑田弘忍訳「エルサレムへの巡礼者の事績」(序+第一巻)では当該部分は「トルコ人とアラブ人が地中海にまで、即ちルームの境界の」(p7)と訳されている)が、その他の箇所では、「ニコメディアに至るまでルーム全土を手中に収めていた」(p15、『Historia Hierosolymitana』1-9-5,p180)、「ニケアを支配していたルーム(Romaniam)のスレイマン」(p17)(『Historia Hierosolymitana』1-11-4,p192)と登場するなど、小アジア側の旧ビザンツ領を示している。なお、丑田訳p14では「ギリシアのその他の市」とあり、バルカン半島を意味するように受け取れるが、原文(1-8-8,p174-5)ではバルカン半島の諸都市の名前が逐一挙げられていて、「ギリシア」という用語は登場していないなど注意を要する
  11. ^ 13世紀以降、東ローマ帝国の民衆は「ギリシア人」を自称するようになった[15]
  12. ^ ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる[16]
  13. ^ 中世・現代ギリシア語ではビザンティオン。
  14. ^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンByzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich が用いられるのが一般的である。
  15. ^ 例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。
  16. ^ a b 「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も古代ギリシアローマ時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」(井上2009、p.5)
  17. ^ 日本では、一部の学者で「中世ローマ帝国」という用語が利用されている。梅田良忠が1958年の『東欧史』(山川出版社)で提唱し、渡辺金一が1980年に『中世ローマ帝国』(岩波新書)を出版、大月康弘が2018年に「中世ローマ帝国の社会経済システム」を書いているが、いずれも一般化はしていない。なお、中世ドイツ史研究者の三佐川亮宏は神聖ローマ帝国を中世ローマ帝国と書いていることがある(『ドイツ史のはじまり』あとがきp445(創文社、2013年)
  18. ^ しかしたとえば、カールの伝記を記したエインハルドゥスは、東の皇帝を呼ぶのに「コンスタンティノープルの皇帝」「ローマ人の皇帝」「ギリシア人の皇帝」とまちまちであった[21]
  19. ^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
  20. ^ 例えばローマ帝国、ビザンツ帝国、ラテン帝国ニカイア帝国など。
  21. ^ 「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」(井上浩一栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P71-72))
  22. ^ 古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待ってテオドシウス2世に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された。
  23. ^ ただし井上浩一は6世紀以前には王朝という観念は薄かったとしている[44]
  24. ^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
  25. ^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
  26. ^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
  27. ^ ミカエル8世の娘(Euphrosyne)がノガイ・ハーンの妃になった。
  28. ^ もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「ツァーリ」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
  29. ^ 文学作品でも基本的には「皇帝」とのみ記載されたが、稀に「ローマ皇帝」という用語が使われていた。ローマ皇帝#ローマ皇帝に関わる称号や権限の注を参照
  30. ^ 段階的な説明としては、まず9世紀末にレオーン6世が元来の意味での市民(デーモス)を否定する勅令を出し、その直後に編纂させた官職表『クレートロロギオン英語版』でデーモスという語を官職名として再定義した[61]
  31. ^ 東ローマ帝国において、市民による歓呼は6世紀までは実際に重視されていたが7世紀以降には廃れていた[64]
  32. ^ そもそも当時のギリシア語にはローマ共同体を表すレス・プブリカ(Res publica)に相当する語すらなかったともいう[75]
  33. ^ レオ1世に先だってマルキアヌスが戴冠を行ったとする説もある[88]
  34. ^ ただし、井上浩一は論文「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」(#笠谷2005p194-5)にてレオン一世の戴冠について述べたくだりで「総主教による戴冠は、それ自体として皇帝を生み出すものとは考えられなかった。総主教は、ある場合には元老院・市民・軍隊の代表者として戴冠し、ある場合には皇帝によって指名された人物を改めて聖別したに過ぎない」としている
  35. ^ #笠谷2005p198、井上浩一「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」p199にて井上浩一は、「皇帝自らが戴冠するという式次第」がマケドニア朝で発生したことについて「帝位の世襲が確立した時期」であったとコメントしている
  36. ^ ただし、こうした法令は1世紀の「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」で登場しており、セウェルス朝の法学者ウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)している(ローマ皇帝#アウグストゥス以後の皇帝権の変化参照)
  37. ^ ただしユスティニアヌス1世が臣下に跪拝を求めた際には元老院議員からの強い反発があったという[90]。これが10世紀ともなると最高位の大臣ですら皇帝の奴隷であることを名誉なこととして抵抗なく跪拝を行うようになるのである[90]。ユスティニアヌス1世の時代は専制君主制へと移行する過渡期だった。
  38. ^ レミィ2010、pp.151-153の訳者あとがきによると、「ローマの帝政は、元老院というオブラートに包まれていたにせよ、その始まりから皇帝による軍事独裁だった」とされ、「著者は、ディオクレティアヌスは最後の「ローマ皇帝」だった、と述べている」とした上で、現在の歴史学では「「専制君主政」という言葉を用いる専門のローマ史研究者はほとんどいないだろう」し、「「専制君主政」という言い方は完全に廃れてしまった」と記載している。
  39. ^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
  40. ^ 6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など。
  41. ^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
  42. ^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマ帝国と敵対していたことが多かった。また、帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた
  43. ^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
  44. ^ 9世紀末以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
  45. ^ 『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリアセルビアロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。
  46. ^ ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある。
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  8. ^ ローマへの対抗意識は既に4世紀末にはテミスティオスの演説にも見て取ることができる井上1990、p.71。
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  115. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。
  116. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。
  117. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。
  118. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。
  119. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。
  120. ^ Treadgold(1998),p.67"





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