東ローマ帝国とは?

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東ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 14:02 UTC 版)

東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。




  1. ^ a b c 世界大百科事典 第2版 - ビザンティンていこく【ビザンティン帝国】 コトバンク. 2019年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c Davis 1990, p. 260.
  3. ^ 和田廣. 日本大百科全書(ニッポニカ) - ビザンティン帝国 コトバンク. 2019年1月3日閲覧。
  4. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年
  5. ^ 『世界大百科事典』平凡社、1998年、ローマ理念
  6. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年
  7. ^ 「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P23))
  8. ^ ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる。(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、p.1)
  9. ^ なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市のコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。本村凌二編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233
  10. ^ 「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も古代ギリシアローマ時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」[井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学学術出版会 P5))
  11. ^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンByzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich が用いられるのが一般的である。
  12. ^ 例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。
  13. ^ 「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」(井上浩一栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P71-72))
  14. ^ カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。
  15. ^ 梅田良忠編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)
  16. ^ 渡辺金一『中世ローマ帝国―世界史を見直す—』 (岩波書店、1980年)。
  17. ^ 井上浩一大阪市立大学教授)など。
  18. ^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
  19. ^ a b 秀村欣二「古代・中世境界論」『秀村欣二選集 第4巻』、2006年
  20. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫、2008年
  21. ^ 『The Oxford Classical Dictionary 4th ed.』Rome(History)、2012年
  22. ^ 米田利浩「古代末期のギリシア文化」『ギリシア文化の遺産』南窓社、1993年
  23. ^ 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年
  24. ^ 小田謙爾「解体前夜のローマ帝国」『古代地中海世界の統一と変容』青木書店、2000年
  25. ^ ゲオルク・オストロゴルスキー著、訳)和田廣『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
  26. ^ 弓削達『永遠のローマ』講談社学術文庫、1991年
  27. ^ 古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待ってテオドシウス2世に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された。
  28. ^ a b 尚樹 1999, pp. 272-275
  29. ^ 尚樹 1999, pp. 272-275
  30. ^ 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』(2005)pp, 19-22
  31. ^ Tunisia - Carthage”. www.sights-and-culture.com. 2012年9月20日閲覧。
  32. ^ ʿAbd al-Malik”. www.britannica.com. 2012年9月20日閲覧。
  33. ^ Battle of Carthage (698)”. www.myetymology.com. 2012年9月20日閲覧。
  34. ^ ヒッティ, フィリップ・K『アラブの歴史』下、岩永博訳、講談社講談社学術文庫〉、1983年、初版。ISBN 4-06-158592-4、p.509
  35. ^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
  36. ^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
  37. ^ ハリス 2018, pp. 272-279
  38. ^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
  39. ^ ミカエル8世の娘(Euphrosyne)がノガイ・ハーンの妃になった。
  40. ^ もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「ツァーリ」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
  41. ^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
  42. ^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
  43. ^ 中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
  44. ^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた
  45. ^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
  46. ^ 渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章
  47. ^ Byzantine Paganism
  48. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)
  49. ^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10頁。
  50. ^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10-12頁。
  51. ^ 井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制」、2-3頁。
  52. ^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、9頁。
  53. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、43頁。
  54. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。
  55. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。
  56. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。
  57. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。
  58. ^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。
  59. ^ Treadgold(1998),p.67"





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