ウァレンティニアヌス朝
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- ローマ帝国
- Imperium Romanum
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←364年 - 455年 →
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(ウァレンスのソリドゥス[注釈 1]) -
東西ローマ帝国(395年) -
首都 ローマ
コンスタンティノポリス
ラヴェンナ- 西ローマ皇帝
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364年2月26日 - 375年11月17日 ウァレンティニアヌス1世 364年3月28日 - 378年8月9日 ウァレンス 367年8月4日 - 383年8月25日 グラティアヌス 375年11月17日 - 392年5月15日 ウァレンティニアヌス2世 383年 - 388年8月28日 マグヌス・マクシムス 392年 - 425年 空位時代 425年10月23日 - 455年3月16日 ウァレンティニアヌス3世 - 東ローマ皇帝
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364年 - 378年 ウァレンス 379年 - 457年 テオドシウス朝 379年 - 395年 テオドシウス1世 383年 - 408年 アルカディウス 402年 - 450年 テオドシウス2世 450年 - 457年 マルキアヌス 457年 - 518年 レオ朝 457年 - 474年 レオ1世 474年 - 474年 レオ2世 475年 - 476年 バシリスクス - 変遷
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ヨウィアヌスが死亡、ウァレンティニアヌス1世が即位 364年 ハドリアノポリスの戦いでウァレンスが死亡 378年8月9日 テオドシウス1世が死亡、帝国分裂 395年 ローマ略奪 410年 ウァレンティニアヌス3世が死亡 455年3月16日
ウァレンティニアヌス朝(ウァレンティニアヌスちょう)は、ウァレンティニアヌス1世、ウァレンス、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世の4人、もしくはこれに379年から東方正帝となったテオドシウス1世を含め5人のローマ皇帝から成る364年から392年のローマ帝国の王朝である。王朝の創始者であるウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母(名はファウスタとされる)はコンスタンティヌス朝に属するコンスタンティウス1世とその後妻テオドラの孫娘(2人の娘の1人アナスタシアの子)である為、コンスタンティヌス朝とは女系という形で血縁関係がある。故に兄弟はコンスタンティウス1世・テオドラ夫妻の曾孫で、コンスタンティヌス1世の大甥、クリスプスやコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世、コンスタンティウス・ガッルス、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの従兄弟甥にあたる。
歴史
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王朝断絶後
王朝の断絶(ウァレンティニアヌス2世の死去で男系が断絶)後も、ウァレンティニアヌス1世の娘ガッラがテオドシウス1世に嫁いでいたので女系を通じて血統は存続した。そしてガッラとテオドシウスとの間に生まれた娘、ガッラ・プラキディアは後のローマ皇帝ホノリウス配下の部将で後に正帝となるコンスタンティウス3世に嫁ぎウァレンティニアヌス3世が生まれた。ウァレンティニアヌス3世は後に皇帝となった(在位425年〜455年、ただしウァレンティニアヌス3世はテオドシウス朝に含む)。 ウァレンティニアヌス1世の子孫は、6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。
歴代君主
西方帝
- ウァレンティニアヌス1世(在位364年 - 375年)
- グラティアヌス(在位375年 - 383年)
- ウァレンティニアヌス2世(在位375年 - 392年)
東方帝
系図
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ウァレンティニアヌス1世 西方帝 |
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ウァレンス 東方帝 |
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グラティアヌス 西方帝 |
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ガッラ |
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テオドシウス1世 東方帝 全ローマ帝 |
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ウァレンティニアヌス2世 西方帝 |
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テオドシウス朝 |
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脚注
注釈
- ^ Showing Valentinian and Valens on the reverse, marked victoria augg· ("the Victory of Our Augusti"). They hold together the orb, a symbol of power
参考文献
参照
- Wikipedia英語版Valentinian dynastyより
関連項目
ウァレンティニアヌス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)
「ローマ皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説
詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 ウァレンティニアヌス1世 FLAVIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 321年キバラエ(属州パンノニア) 364年2月26日 – 375年11月17日 ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 375年11月17日 自然死 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 東ローマ 328年キバラエ(属州パンノニア) 364年3月28日 – 378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 グラティアヌス FLAVIVS GRATIANVS AVGVSTVS 西ローマ 359年シルミウム(属州パンノニア) 367年8月4日 – 383年8月25日 ウァレンティニアヌス1世の長男。父の存命中に西方担当の共同皇帝として指名される。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。マグヌス・マクシムスに敗れて殺害される。 383年8月25日 マグヌス・マキシムスに敗死 ウァレンティニアヌス2世 FLAVIVS VALENTINIANVS INVICTVS AVGVSTVS 西ローマ 371年ミラノ(イタリア本土) 375年11月17日 – 392年5月15日 ウァレンティニアヌス1世の次男。父ウァレンティニアヌス1世の没後、兄グラティアヌスの共同皇帝として指名される。392年5月15日、宮廷で死体として発見される。 392年5月15日 自殺または他殺
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