ウァレンティニアヌス朝とは? わかりやすく解説

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ウァレンティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 14:52 UTC 版)

ローマ帝国
Imperium Romanum

364年 - 455年



(ウァレンスのソリドゥス[注釈 1]

東西ローマ帝国(395年)
首都 ローマ
コンスタンティノポリス
ラヴェンナ
西ローマ皇帝
364年2月26日 - 375年11月17日 ウァレンティニアヌス1世
364年3月28日 - 378年8月9日 ウァレンス
367年8月4日 - 383年8月25日 グラティアヌス
375年11月17日 - 392年5月15日 ウァレンティニアヌス2世
383年 - 388年8月28日 マグヌス・マクシムス
392年 - 425年 空位時代
425年10月23日 - 455年3月16日 ウァレンティニアヌス3世
東ローマ皇帝
364年 - 378年 ウァレンス
379年 - 457年 テオドシウス朝
379年 - 395年 テオドシウス1世
383年 - 408年 アルカディウス
402年 - 450年 テオドシウス2世
450年 - 457年 マルキアヌス
457年 - 518年 レオ朝
457年 - 474年 レオ1世
474年 - 474年 レオ2世
475年 - 476年 バシリスクス
変遷
ヨウィアヌスが死亡、ウァレンティニアヌス1世が即位 364年
ハドリアノポリスの戦いでウァレンスが死亡 378年8月9日
テオドシウス1世が死亡、帝国分裂 395年
ローマ略奪 410年
ウァレンティニアヌス3世が死亡 455年3月16日

ウァレンティニアヌス朝(ウァレンティニアヌスちょう)は、ウァレンティニアヌス1世ウァレンスグラティアヌスウァレンティニアヌス2世の4人、もしくはこれに379年から東方正帝となったテオドシウス1世を含め5人のローマ皇帝から成る364年から392年ローマ帝国王朝である。王朝の創始者であるウァレンティニアヌス1世・ウァレンス兄弟の母(名はファウスタとされる)はコンスタンティヌス朝に属するコンスタンティウス1世とその後妻テオドラの孫娘(2人の娘の1人アナスタシアの子)である為、コンスタンティヌス朝とは女系という形で血縁関係がある。故に兄弟はコンスタンティウス1世・テオドラ夫妻の曾孫で、コンスタンティヌス1世の大甥、クリスプスコンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンス1世コンスタンティウス・ガッルスフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの従兄弟甥にあたる。

歴史

王朝断絶後

王朝の断絶(ウァレンティニアヌス2世の死去で男系が断絶)後も、ウァレンティニアヌス1世の娘ガッラがテオドシウス1世に嫁いでいたので女系を通じて血統は存続した。そしてガッラとテオドシウスとの間に生まれた娘、ガッラ・プラキディアは後のローマ皇帝ホノリウス配下の部将で後に正帝となるコンスタンティウス3世に嫁ぎウァレンティニアヌス3世が生まれた。ウァレンティニアヌス3世は後に皇帝となった(在位425年〜455年、ただしウァレンティニアヌス3世はテオドシウス朝に含む)。 ウァレンティニアヌス1世の子孫は、6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。

歴代君主

西方帝

東方帝

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウァレンティニアヌス1世
西方帝
 
ウァレンス
東方帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グラティアヌス
西方帝
 
ガッラ
 
テオドシウス1世
東方帝
全ローマ帝
 
ウァレンティニアヌス2世
西方帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テオドシウス朝
 

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ Showing Valentinian and Valens on the reverse, marked victoria augg· ("the Victory of Our Augusti"). They hold together the orb, a symbol of power

参考文献

参照

関連項目


ウァレンティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)

ローマ皇帝一覧」の記事における「ウァレンティニアヌス朝」の解説

詳細は「ウァレンティニアヌス朝」を参照 肖像名称生年誕生在位期間即位背景没年死因 ウァレンティニアヌス1世 FLAVIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 321年キバラエ(属州パンノニア364年2月26日375年11月17日 ユリアヌス側近ヨウィアヌス病死に伴い遠征軍から支持され皇帝即位宣言する帰国後は弟ウァレンス東方担当共同皇帝とし、蛮族侵入本格化する中で優れた軍功上げた375年11月17日 自然死 ウァレンス FLAVIVS IVLIVS VALENS AVGVSTVS 東ローマ 328年キバラエ(属州パンノニア364年3月28日378年8月9日 ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達後見人務める。ハドリアノポリスの戦いゴート軍に敗れて戦死する378年8月9日 ゴート軍との戦いで敗死 グラティアヌス FLAVIVS GRATIANVS AVGVSTVS 西ローマ 359年シルミウム属州パンノニア367年8月4日383年8月25日 ウァレンティニアヌス1世長男。父の存命中に西方担当共同皇帝として指名される叔父ウァレンス死後新し東方担当皇帝テオドシウス抜擢したマグヌス・マクシムス敗れて殺害される383年8月25日 マグヌス・マキシムスに敗死 ウァレンティニアヌス2世 FLAVIVS VALENTINIANVS INVICTVS AVGVSTVS 西ローマ 371年ミラノイタリア本土375年11月17日392年5月15日 ウァレンティニアヌス1世次男。父ウァレンティニアヌス1世没後、兄グラティアヌス共同皇帝として指名される392年5月15日宮廷死体として発見される392年5月15日 自殺または他殺

※この「ウァレンティニアヌス朝」の解説は、「ローマ皇帝一覧」の解説の一部です。
「ウァレンティニアヌス朝」を含む「ローマ皇帝一覧」の記事については、「ローマ皇帝一覧」の概要を参照ください。

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