にしローマ‐ていこく【西ローマ帝国】
西ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 05:53 UTC 版)
西ローマ帝国(にしローマていこく)は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である[1][2][3][4]。
注釈
- ^ 例えばローマ市では443年に地震で破損したコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている[6]。
- ^ 正式にはロムルス・アウグストゥス。アウグストゥルスは小アウグストゥスの意。
- ^ 例:シアグリウス支配下のソワソン管区、アウレリウス・アンブロシウス支配下のブリタンニア
- ^ このことからオドアケルをローマ帝国の初代イタリア王(rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかについては議論がある。
- ^ ゼノンはネポスの風評が悪いことを気にしており、ネポスを全面的には支持していなかった[21]。
- ^ その後もガリア北部のシアグリウスがネポスの名で貨幣を鋳造していたが、シアグリウスも486年にフランク族に敗れて処刑された。
- ^ 一般の西洋史ではロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及され、たいてい亡命後のユリウス・ネポスは重要視されていない。
- ^ ただし、東ローマ皇帝が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。東ローマ皇帝は8世紀半ばまでラヴェンナおよびローマ、さらに11世紀まで南イタリア(マグナ・グラエキア)という西方領土を領有し続けた。また、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかったにせよ、12世紀のマヌエル1世のように、イタリア遠征を行って西ローマ帝国を支配しようと試みる皇帝はいた。
- ^ 東方正帝は長男のテオドシウス。
- ^ この経過について、アラブ勢力の侵入を契機に各地にテマが成立し、それらは「半独立政権」の様相を呈したとしてそれまでの東ローマの国家体制との連続性を否定した上で、その「テマを地方行政組織に編成しなおすことによって新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する」と捉える文献[43] もある。
- ^ 例外はブリタニアとアフリカである[44]。
- ^ イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロマンシュ語など。
出典
- ^ [西ローマ帝国]『ブリタニカ国際大百科事典』
- ^ a b c [西ローマ帝国]『世界大百科事典』
- ^ a b c d [西ローマ帝国]『日本大百科全書』
- ^ a b [西ローマ帝国]『百科事典マイペディア』
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- ^ 南川2015、pp.36-46。
- ^ 南川2015、pp.45-57。
- ^ 尚樹1999、p.60。
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- ^ 南川2018、p.66。
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- ^ 「テオドリック」『西洋古典学事典』。
- ^ グラール2000、p.77。
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- ^ Ernst Stein, "Historie du Bas-Empire"
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- ^ オストロゴルスキー2001、p.105。
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- ^ 世界の歴史11、p.43。
- ^ ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史、pp.190-191
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- ^ a b c ヨーロッパ歴史百科、p.79。
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- ^ パランク1976、p.130。
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- ^ Barnes, T. D. (1983). Martindale, J. R.. ed. “Late Roman Prosopography: Between Theodosius and Justinian”. Phoenix 37 (3): 248–270. doi:10.2307/1088953. ISSN 0031-8299 .
西ローマ帝国
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詳細は「西ローマ帝国」を参照 その滅亡をもって、ヨーロッパ史では古代と中世との境界とする場合がある。
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西ローマ帝国
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3世紀以降、ゲルマン人の諸部族は次第にリーメスを越え、ローマ帝国の支配領域に侵入した。ゲルマン系諸民族は、武力衝突を起こしたり、または平和裏に移住したが、こうしてローマ帝国の一部ではゲルマン化が帝国の崩壊以前から徐々に進んでいった。多くの場合、ローマ人はゲルマン人をフォエデラティとして受け入れ、ローマ帝国の国境内に定住地を割り当てた。
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