西ローマ帝国の「滅亡」とは? わかりやすく解説

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西ローマ帝国の「滅亡」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:43 UTC 版)

西ローマ帝国」の記事における「西ローマ帝国の「滅亡」」の解説

18世紀になると、ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポス廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現生み出され、この表現は現在でも慣用的用いられている。しかしながら西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く不正確不適切表現」として、学問分野より見直し求められている。 西方正帝廃止西ローマ帝国滅亡ではない。西方正帝地位廃止された後も、正帝以外の各種公職政府機関は健在であった少なくとも法律・制度行政機構の面においては西ローマ帝国滅亡」といった断絶見出すことはできないいわゆるゲルマン王国呼ばれる領域においても、実際に行政権行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人属州総督であったし、住民もまた東西で共通のローマ市民権所有しつづけていた。彼らローマ人西方正帝廃止後も変わらずローマ法適用を受け、帝国租税台帳によってローマ人文官によって税が徴収されていた。一方ゲルマン王らは名目上ローマ帝国によって雇用されている立場であり、帝国から給金受け取っていた。オドアケルオドアケルの後にイタリア統治権認められ東ゴート王らにしてもローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国イタリア統治委任され西ローマ帝国における臣下一人に過ぎなかったのである。彼らは西ローマ帝国での地位利益確保するために西方正帝廃して帝国政治に参加するようになったであって、彼らに西ローマ帝国滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマ生活様式保存しようとさえした。西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なローマ帝国国民諸民族君臨するローマ人」であるとの認識共有していたのである20世紀以降の歴史においてはアンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット(フランス語版)、フランソワ・マサイ(フランス語版)、K.F.ヴェルナードイツ語版フランス語版)、ピーター・ブラウンといった歴史家による「西ローマ帝国滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解支持されるようになっているまた、古代ローマにおける主権者皇帝ではなくSPQR元老院ローマ市民)であるとされていたことから、SPQR存在する限りにおいて古代ローマ健在であったとの説明がされることもある。

※この「西ローマ帝国の「滅亡」」の解説は、「西ローマ帝国」の解説の一部です。
「西ローマ帝国の「滅亡」」を含む「西ローマ帝国」の記事については、「西ローマ帝国」の概要を参照ください。

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