中世以降のイタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「イタリア統一運動」の記事における「中世以降のイタリア」の解説
「イタリア戦争」も参照 5世紀の西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分と、サルデーニャやシチリアなどの島々は、ゲルマン人や東ローマ帝国、イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。 11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第に都市国家(英語版)が発達するようになった。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた。教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家の神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ家/ブルボン家のフランス)の代理戦争の場と化した。 18世紀に入るとフランス、ドイツ、イギリスで啓蒙思想が高まり、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている。 18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国、ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国、モデナ公国、ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国(英語版)、サンマリノ共和国、教皇国家そしてナポリ=シチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク君主国の支配下にあった。
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