イタリア戦争
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イタリア戦争(イタリアせんそう、イタリア語: Guerre d'Italia、フランス語: Guerres d'Italie)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である[1]。教皇領、イタリアの都市国家、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年から1559年としてはいるが、実際には戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
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- ^ Blockmans, Emperor Charles V, 74; Knecht, Renaissance Warrior, 493. 当時、地名の綴りがCrépyではなくCrespyだったので「クレスピーの和約」とも呼ばれている(The Columbia Encyclopedia, 6th ed. (New York: Columbia University Press, 2013), s.v. "Crespy, Treaty of", http://www.encyclopedia.com/doc/1E1-X-Crespy.html (2014年7月22日閲覧)参照)。
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- ^ Elliott, J.H. (1968). Europe Divided: 1559–1598 (page 11). HarperCollins. ISBN 978-0-06-131414-8
- ^ Michael Mallett and Christine Shaw, The Italian Wars: 1494–1559, p. 283.
- ^ Arasse, Daniel (1998). Leonardo da Vinci
- ^ この当時、1スクードは金3.3~3.4g,銀32~36gに相当。
- ^ della Chiesa, Angela Ottino (1967). The Complete Paintings of Leonardo da Vinci. p. 86
- ^ Max Boot, War Made New: Technology, Warfare, and the Course of History, 1500 to Today (New York: Penguin Group Inc., 2006), 4–5.
- 1 イタリア戦争とは
- 2 イタリア戦争の概要
- 3 名称
- 4 イタリア戦争と同時代を描いた作品
イタリア戦争
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フランスを事実上統一したヴァロワ朝は、イタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子のオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。 1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの子フランソワ1世が王位を継承した。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。 その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者ジャック・クレマンによって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。 こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とし、ロングウィル公となったオルレアン=ロングヴィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルル(英語版)を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。また、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。
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イタリア戦争
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「ユリウス2世 (ローマ教皇)」の記事における「イタリア戦争」の解説
詳細は「カンブレー同盟戦争」を参照 その在位の初めからユリウス2世は教皇領をめぐる複雑な権力関係や大国の影響力を一掃したいと考えていた。そのためにまず取り組んだのは教皇領をほぼ我が物としていたボルジア家の影響力を拭い去ることであった。複雑な折衝の末にこれに成功すると、ボルジア家のもとで追い込まれていたかつての名族オルシーニ家とコロンナ家の関係正常化の仲介をおこない、教皇領とローマの貴族たちとの関係も改善した。 ローマの安全性を確実なものとするため、ユリウス2世はファエンツァやリミニなど諸都市からヴェネツィア軍を追い出した。彼らはアレクサンデル6世逝去のどさくさに紛れてそれらの都市を占領していた。1504年には対立することの多かった神聖ローマ帝国とフランスの同盟に尽力し、その力を借りることでヴェネツィアの影響力を弱めようとした。これはイタリアの独立性を弱める危険があるが、当面の策としては最上のものであった。しかし、この同盟も結局実際的な影響力はあまりなく、ロマーニャのいくつかの街からヴェネツィア軍が撤退したにとどまったが、ついに1506年に教皇自らが軍隊を率いて出たことでペルージャやボローニャを陥落させ、フランスと神聖ローマ帝国が教皇を無視できなくなるほどの影響力を持つことに成功した。 1508年にはフランス王ルイ12世およびアラゴンのフェルナンド2世と組んで対ヴェネツィア共和国同盟を結成。1509年初頭にはヴェネツィアへの禁輸令などによって締め付けを強化し、アニャデッロの戦いでヴェネツィアを破ったことで共和国のイタリア半島における影響力を一挙に消滅させることに成功した。しかし、ここにきてユリウス2世はイタリアにおけるフランスの影響力の大きさを危惧するようになった。 そこでヴェネツィア共和国と同盟し、フランスと敵対した。しかし、フランスとイギリスを離間させようとした教皇の策は失敗し、逆に1510年にフランスがトゥールで教会会議を招集するという反撃にうって出た。フランスの司教団は教皇への忠誠を放棄し、ルイ12世は教皇の廃位を企てた。この目的のためピサ教会会議が準備され、1511年に実際に開会した。 ユリウス2世はヴェネツィア共和国、アラゴンのフェルナンド2世と対フランス同盟である神聖同盟を締結。イングランドのヘンリー8世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世も同盟に加えることに成功した。教皇はピサでの教会会議に対抗して、1512年にローマに公会議(第5ラテラン公会議)を召集した。公会議の召集はユリウス2世が教皇着任にあたって実施を約束したものであったが、なかなか実行されずにいたものであった。こうして足元を固めた教皇はついにフランス軍をアルプス北部へ追いやることに成功した。 しかし、これもフランス以外の大国がイタリアに影響力を及ぼすという結果につながるものでしかなかった。ローマ周辺の教皇領の政治的安定と独立を獲得した教皇であったがイタリア半島全体の独立の夢はかなわず、1513年2月に病没した。教皇の遺体は司教座聖堂であったサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに葬られた(同教会にある有名なミケランジェロのモーセ像はユリウス2世の墓所のためにつくられたものである)。
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イタリア戦争(1494年 - 1498年)
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1494年 - 1498年)」の解説
詳細は「第一次イタリア戦争」を参照 1494年、フランス王シャルル8世が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程でメディチ家がフィレンツェから追放された。翌年ナポリを占領するが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結び対抗したため、撤退する。
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イタリア戦争(1499年 - )
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1499年 - )」の解説
詳細は「第二次イタリア戦争」、「グラナダ条約」、「トレント条約」、「ブロワ条約 (1504年)」、および「ノヴァーラの戦い (1500年)」を参照 1499年、フランス王ルイ12世が「父オルレアン公からミラノを継承した」と主張し、ミラノ出身のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオを最高司令官とするフランス軍が侵攻(オルレアン公はヴィスコンティ家の血を引いていた)。1500年にノヴァーラの裏切り(ドイツ語版、英語版)で、スフォルツァ家のイル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。1503年、スペインのコルドバ将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。1504年、ブロア条約により休戦。フランスがナポリを放棄。
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イタリア戦争(1521年 - 1526年)
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1521年 - 1526年)」の解説
詳細は「第三次イタリア戦争」および「マドリード条約 (1526年)」を参照 1521年以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った。1521年、教皇レオ10世(メディチ家出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。 1522年のロドス包囲戦でロドス島の聖ヨハネ騎士団とヴェネツィア共和国の連合軍がオスマン帝国に敗北する。 ドイツ農民戦争(1524年 - 1525年)。 1525年2月24日、パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世は捕虜となり、マドリードに幽閉される。1526年、捕虜となっていたフランソワ1世はカール5世とマドリード条約を締結することを余儀なくされ、釈放される代わりにイタリア、フランドル、ブルゴーニュへの請求を全て取り下げた。
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イタリア戦争(1536年 - 1538年)
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1536年 - 1538年)」の解説
詳細は「第四次イタリア戦争」を参照 1535年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(英語版)が死去した。フランチェスコ2世に跡継ぎはなく、カール5世がミラノ公妃クリスティーヌ・ド・ダヌマルクの母の兄にあたるためミラノ公を継いだ。当時は民衆もイタリア諸国も反対しなかったが、カール5世の子フェリペが公国を継承すると、フランソワ1世はイタリアに侵攻した。 フランスの大将フィリップ・ド・シャボー(英語版)は1536年3月にピエモンテへ進軍、翌月トリノを落城させたが、ミラノの包囲は失敗した。カールは反撃してプロヴァンスに侵攻、エクス=アン=プロヴァンスまで軍を進めて1536年8月に占領したが、フランス軍がマルセイユへの道を塞いだため進軍が止まってしまった。その後、防御を整えたアヴィニョンを攻めずスペインへ撤退した。 一方、イタリアにおいてフランソワ1世の軍勢はピエモンテで補給してジェノヴァへ進軍していた。また1536年、ジャン・ド・ラ・フォレ(英語版)の外交努力でオスマン帝国との同盟を結び、年末にはマルセイユでフランス=オスマン連合艦隊が集結し、ジェノヴァを脅かしていた。艦隊がジェノヴァを砲撃する一方フランス陸軍がジェノヴァを包囲する、という作戦案も定められたが、フランスとオスマン帝国にとっては不幸なことに、1536年8月に連合軍がジェノヴァに到着する頃にはジェノヴァの守備が大幅に強化されていた。その代わり、連合軍はピエモンテで荒らしまわり、多くの城を占領した。1537年、バルバロス・ハイレッディンがイタリア海岸で海賊行為を繰り返したのちコルフを包囲したが、あまりフランスの助けにはならなかった。 カール5世は緒戦で不利だった上、フランスとオスマンとの二正面作戦の危険もあるため、結局折れて1538年6月18日にフランソワ1世とニースの和約で戦争を終結させた。
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イタリア戦争(1542年 - 1546年)
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1542年 - 1546年)」の解説
詳細は「第五次イタリア戦争」、「クレピーの和約」、および「アルドレスの和約」を参照 フランス王フランソワ1世は再びオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を締結、1542年7月12日に神聖ローマ帝国に宣戦布告し、ミラノはまたしても戦争の口実となった。フランソワ1世は自身の最後となるイタリア侵攻において、まずはペルピニャン包囲戦(英語版)に取り掛かった。1543年8月22日、バルバロス・ハイレッディン率いるフランス・オスマン連合艦隊はニース包囲戦(英語版)に勝利してニースの町を占領、続いて城塞を包囲した。城塞の軍は1か月内に救出されたが、キリスト教とイスラム教の軍勢が共同してキリスト教徒の町を攻撃することは当時において考えられないことだった。したがって、フランソワ1世としてもオスマン軍の役割を軽く扱う必要があった。しかし、彼はその政策をさらに進め、トゥーロンをオスマン艦隊の冬営用にバルバロスに貸し出した。 アンギャン伯フランソワ(英語版)率いるフランス軍は1544年4月14日のチェレゾーレの戦い(英語版)で勝利したが、ロンバルディアへさらに深く進軍することはできなかった。同年6月4日、セラヴァッレの戦い(英語版)で第6代ペスカーラ侯爵アルフォンソ・ダヴァロス(英語版)率いる帝国軍がフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことでイタリアにおける戦いが終わった。 フランス本土ではイングランド王ヘンリー8世が1544年7月14日にカレーに渡り、すでに進軍していたイングランド軍と合流、そのままブローニュ=シュル=メール包囲戦(英語版)は7月19日に始まった。 このころ、カールは資金不足に悩まされ、さらに宗教問題にも対処しなければならなかった。カールとフランソワの代表は1544年9月18日にクレピー(英語版)でクレピーの和約に署名した。 1545年9月までに戦争が完全なステイルメイトとなった。どの国も兵員と資金の不足になやまされ、ドイツのプロテスタント諸侯に支援を乞うたが失敗した。結局、最後まで粘ったヘンリー8世も折れ、1546年6月7日、アルドレス(英語版)の和約がフランス代表とイングランド代表の間で署名された。
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イタリア戦争(1551年 - 1559年)
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「イタリア戦争」の記事における「イタリア戦争(1551年 - 1559年)」の解説
詳細は「イタリア戦争 (1551年 - 1559年)」および「カトー・カンブレジ条約」を参照 1547年3月31日、フランソワ1世が死去し、息子のアンリ2世が即位する。1551年、アンリ2世はカール5世に宣戦布告、イタリアを再征服し、ヨーロッパでの覇権をハプスブルク家から取り戻そうとした。フランスはまずロレーヌに侵攻、ある程度の成功を収めたが、続くフィレンツェ公国への侵攻は1553年に止められた。フランスは1554年8月2日にマルチャーノの戦い(英語版)で大敗するが、フランス語話者が主流なメス、トゥール、ヴェルダンは併合に成功した。 戦争の最中の1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝からもスペイン王からも退位した。神聖ローマ皇帝はカール5世の弟フェルディナント1世が継承、スペイン王位はカール5世の息子フェリペ2世が継承した。すなわち、カール5世の退位はフランスを包囲したハプスブルク帝国を分割させた。これ以降、神聖ローマ帝国とスペインの結束はカール5世の同君連合時代の緊密さからだんだんと緩くなっていく。 この時点で戦場はイタリアからフランドルへと移り、フェリペ2世はサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトとともに1557年8月10日のサン=カンタンの戦い(英語版)を戦い、フランスに大勝した。しかしフランスはサン=カンタンでの敗北の後に元気を取り戻し、戦闘を再開した。1557年にイングランドが帝国側で参戦すると、フランスは1558年1月にカレーを包囲、陥落させた。さらに、フランスはネーデルラントにおけるスペイン軍を撃破した。 戦争はもうしばらく続くかと思われたが、その終わりは突如訪れた。1557年、スペインとフランスは相次いで破産を宣言した。さらにフランスはユグノーにも対処しなければならなかった。アンリ2世は1559年4月3日のカトー・カンブレジ条約受諾を余儀なくされた。条約により、アンリ2世はイタリアへの請求を全て取り下げる。これによってイタリア戦争は完全に終結する。
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イタリア戦争(1494年 – 1559年)
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「イタリアの歴史」の記事における「イタリア戦争(1494年 – 1559年)」の解説
詳細は「イタリア戦争」を参照 1494年、フランス王シャルル8世は、ヴァロワ=アンジュー家からナポリ王位を継承したと主張、イタリアに侵攻して1495年にナポリ王となった。しかしミラノ公国とヴェネツィア共和国の同盟軍にフォルノーヴォの戦い(イタリア語版、フランス語版、英語版)で敗北し撤退、同年ナポリはアラゴンの手に戻った。 1499年にはフランス王ルイ12世が侵攻、ミラノ公国を占領し、翌年ミラノ公位を奪取した。これに対し教皇ユリウス2世は神聖同盟の結成を行い、フランスを追い払うのに成功した。しかし1515年、フランス王フランソワ1世がミラノに再び侵攻し、支配する(マリニャーノの戦い(イタリア語版、フランス語版、ドイツ語版、英語版))。1521年、教皇レオ10世(メディチ家出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。 フランソワ1世はレオ10世の後を継いだ新教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)、ミラノ、ヴェネツィア、イングランド王ヘンリー8世とコニャック同盟を結ぶ。1527年、コニャック同盟へ対抗するため、カール5世率いる神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める(ローマ略奪)。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。1529年、ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。 1536年、ミラノのスフォルツァ家に跡継ぎがないため、フランスはミラノ公国の王位継承を主張して三度に渡りミラノへ侵攻するがカール5世に敗北した。カール5世は息子のフェリペをミラノ公とする。1554年から1557年にかけてシエナがフランスと結んが、フィレンツェにシ制圧される。1556年、カール5世が退位し隠棲。息子のミラノ公フェリペがスペイン王フェリペ2世として即位した。スペイン王はアラゴン王、すなわちナポリ王でもあるため、神聖ローマ帝国に代わってスペインがイタリアの大部分を支配することになる。1559年、カトー・カンブレジ条約締結によってイタリア戦争は完全に終結する。 イタリア戦争は神聖ローマ皇帝兼イタリア王による最後の大規模な、そして成功したイタリア政策であった。ミラノ公国を中心としたイタリアの支配権はスペインに引き継がれることとなったが、スペイン王家は神聖ローマ皇帝と同じハプスブルク家であり、事実上皇帝の家系によってイタリアが支配されることとなった。しかし、イタリアにとってこれはスペインによる「外国の支配」に他ならなかった。
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