イタリアへ
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「ミハイル・バクーニン」の記事における「イタリアへ」の解説
西ヨーロッパに帰還するとバクーニンはすぐさま革命運動に身を投じていった。1860年、まだイルクーツクにいた頃のバクーニンは政治グループの同輩ともどもジュゼッペ・ガリバルディとそのシチリア遠征に多大な感銘を受けていた。この遠征でガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名のもと、自らをシチリアの支配者であると宣言していた。バクーニンはロンドンに戻ると、ガリバルディに1862年1月31日付で手紙を書いている。 バクーニンはガリバルディに、イタリア人やハンガリー人、南スラヴの民らとともにオーストリアとトルコに対し立ち上がるよう依頼した。当時ガリバルディはローマ遠征の準備を進めていた。5月頃のバクーニンの手紙では、イタリアとスラヴの連合とポーランド問題に焦点が当てられている。バクーニンは6月にはイタリアへの移住を決意していたが、妻との合流に時間が掛かり、出発は8月になった。このときジュゼッペ・マッツィーニが支援者マウリツィオ・クアドリオに向けた手紙で、バクーニンを信頼に足る好人物と評している。しかしアスプロモンテの変によりバクーニンはパリで足止めとなり、そこでルドヴィク・ミエロスワフスキーの活動にしばらく関わることとなった。とは言うもののバクーニンはミエロスワフスキーの排外主義を受容することはなく、農民層への権利の付与について顧みないミエロスワウスキーの考えを是としなかった。バクーニンは同年9月にイギリスに戻り、ポーランド問題に注力することとなる。1863年には一月蜂起が発生、バクーニンはコペンハーゲンへ渡りこの反乱に加わるつもりであった。蒸気船ウォード・ジャクソン号でバルト海を航行する計画を立てたが失敗に終わり、バクーニンはストックホルムで妻と合流し、ロンドンへ戻った。再びイタリア行きを考え始め、友人のアウレリオ・サッフィはバクーニンにフィレンツェやトリノ、ミラノへの紹介状を送っている。またマッツィーニはジェノヴァのフェデリコ・カンパネッラやフィレンツェのジュゼッペ・ドルフィにバクーニンの推薦状を送っている。1863年11月にロンドンを発ち、ブリュッセル、パリ、スイスのヴヴェを経由して1864年1月11日、イタリア入りを果たした。バクーニンはこの地でそのアナキスト的思想を展開していくことになる。 プロパガンダを続行し直接行動の準備を行うため、バクーニンは革命家の地下組織を作ろうと考えた。イタリア人やフランス人、スカンディナヴィア人、そしてスラヴ人を勧誘し国際同胞団(International Brotherhood、別名・革命派社会主義連合 the Alliance of Revolutionary Socialists)を設立した。 1866年7月、バクーニンはゲルツェンとオガリョフに自らの2年間の活動の成果を報告している。地下組織のメンバーの出身地はスウェーデンやノルウェイ、デンマーク、ベルギー、イングランド、フランス、スペイン、イタリアにまで及んでおり、ポーランド人やロシア人ばかりにとどまらなかった。同年の『革命的教理問答書』でバクーニンは宗教と国家に反発し「国家の便益のために自由を犠牲にするような全ての権威の全否定」を唱えた。 1867年から68年にかけて、バクーニンはエミール・アコラス(フランス語版)の呼びかけに応え平和と自由連盟 (Ligue de la Paix et de la Liberté) に参加し、長文の評論『連合主義・社会主義および反神学主義』を執筆。この中でプルードンの著作を取り上げ、連邦制社会主義に賛同した。結社の自由を支持し、また連盟に参加しているすべての団体に対し脱退の自由をも認めたが、「社会主義なき自由は特権であり、不正である。自由なき社会主義は奴隷制であり、蛮行である」と記しているように、この自由が社会主義とともに実現されることを強調した。 バクーニンは1867年に行われたジュネーヴ会議で重要な役割を担い、中央委員会に加わった。その創立集会には6千人が出席、バクーニンの演説に会場は熱狂し、拍手がいつまでも鳴り止まなかったという。 連盟のベルン会議(1868年)では他の社会主義者ら(エリゼ・ルクリュ、アリスティード・レイ、ジャクラール、ジュゼッペ・ファネッリ、N・I・ジュコフスキー、V・ムラチコフスキほか)と共に少数派となり、連盟を脱退して新たに国際社会民主同盟を設立し、革命的社会主義を綱領に掲げた。
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イタリアへ
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1986年にモータースポーツ活動を再開しイタリアに渡る。1987年にイタリアのCSAIレーシングスクールを卒業し、その後ミドルフォーミュラのイタリアF2000選手権でデビューし、優勝1回、2位1回と好成績を収める。 1988年にはイタリアF3選手権に参戦し、優勝1回を含む上位入賞を飾る。またイタリア・ツーリングカー選手権やイタリア・フォーミュラ・アルファ選手権にも参戦するなど、複数のカテゴリーで活躍する。
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「トンマーゾ・ブシェッタ」の記事における「イタリアへ」の解説
イタリアで刑務所に入れられるが、このころからジョゼッペ・カロに対し不信感を持つようになる。8年間刑務所に入ったが、その間、毎日のように妻のクリスティーナは面会に来たという。1970年代にウッチャルドーネ刑務所に入所していた当時、マフィアの構成員が当時カリスマ的なブシェッタに敬意を払い、ブシェッタのいる独房に挨拶に来るため、ブシェッタは独房からも出され廊下を自由に歩くことも許されなくなったという。 1980年6月に仮釈放のときに刑務所に戻らずに逃亡。その頃に、ボスのカロや友人のステファノ・ボンターテ、サルヴァトーレ・インツェリッロと会い、組織の中で再び活動しようと再計画を練る。しかし、この頃、ルチアーノ・リッジョ、サルヴァトーレ・リイナらのコルレオーネの一家とボンターテ、インツェリッロの間に麻薬取引をめぐり険悪になっていた。
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「ジョン・ホークウッド」の記事における「イタリアへ」の解説
その後ホークウッドはフランスのブルゴーニュに移り小さな傭兵団に加入した。その後、アヴィニョン近郊で教皇勢力と戦う傭兵集団の一部となった。1360年代の初めごろに、彼はドイツ人傭兵隊長アルベルト・ステルツに代わり白衣団の指揮官になったとされる。1363年、ホークウッドと彼の手勢はモンフェッラート侯の傭兵集団の一部となり、ミラノ(当時ヴィスコンティ家がシニョリーア体制を築いていた)との間におけるアルプスの戦いで指揮を取った。その後、彼とその手勢はイタリアにとどまることになった。
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イタリアへ
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1978年を最後にダントーニはイタリアへ渡る。イタリアリーグのオリンピア・ミラノと契約したダントーニは、このイタリアを代表する強豪チームで、1990年までの13年間プレイすることになる。 アメリカでは開花しなかったダントーニの才能は、ミラノの地で大きく花開いた。ダントーニに率いられ、チームはイタリアリーグを5回、イタリア・カップを2回、そして1987年と1988年の欧州チャンピオンズカップ(現ユーロリーグ)など、数々のタイトルを制覇した。 13年間のプレイで通算455試合出場、通算5573得点、通算1140アシスト、平均2.5アシストは、いずれもオリンピア・ミラノのチーム記録である。 イタリア国籍も取得したダントーニは、1989年にイタリア代表として欧州選手権にも出場している。 スティールが得意だったことから、地元ファンからは『アルセーヌ・ルパン』の愛称で親しまれた。そんなファンの中で彼に憧れ、後にNBAのスーパースターに上り詰めたのが、当時イタリアに住んでいたコービー・ブライアントである。 イタリアバスケット界のスターとなったダントーニは、1990年にはリーグ史上最高のポイントガードに選ばれ、現役から退いて18年後の2008年には『ユーロリーグ史上の偉大な50人の貢献者』に選ばれている。
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イタリアへ
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1974年(昭和49年)博物細密画を除くすべての絵とデッサン、人形などを故郷の河原で焼き、過去の創作と人間関係を清算してヨーロッパへと発つ決意をする。1976年(昭和51年)12月31日、イタリアに渡る。語学を学ぶ予定が日本人のダンス・ユニットに加わり、到着3日後にはパレルモでコンテンポラリー・ダンスを踊っていた。 1977年(昭和52年)劇場ピッコロ・テアトロ・デ・ミラーノのアルレッキーノ役者アンジェロ・コルティに師事しコッメディア・デラルテ(イタリア古典仮面喜劇)を学ぶ。1979年(昭和54年)ミュンヘンのハウス・デア・クンストで没後3年目の開催となった「マックス・エルンスト回顧展」を観るため現地に2週間滞在、実物から直接その造形を学ぶ。同年、映画監督のフェデリコ・フェリーニと知り合い、映画『ジンジャーとフレッド』の撮影に同伴する。 イタリア滞在中、19世紀の銅版画挿絵が用いられた古書を買い集める。それは69年に手にした『百頭女』の造形素材への憧れと、当時の日本では手に入らず諦めかけていた銅版画挿絵本への渇望からくる衝動であった。しかし、せっかく手にした大切なそれらを切り刻む気にはなれず、眺めて楽しむことに留まり、実際にオリジナル・コラージュ制作の素材として用いられたのは2000年代になってからである。
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「ヘラルト・ファン・ホントホルスト」の記事における「イタリアへ」の解説
当時のオランダでは、画家達がイタリア美術に傾倒していた。ホントホルストはその傾向に感化され、1616年にイタリアへ旅行した。彼はそこで自然主義と、カラヴァッジオの作品に触れる。ローマで経験を積んだ後の1620年に帰国し、繁栄を極めていたユトレヒトでオランダのカラヴァッジスティ(カラヴァッジオ追従者)と呼ばれた仲間、ヘンドリック・テル・ブルッヘンと共に画学校を始めた。1623年、ホントホルストは従妹と結婚し、同じ年にユトレヒトの画家組合の長となった。ハーグ駐在のイングランド全権公使、ダドリー・カールトン卿がホントホルストの絵を気に入り、アランデル伯トマス・ハワードとドーチェスター卿に推薦したことから、ホントホルストはすぐに流行の画家となっていった。1626年、ピーテル・パウル・ルーベンスの訪問を受け饗応したが、ディオゲネスの逸話の人物としてピーテル・パウル・ルーベンスを描いた。
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「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「イタリアへ」の解説
アルプスの南側に降った雪は、昼の間に溶け、夜になると凍る。加えて、イタリア側の斜面の傾斜は急であったため、多くの兵が足を滑らして滑落死した。 下り始めてしばらくすると、地滑りで道路が300ヤードほど壊れている箇所にぶつかった。ハンニバルはこれを迂回しようとして、雪が多く積もった場所を進んだ。まだ高度は高く、万年雪が積もっていた。いくらかは前進することができたが、多くの荷役動物を失い、結局この迂回路を使うことは不可能であると判明した。結局もとの場所まで戻り、そこで野営した。 ハンニバルは道路の修復を命じた。この労力の必要な作業を、ハンニバル自身が監督し激励した。健康な兵士も病を得ている兵士も、共に働いた。翌日には騎兵や荷役動物が何とか通過可能までに道路が整備された。ハンニバルは森林限界(峠から2マイル)まですぐに下り、そこの牧草地に入るよう命じた。 しかしながら、戦象部隊は未だに進むことができなかった。ハンニバルのヌミディア騎兵は引き続き作業を行い、3日後にようやく戦象が通れるまでに道路を修復した。ハンニバルは戦象が通過するのを見届けて、森林限界の下にいる残りの軍のもとに急いだ。そこから「ポー平原近くの平地(ポリュビオスによる)」まで3日間かかった。現在のイヴレーア近くで、ハンニバルは野営を行うよう命じた。
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