イタリアへの転属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「イタリアへの転属」の解説
次にロンメルは、シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)によって、ベニート・ムッソリーニが失脚し、その後のピエトロ・バドリオ政権によって戦争からの脱落が懸念されていたイタリアの抑えのため、新設されたB軍集団の司令官に転属した。ヒトラーの懸念通り、バドリオは水面下で連合軍との交渉を行っており、1943年9月8日にイタリアは連合国に無条件降伏した。ヒトラーは8日の午後8時に、イタリア軍を武装解除しイタリアを制圧するアクセ作戦(英語版)を命じ、ロンメルが北イタリア、アルベルト・ケッセルリンク元帥が南イタリアの制圧を担当した。ロンメルは迅速に行動開始し、速やかにイタリア兵の武装解除を行っていたが、作戦途中の9月14日に盲腸炎となって入院を余儀なくされた。ロンメルが入院したあともB軍集団は迅速に行動し、10日間で北イタリアの制圧を完了、ヒトラーからはイタリア軍が抵抗した場合射殺しても構わないと命じられていたが、ロンメルがイタリア兵を処刑することはなかった。 やがて、一部のイタリア兵や住民が地下に潜ってパルチザンとしてドイツ軍に抵抗を開始した。そこで、今まで住民虐殺などの戦争犯罪に全く無縁であったロンメルも、パルチザン討伐のため苛烈な命令を発することとなった。 ドイツ軍人が、かつての戦友の軍服を着たバドリオ一派のパルチザンに対し、いかなるものであれ、情緒的なためらいを示すことは、全く適当ではない。そうしてドイツ軍人に敵対する者は、容赦を乞う権利を失ったものであり、突如として友人に武器を向けた無類の徒にふさわしい苛酷な取り扱いを受ける。 その間、シチリア島に上陸していた連合軍は1943年8月17日にはシチリア全島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸(ベイタウン作戦)し、9月9日にサレルノ(アヴァランチ作戦)、ターラント(スラップスティック作戦)へ上陸を行ない、イタリア半島を北上していた。9月27日に退院したロンメルはケッセルリンクと総統大本営に呼び出されて、ヒトラーからローマの南で連合軍を押しとどめよと命じられたが、ロンメルはローマの北方のアペニン山脈に防衛線を構築すべきと主張して譲らなかった。ヒトラーはロンメルをイタリア方面の総司令官にしたいと考えており、10月17日に再度ロンメルを呼び出すとその旨を伝え、イタリア南部で連合軍を押しとどめるよう命じたが、ロンメルはヒトラーに「イタリアですと、(ドイツの)崩壊は目の前に迫っているのです」と言い放ち、自分が南イタリアを防衛できるという確信を持てない限りは、司令官を引き受けることはできないと答えた。ロンメルの答えに失望したヒトラーは、ケッセルリンクにイタリアを任せることとした。その決定を聞いたロンメルは落胆し「仕事は決まらなかった。誰に聞いても、総統は心変わりしたということだ。」という手紙を妻に送っている。
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