イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了の意味・解説 

イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:02 UTC 版)

ピュロス戦争」の記事における「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」の解説

プルタルコスは、ピュロスメッシーナ海峡を渡るときに、カルタゴ艦隊がこれを攻撃したと書いている。ピュロス海戦多くの船を失ったマメルティニ10,000イタリア渡りピュロスの軍に混乱起こし戦象2頭と後衛部隊多数殺害したピュロス自身頭部に傷を負ったが、マメルティニ撃退したターレスには、紀元前276年秋に20,000率いて帰還したハリカルナッソスのディオニュシオスメッシーナ海峡での海戦については触れていない。彼の説では、ピュロス船団直接ターレス目指したが、一晩中好ましくない風に見舞われた。何隻かは沈み、何隻かはメッシーナ海峡から吹き流され、他はなんとかロクリス海岸乗り上げることができた。しかし上陸後引き波溺死したものも多かったディオニュシオスは、資金不足していたピュロス友人のエウペゴラスにそそのかされペルセポネー神殿財宝略奪したことが、この悲劇の原因であると述べている。ディオニュシオスは、この神殿がどこにあったのかは述べていないが、他の記述からシュラクサイでの出来事のようである。ロクリス漂着した船は、財宝運んでいた船であった。波のために船は破壊され財宝海岸投げ出された。ピュロス恐れ抱き財宝神殿戻したアッピアノスカルタゴとの海戦に関して触れているが、イタリア半島でのマメルティニとの戦闘には触れていない。また、彼の記述では、ピュロスはペルソポネーの財宝ロクリス略奪している。ピュロスシケリアギリシア都市対し、軍への補給守備兵維持貢納金といった負担課していた。これにより彼は豊かになっていた。シケリアからレギオン向かった際に、ピュロス軍船10隻に多く輸送船商船有していた。カルタゴ軍はこれを攻撃し70隻を撃沈多く破壊し無傷であったのは12隻のみであったピュロス脱出成功し以前彼の守備隊司令官殺害していたロクリス復讐した多く市民殺害し略奪行いペルセポネー財宝をも奪い取った。それから再度出帆したが、嵐に巻き込まれ何隻かが沈没したペルセポネー財宝散乱しロクリス海岸打ち上げられた。ピュロス財宝神殿戻しさらには生贄捧げた。しかし、生贄結果不吉であったため、ピュロス怒った。彼は財宝を奪うように進言した、あるいはそれに参加した人々処刑したカッシウス・ディオは、ピュロスシケリア去った後、ローマターレスとの戦争中断したとする。紀元前277年執政官プブリウス・コルネリウス・ルフィヌスen)とガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥスサムニウム侵攻したサムニウムはその最も重要な宝物をクラニタの丘に持っていた。二人執政官は丘を上ろうとしたが、潅木多く失敗しサムニウム軍に敗北した多くローマ兵が戦死し、また捕虜となったこの後二人執政官お互い非難し共同して戦うことは無かった。ユニウス・ブブルクスはサムニウム一部荒廃させた。コルネリウス・ルフィヌスははルカニアとブルッティウムを攻撃しその後反乱起こしていたクロトン現在のクロトーネ)へ向かった。親ローマ市民が彼を呼んだのであるが、他方ローマ市民ピュロスターレス残していった副将ミロ援助頼んだミロクロトン守備のためにニコマクスを派遣した。コルネリウス・ルフィヌスはそれを知らず不用意にクロトン城壁接近し出撃してきた部隊敗北したその後コルネリウス・ルフィヌスは脱走兵のふりをさせてニコマクスに二人の兵を送り込みローマ軍クロトン攻略あきらめてローマ反乱したロクリス向かった告げさせた。これを信じさせるために、コルネリウス・ルフィヌスは急いで出立したふりをした。ニコマクスはロクリス急いだ。ルフィヌスは気付かれることなくクロトン引き返し、これを占領した。ニコマクスはターレス戻りロクリスローマのものとなったカッシウス・ディオもアッピアヌスと同様にピュロスロクリスペルセポネー財宝略奪したとしている。しかしながらカッシウス・ディオによればイタリアピュロスのかつての同盟都市が彼を支援しなかったために略奪おこなったとされており、一方アッピアヌスはロクリスローマ側寝返った復讐であるとしている。 紀元前275年ピュロスイタリアに戻ると、ローマとの間にベネウェントゥムの戦い発生した。これがピュロスローマの間の最後の戦闘となったプルタルコスは、この戦いに関する最も詳しい記述残している。彼によると、ピュロス3年シケリアでの作戦行っている間、サムニウム何度もローマ敗北し領土多く失っていた。このためサムニウムピュロス憤慨していた。ピュロスイタリア戻っても、多くサムニウム人ピュロス軍に加わらなかった。カッシウス・ディオは、サムニウムローマ圧迫されており、このためピュロスサムニウムを再支援する必要に迫られたとするプルタルコスによると、ピュロスサムニウム支援が無い場合でも、ローマ対決することを選んだ紀元前275年執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスそれぞれルカニアサムニウム戦っていた。 プルタルコスは、ピュロス彼の軍を二つ分けたとする。その一つをコルネリウス・レントゥルスに向け、自身はもう一軍率いて夜を徹してマニウス・クリウスに向かった彼の軍はベネウェントゥム近く野営しており、コルネリウス・レントゥルスの到着待っていた。ピュロスはコルネリウス・レントゥルスの到着前にマニウス・クリウスを攻撃しよう急いだ。しかし、彼の兵士達明かりも無いの中を行軍していたため、道に迷い遅れていた。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、以前に人が通ったことも無いの中の獣道通ったため、整然とした行軍出来ず、敵の野営地視界入った際には兵士は既に飢え渇き疲弊していた。この遅れのために、ピュロスローマ軍野営地を見下ろすの上到着したのは、夜明けになってからであったプルタルコスは、マニウス・クリウスは兵士野営地から出しピュロス前衛部隊とその背後残っていた戦象捕獲したこのためピュロスは丘を下り、マニウス・クリウスはピュロス平野部ピュロスと戦うこととなったローマ軍ピュロス軍の戦列何箇所かで突破したが、戦象突撃により野営地にまで押し戻された。マニウス・クリウスは野営地防御柵を守っていた守備部隊呼び寄せた、彼らは投槍戦象攻撃し、これを撃退した戦象ピュロスの軍に突っ込み戦列混乱させ、ローマ軍勝利した。 ハリカルナッソッスのディオニュシオスは、この戦いに関して一文でしか触れていない。ピュロス戦象と共に向かってくると、ローマ軍はまず一頭の子象を傷つけたが、これがギリシア軍大きな混乱もたらしたローマ軍はさらに2頭を殺し、8頭を出口の無い場所に追い込んだその後インド人の象使い降伏すると、これを生け捕りにした。また多くギリシア兵が殺害された。 カッシウス・ディオこの子象のことを書いている。一頭の若い象が傷を負い乗り手振り落として母象を探して走り回った。これで他の象興奮しピュロス軍は大混乱陥った最後にローマ軍勝利し多く敵兵殺害し、8頭の戦象捕獲、また敵の野戦陣地占領した

※この「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」の解説は、「ピュロス戦争」の解説の一部です。
「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」を含む「ピュロス戦争」の記事については、「ピュロス戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」の関連用語

イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのピュロス戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS