イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了
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「ピュロス戦争」の記事における「イタリアへの帰還とベネウェントゥムの戦い、戦争の終了」の解説
プルタルコスは、ピュロスがメッシーナ海峡を渡るときに、カルタゴ艦隊がこれを攻撃したと書いている。ピュロスは海戦で多くの船を失った。マメルティニ兵10,000もイタリアに渡り、ピュロスの軍に混乱を起こし、戦象2頭と後衛部隊の多数を殺害した。ピュロス自身も頭部に傷を負ったが、マメルティニを撃退した。ターレスには、紀元前276年の秋に兵20,000を率いて帰還した。 ハリカルナッソスのディオニュシオスはメッシーナ海峡での海戦については触れていない。彼の説では、ピュロスの船団は直接ターレスを目指したが、一晩中好ましくない風に見舞われた。何隻かは沈み、何隻かはメッシーナ海峡から吹き流され、他はなんとかロクリスの海岸に乗り上げることができた。しかし上陸後の引き波で溺死したものも多かった。ディオニュシオスは、資金に不足していたピュロスが友人のエウペゴラスにそそのかされ、ペルセポネー神殿の財宝を略奪したことが、この悲劇の原因であると述べている。ディオニュシオスは、この神殿がどこにあったのかは述べていないが、他の記述からシュラクサイでの出来事のようである。ロクリスに漂着した船は、財宝を運んでいた船であった。波のために船は破壊され、財宝は海岸に投げ出された。ピュロスは恐れを抱き、財宝を神殿に戻した。 アッピアノスはカルタゴとの海戦に関しては触れているが、イタリア半島でのマメルティニとの戦闘には触れていない。また、彼の記述では、ピュロスはペルソポネーの財宝をロクリスで略奪している。ピュロスはシケリアのギリシア都市に対し、軍への補給、守備兵の維持、貢納金といった負担を課していた。これにより彼は豊かになっていた。シケリアからレギオンに向かった際に、ピュロスは軍船10隻に多くの輸送船と商船を有していた。カルタゴ軍はこれを攻撃し、70隻を撃沈、多くを破壊し、無傷であったのは12隻のみであった。ピュロスは脱出に成功し、以前に彼の守備隊の司令官を殺害していたロクリスに復讐した。多くの市民を殺害し、略奪を行い、ペルセポネーの財宝をも奪い取った。それから再度出帆したが、嵐に巻き込まれ何隻かが沈没した。ペルセポネーの財宝も散乱し、ロクリスの海岸に打ち上げられた。ピュロスは財宝を神殿に戻し、さらには生贄を捧げた。しかし、生贄の結果は不吉であったため、ピュロスは怒った。彼は財宝を奪うように進言した、あるいはそれに参加した人々を処刑した。 カッシウス・ディオは、ピュロスがシケリアに去った後、ローマはターレスとの戦争を中断したとする。紀元前277年、執政官プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス(en)とガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥスがサムニウムに侵攻した。サムニウムはその最も重要な宝物をクラニタの丘に持っていた。二人の執政官は丘を上ろうとしたが、潅木が多く失敗し、サムニウム軍に敗北した。多くのローマ兵が戦死し、また捕虜となった。この後二人の執政官はお互いを非難し、共同して戦うことは無かった。ユニウス・ブブルクスはサムニウムの一部を荒廃させた。コルネリウス・ルフィヌスははルカニアとブルッティウムを攻撃し、その後反乱を起こしていたクロトン(現在のクロトーネ)へ向かった。親ローマ市民が彼を呼んだのであるが、他方反ローマ市民はピュロスがターレスに残していった副将のミロに援助を頼んだ。ミロはクロトンの守備のためにニコマクスを派遣した。コルネリウス・ルフィヌスはそれを知らずに不用意にクロトンの城壁に接近し、出撃してきた部隊に敗北した。その後コルネリウス・ルフィヌスは脱走兵のふりをさせてニコマクスに二人の兵を送り込み、ローマ軍はクロトンの攻略をあきらめて、ローマに反乱したロクリスに向かったと告げさせた。これを信じさせるために、コルネリウス・ルフィヌスは急いで出立したふりをした。ニコマクスはロクリスに急いだ。ルフィヌスは気付かれることなくクロトンに引き返し、これを占領した。ニコマクスはターレスに戻り、ロクリスはローマのものとなった。カッシウス・ディオもアッピアヌスと同様に、ピュロスがロクリスでペルセポネーの財宝を略奪したとしている。しかしながら、カッシウス・ディオによれば、イタリアのピュロスのかつての同盟都市が彼を支援しなかったために略奪をおこなったとされており、一方アッピアヌスはロクリスがローマ側に寝返った復讐であるとしている。 紀元前275年にピュロスがイタリアに戻ると、ローマとの間にベネウェントゥムの戦いが発生した。これがピュロスとローマの間の最後の戦闘となった。 プルタルコスは、この戦いに関する最も詳しい記述を残している。彼によると、ピュロスが3年間シケリアでの作戦を行っている間、サムニウムは何度もローマに敗北し、領土の多くを失っていた。このため、サムニウムはピュロスに憤慨していた。ピュロスがイタリアに戻っても、多くのサムニウム人はピュロス軍に加わらなかった。カッシウス・ディオは、サムニウムはローマに圧迫されており、このためピュロスはサムニウムを再支援する必要に迫られたとする。プルタルコスによると、ピュロスはサムニウムの支援が無い場合でも、ローマと対決することを選んだ。紀元前275年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスはそれぞれルカニアとサムニウムで戦っていた。 プルタルコスは、ピュロスは彼の軍を二つに分けたとする。その一つをコルネリウス・レントゥルスに向け、自身はもう一軍を率いて夜を徹してマニウス・クリウスに向かった。彼の軍はベネウェントゥムに近くに野営しており、コルネリウス・レントゥルスの到着を待っていた。ピュロスはコルネリウス・レントゥルスの到着前にマニウス・クリウスを攻撃しようと急いだ。しかし、彼の兵士達は明かりも無い森の中を行軍していたため、道に迷い遅れていた。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、以前に人が通ったことも無い森の中の獣道を通ったため、整然とした行軍は出来ず、敵の野営地が視界に入った際には兵士は既に飢えと渇きで疲弊していた。この遅れのために、ピュロスがローマ軍野営地を見下ろす丘の上に到着したのは、夜明けになってからであった。プルタルコスは、マニウス・クリウスは兵士を野営地から出し、ピュロスの前衛部隊とその背後に残っていた戦象を捕獲した。このためピュロスは丘を下り、マニウス・クリウスはピュロスと平野部でピュロスと戦うこととなった。ローマ軍はピュロス軍の戦列を何箇所かで突破したが、戦象の突撃により野営地にまで押し戻された。マニウス・クリウスは野営地の防御柵を守っていた守備部隊を呼び寄せた、彼らは投槍で戦象を攻撃し、これを撃退した。戦象はピュロスの軍に突っ込み戦列を混乱させ、ローマ軍は勝利した。 ハリカルナッソッスのディオニュシオスは、この戦いに関しては一文でしか触れていない。ピュロスが戦象と共に向かってくると、ローマ軍はまず一頭の子象を傷つけたが、これがギリシア軍に大きな混乱をもたらした。ローマ軍はさらに2頭を殺し、8頭を出口の無い場所に追い込んだ。その後インド人の象使いが降伏すると、これを生け捕りにした。また多くのギリシア兵が殺害された。 カッシウス・ディオもこの子象のことを書いている。一頭の若い象が傷を負い、乗り手を振り落として母象を探して走り回った。これで他の象も興奮し、ピュロス軍は大混乱に陥った。最後にローマ軍は勝利し、多くの敵兵を殺害し、8頭の戦象を捕獲、また敵の野戦陣地も占領した。
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