イタリアへの編入
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第三次イタリア独立戦争(普墺戦争のイタリア戦線)を経て、1866年にヴェネト一帯がイタリア王国に編入されると、従来の行政区画を引き継いでフリウリ県(provincia del Friuli)が設置された。 第一次世界大戦後、現在のウーディネ県の東隣にあたるヴェネツィア・ジュリア地方(現在のゴリツィア県を含む)がイタリア領に編入された。1923年、ゴリツィア県 (it:Provincia di Gorizia (1919-1923)) が解体され、タルヴィージオ、プレッツォ(現在はスロベニア領ボヴェツ)、カポレット(コバリード)、トルミノ(トールミン)、チルキナ(ツェルクノ)、イドリア(イドリヤ)、アイドゥッシナ(アイドフシュチナ)、ヴィパッツォ(ヴィパーヴァ)、カナーレ、ゴリツィア、コルモンス、チェルヴィニャーノがフリウリ県に編入された。1927年には、ゴリツィア県 (it:Provincia di Gorizia (1927-1943)) が再設置されたが、このときタルヴィージオ、チェルヴィニャーノ、キオプリス=ヴィスコーネの町はフリウリ県にとどまった。1940年、県名はフリウリ県から現在のウーディネ県に改められた。 第二次世界大戦後の1968年に、タリアメント川右岸地方(Destra Tagliamento)の51コムーネがウーディネ県から分割され、ポルデノーネ県が設立された。翌1969年にはフォルガリーア・ネル・フリウーリがポルデノーネ県からウーディネ県管下に戻った。 1976年5月6日、ジェモーナ・デル・フリウーリおよびアルテーニャ付近を震央とするモーメント・マグニチュード (Mw) 6.4の地震が発生し、989人の犠牲者が出た (it:Terremoto del Friuli del 1976) (同年9月15日にも Mw 6.0 の地震が発生している)。とくに震源地に近い町では甚大な被害を蒙り、第二次世界大戦の戦災を免れた古い建物が破壊された。 2004年には、カルニア、タルヴィージオ、ジェモーナなどを含む「アルト・フリウリ県」の分離設立について、自治州法に基づいて3月21日には住民投票が行われた。県庁の所在地を巡ってトルメッツォ(カルニアの中心都市)とジェモーナが対立したため、その中間にあるヴェンゾーネが県都の候補とされた。住民投票の結果、ウーディネ県からの離脱と新県の設立は否決された。カルニア地方では賛成票が多数を占めた(リゴラートを除く)が、タルヴィージオやジェモーナでは反対票が多数を占めた。
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イタリアへの編入
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「ヴェネツィア・ジュリア」の記事における「イタリアへの編入」の解説
第一次世界大戦後、連合国とオーストリアとの間で結ばれたサン=ジェルマン=アン=レー条約(1919年9月10日)や、イタリア王国とセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(以下、ユーゴスラビア王国)との間で結ばれたラパッロ条約 (1920年11月12日)により、オーストリア領キュステンラントの大部分は1920年にイタリア王国に編入された。ただし、キュステンラントのうち、クヴァルネル湾 (Kvarner Gulf) に浮かぶクルク島やカスタヴはユーゴスラビアに編入されている。イタリア王国はヴェネツィア・ジュリアにゴリツィア県、トリエステ県、ポーラ県を設けた。また、伝統的には「ヴェネツィア・ジュリア」とはみなされていなかったフリウリ地方のウーディネ県が、ヴェネツィア・ジュリアに含まれることもあった。 フィウーメ湾の奥に位置する港湾都市フィウーメ(現・クロアチア領リエカ)は、15世紀以来ハプスブルク家の所領となっていた都市で、帝国直轄領キュステンラントには含まれていなかったが、イタリア人住民の多い都市であった。パリ講和会議でユーゴスラビアに割譲することが提案されたため、イタリアの民族主義者である詩人ダンヌンツィオが1919年9月12日に民兵を率いてフィウーメを占領する事件を起こしている(カルナーロ=イタリア執政府参照)。ラパッロ条約でフィウーメはイタリアにもユーゴスラビアにも属さないフィウーメ自由市(フィウーメ自由国)とされたが、1924年にイタリアとユーゴスラビアの間で結ばれたローマ条約によってフィウーメ自由市は解体された。フィウーメの西部はイタリアに併合されてフィウーメ県となり、東部のスザク (Sušak) 地区はユーゴスラビアに割譲された。 イタリア王国(ムッソリーニ政権)が統治した時代、強制的同化 (Italianization) などの民族主義的な迫害が原因で、約10万人のスロヴェニア人やクロアティア人がこの地を去り、ユーゴスラヴィア領(約7万人)やアルゼンチン(約3万人)に移住していった。 一方、1918年以降、ユーゴスラビア領になったダルマチア(アルバニア・ヴェネタ)からは数千人のイタリア人住民(ダルマチア・イタリア人)の移動が起こっているが、その多くはイストリアやトリエステに移り住んだ。 ダンヌンツィオを迎えるフィウーメ
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