イタリアへの編入とは? わかりやすく解説

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イタリアへの編入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/20 19:45 UTC 版)

ウーディネ県」の記事における「イタリアへの編入」の解説

第三次イタリア独立戦争普墺戦争イタリア戦線)を経て1866年ヴェネト一帯イタリア王国編入されると、従来行政区画引き継いでフリウリ県(provincia del Friuli)が設置された。 第一次世界大戦後現在のウーディネ県の東隣にあたるヴェネツィア・ジュリア地方現在のゴリツィア県を含む)がイタリア領に編入された。1923年ゴリツィア県 (it:Provincia di Gorizia (1919-1923)) が解体されタルヴィージオプレッツォ(現在はスロベニアボヴェツ)、カポレットコバリード)、トルミノ(トールミン)、チルキナ(ツェルクノ)、イドリア(イドリヤ)、アイドゥッシナ(アイドフシュチナ)、ヴィパッツォ(ヴィパーヴァ)、カナーレゴリツィアコルモンス、チェルヴィニャーノがフリウリ県に編入された。1927年には、ゴリツィア県 (it:Provincia di Gorizia (1927-1943)) が再設置されたが、このときタルヴィージオ、チェルヴィニャーノ、キオプリス=ヴィスコーネの町はフリウリ県にとどまった1940年県名フリウリ県から現在のウーディネ県改められた。 第二次世界大戦後1968年に、タリアメント川右岸地方(Destra Tagliamento)の51コムーネウーディネ県から分割されポルデノーネ県設立された。翌1969年にはフォルガリーア・ネル・フリウーリポルデノーネ県からウーディネ県管下戻った1976年5月6日ジェモーナ・デル・フリウーリおよびアルテーニャ付近震央とするモーメント・マグニチュード (Mw) 6.4地震発生し、989人の犠牲者出た (it:Terremoto del Friuli del 1976) (同年9月15日にも Mw 6.0地震発生している)。とくに震源地に近い町では甚大な被害を蒙り、第二次世界大戦戦災免れた古い建物破壊された。 2004年には、カルニア、タルヴィージオ、ジェモーナなどを含む「アルト・フリウリ県」の分離設立について、自治州法に基づいて3月21日には住民投票が行われた。県庁所在地巡ってトルメッツォ(カルニアの中心都市)とジェモーナが対立したため、その中間にあるヴェンゾーネ県都候補とされた。住民投票の結果ウーディネ県からの離脱新県設立否決された。カルニア地方では賛成票が多数占めたリゴラートを除く)が、タルヴィージオやジェモーナでは反対票が多数占めた

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イタリアへの編入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 20:34 UTC 版)

ヴェネツィア・ジュリア」の記事における「イタリアへの編入」の解説

第一次世界大戦後連合国オーストリアとの間で結ばれたサン=ジェルマン=アン=レー条約1919年9月10日)や、イタリア王国セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(以下、ユーゴスラビア王国)との間で結ばれたラパッロ条約 (1920年11月12日)により、オーストリア領キュステンラント大部分1920年イタリア王国編入された。ただし、キュステンラントのうち、クヴァルネル湾 (Kvarner Gulf) に浮かぶクルク島カスタヴユーゴスラビア編入されている。イタリア王国ヴェネツィア・ジュリアゴリツィア県トリエステ県ポーラ県を設けたまた、伝統的には「ヴェネツィア・ジュリア」とはみなされていなかったフリウリ地方ウーディネ県が、ヴェネツィア・ジュリア含まれることもあった。 フィウーメ湾の奥に位置する港湾都市フィウーメ(現・クロアチアリエカ)は、15世紀以来ハプスブルク家所領となっていた都市で、帝国直轄領キュステンラントには含まれていなかったが、イタリア人住民の多い都市であったパリ講和会議ユーゴスラビア割譲することが提案されたため、イタリア民族主義者である詩人ダンヌンツィオ1919年9月12日民兵率いてフィウーメ占領する事件起こしている(カルナーロ=イタリア執政府参照)。ラパッロ条約フィウーメイタリアにもユーゴスラビアにも属さないフィウーメ自由市フィウーメ自由国)とされたが、1924年イタリアユーゴスラビアの間で結ばれたローマ条約によってフィウーメ自由市解体された。フィウーメ西部イタリア併合されフィウーメ県となり、東部スザク (Sušak) 地区ユーゴスラビア割譲された。 イタリア王国ムッソリーニ政権)が統治した時代強制的同化 (Italianization) などの民族主義的迫害原因で、約10万人のスロヴェニア人クロアティア人がこの地を去りユーゴスラヴィア領(約7万人)やアルゼンチン(約3万人)に移住していった。 一方1918年以降ユーゴスラビアになったダルマチアアルバニア・ヴェネタ)からは数千人のイタリア人住民ダルマチア・イタリア人)の移動起こっているが、その多くイストリアトリエステ移り住んだダンヌンツィオ迎えフィウーメ

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