イタリアへの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 03:47 UTC 版)
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア」の記事における「イタリアへの帰国」の解説
イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に、帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した。共和国政府側も折れることなく対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国を決定した。 2002年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレはピエモンテ=ヴィネツィア公エマヌエーレ・フィリベルトと共にイタリア共和国憲法を承認する宣言を行った。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオ・エマヌエーレは、イタリア国内の要人と会見した後、ヴァチカンに招かれて教皇ヨハネ・パウロ2世と会談した。 王政復古を行わないことを条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。しかし、既に王政廃止から50年が経過しており、王政時代を知る国民は少数派になっていた。国民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復権に無関心であった。また、出生地であるナポリでは両シチリア独立運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた。 王政復古の否定は、たび重なるヴィットーリオの問題行動に敵意を深めていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタらアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。
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