イタリアオペラ公演
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「マリオ・デル・モナコ」の記事における「イタリアオペラ公演」の解説
日本には1959年のNHK主催の「第2回イタリアオペラ公演」で初来日し『オテロ』(オテロ)、『カルメン』(ドン・ホセ)に出演。『戦後芸能史物語 』(朝日選書)は日本の大衆が受けたカルチャーショックの大きさをそのまま伝えている。現在まで全てのジャンルのあらゆるアーティストの来日公演でこの衝撃を超えるものはないとする評価もある。 以後1961年の第3回(『アンドレア・シェニエ』(シェニエ)、『道化師』(カニオ)、『アイーダ』(ラダメス。アンジェロ・ロ・フォレーゼとのダブル・キャスト))と1969年(リサイタル)にも来演した。1963年の第4回イタリアオペラ公演でも来日の予定(『トロヴァトーレ』(マンリーコ)、『西部の娘』(ジョンソン))だったが、内臓疾患によりキャンセルしている。また、1956年の第1回イタリアオペラ公演にも出演予定だったが、直前に13歳の少女と駆け落ちをしてスイスに行き、イタリア諸劇場の出演をすっぽかしたためイタリアへの入国が禁止となり、その問題が尾を引いたためキャンセルになったともいう。 来日の際には飛行機より船を選び、喉に幾重ものマフラーを巻いて大事な喉を守り客室でじっとしており、その間の用事は全て夫人に任せていたという。また、『オテロ』の初日では緊張から出番直前まで金縛り寸前の状態になり、夫人が気付けのウイスキーを飲ませて正気に戻らせた後、堂々たる第一声を発している。公演後に開かれたパーティーにも出ず、ホテルの部屋に篭りっきりだった。『道化師』では以前から、有名なアリア「衣装をつけろ」の後の「泣きの演技」(「演技」とあるが、デル・モナコの場合は実際に泣いてみせるのである)が評判であったが、イタリア・オペラ公演ではフライングの「ブラボー!」の大歓声に遮られ、仕方なく泣き真似をするしかなかった、と言われている。また、『アンドレア・シェニエ』では第4幕のラストシーンで突起物に躓く場面(この模様はDVDに収録されている)や、マッダレーナ役のレナータ・テバルディとともに断頭台行きの馬車に乗ろうとした際に、馬車が勝手に動いて危うく取り残されそうになったこともあった。 この第3回の来日ではオペラ公演のほかに特別演奏会(1961年10月24日)に飛び入りで出演し、「オー・ソレ・ミオ」をピアノ伴奏(管弦楽伴奏の楽譜が用意されていなかった。ピアノはジュゼッペ・モレッリ)で披露している。 なお、飛行機を嫌がったり、出番前に極度の緊張に襲われるのはこの来日の時だけではなく、各地の公演ではいつものことだった言われている。その際にはいつも、「自分はもうだめだ」「この舞台では失敗するだろう」「これが最後の舞台だ」などと口走っていたという。
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