イタリアオペラ公演とは? わかりやすく解説

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イタリアオペラ公演

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 18:57 UTC 版)

マリオ・デル・モナコ」の記事における「イタリアオペラ公演」の解説

日本には1959年NHK主催の「第2回イタリアオペラ公演」で初来日し『オテロ』(オテロ)、『カルメン』(ドン・ホセ)に出演。『戦後芸能史物語 』(朝日選書)は日本大衆受けたカルチャーショック大きさそのまま伝えている。現在まで全てのジャンルあらゆるアーティスト来日公演でこの衝撃超えるものはないとする評価もある。 以後1961年第3回(『アンドレア・シェニエ』(シェニエ)、『道化師』(カニオ)、『アイーダ』ラダメスアンジェロ・ロ・フォレーゼとのダブル・キャスト))と1969年リサイタル)にも来演した。1963年第4回イタリアオペラ公演でも来日予定(『トロヴァトーレ』(マンリーコ)、『西部の娘』(ジョンソン))だったが、内臓疾患によりキャンセルしている。また、1956年第1回イタリアオペラ公演にも出演予定だったが、直前13歳少女駆け落ちをしてスイス行きイタリア劇場出演すっぽかしたためイタリアへ入国禁止となり、その問題が尾を引いたためキャンセルになったともいう。 来日の際には飛行機より船を選び、喉に幾重ものマフラー巻いて大事な喉を守り客室じっとしており、その間用事全て夫人任せていたという。また、オテロ』の初日では緊張から出番直前まで金縛り寸前の状態になり、夫人気付けウイスキー飲ませて正気に戻らせた後、堂々たる第一声発している。公演後に開かれたパーティーにも出ずホテル部屋篭りっきりだった。『道化師』では以前から、有名なアリア衣装をつけろ」の後の「泣き演技」(「演技」とあるが、デル・モナコの場合実際に泣いてみせるのである)が評判であったが、イタリア・オペラ公演ではフライングの「ブラボー!」の大歓声遮られ仕方なく泣き真似をするしかなかった、と言われている。また、アンドレア・シェニエ』では第4幕のラストシーン突起物に躓く場面(この模様DVD収録されている)や、マッダレーナ役のレナータ・テバルディとともに断頭台行き馬車乗ろうとした際に、馬車勝手に動いて危うく取り残されそうになったこともあった。 この第3回来日ではオペラ公演のほかに特別演奏会1961年10月24日)に飛び入り出演し、「オー・ソレ・ミオ」をピアノ伴奏管弦楽伴奏楽譜用意されていなかった。ピアノはジュゼッペ・モレッリ)で披露している。 なお、飛行機嫌がったり、出番前に極度緊張襲われるのはこの来日の時だけではなく各地公演ではいつものことだった言われている。その際にはいつも、「自分はもうだめだ」「この舞台で失敗するだろう」「これが最後の舞台だ」などと口走っていたという。

※この「イタリアオペラ公演」の解説は、「マリオ・デル・モナコ」の解説の一部です。
「イタリアオペラ公演」を含む「マリオ・デル・モナコ」の記事については、「マリオ・デル・モナコ」の概要を参照ください。

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