特殊法人化後の昭和時代
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「日本放送協会の沿革」の記事における「特殊法人化後の昭和時代」の解説
年月日事柄西暦和暦元号~1950 昭和 25 5 2 放送法(昭和25年法律第132号)公布。 6 1 放送法施行。同法に基づき、社団法人日本放送協会の一切の権利義務を継承した特殊法人としての日本放送協会成立。社団法人日本放送協会は解散。 11 東京でテレビの試験放送を開始(週2日、一日3時間)。送信所は現在千代田放送会館がある千代田区紀尾井町だった。 1951 26 1 3 『紅白音楽試合』改め『NHK紅白歌合戦(第1回)』放送。第3回までは正月番組として放送された。 6 初のテレビ実況中継の実験(後楽園球場から日本橋三越へ野球を中継)。 1952 27 1 23 初の国会中継。 2 1 海外向け放送(国際放送)を再開(呼称は「ラジオ日本(ラジオニッポン、Radio Japan)」)。 4 10 ラジオドラマ『君の名は』放送。 8 8 ラジオ受信契約1000万突破。 12 - 東京第1及び第2放送を使った中波2波による「立体放送」(ステレオ放送)開始。試験放送が同月5~7日、20日に最初の番組『土曜コンサート』を東京ローカルで放送。翌年2月28日から全国放送になる。 1953 28 2 1 東京でアナログ総合テレビの本放送を開始(当時は3ch)。送信所は現在千代田放送会館がある千代田区紀尾井町だった。 6 4 テレビでの大相撲中継開始。 12 31 第4回NHK紅白歌合戦を開催。この回から現在の大晦日開催に変更され、テレビでの放送も開始。 1954 29 4 1 テレビでの高校野球中継開始。 11 13 NHK第1・第2放送の2波を使って、世界初のステレオ放送(立体放送)による定時番組『立体音楽堂』放送開始。 1956 31 12 20 カラーテレビの実験局を開局。 1957 32 24 東京局にてラジオFM放送の実験放送を同日19時に開始。 28 VHF帯によるカラーテレビジョン実験放送を開始(東京のアナログ総合テレビにて)。 1958 33 5 16 テレビ受信契約数100万突破。 6~7頃 - 米アンペックス社製の放送用2インチVTRを導入。ただし最初は、VTR国産化のための研究用に使われたり、分解されたりしたという。 9 この月の「大相撲秋場所」(蔵前国技館)のリプレーにて、初めて放送用に2インチVTRの使用を始める(使用は8日目頃から始めた模様)。 1959 34 1 10 東京アナログ教育テレビの本放送を開始。当初は完成したばかりの東京タワーから1chでの送信だった。 4 6 東京地区で総合・教育のアナログテレビ送信所を入れ替え。総合は東京タワーから1ch、教育は紀尾井町から3chに(教育は翌年送信所を東京タワーへ統合)。 期日不明 米アンペックス社製の放送用2インチVTRを、東京、大阪に各々2台ずつ購入。それらを使用した番組収録・送出を開始する(第1弾は、教育テレビの番組だった)。 1960 35 9 10 アナログテレビジョン放送のNTSC方式カラー本放送を総合、教育両テレビにて開始(東京、大阪)。記念番組として、長唄『京鹿子娘道成寺』が総合テレビ20時から55分間、カラーVTRで放送。 1961 36 4 3 連続テレビ小説第1作『娘と私』の放送開始。 10 - 日本で初めて、放送用2インチVTRを搭載したテレビ収録車を導入する。 1962 37 3 1 テレビ受信契約数1000万突破。 10 7 NHK杯テレビ囲碁トーナメント本放送がスタート。 期日不明 2年後の東京オリンピックに備え、角ゴシック斜体字のNHKロゴマーク制定。内幸町から神南移転後の1995年のCI導入まで使われた(なお、旧ロゴが流用されているのは『エデュカチオ!』で見られるのもある)。CI導入後も一部放送局の局舎や中継局に残されている。 1963 38 4 ? 渋谷区神南で1964年東京オリンピック国際放送センター着工。 7 大河ドラマ第1作『花の生涯』放送開始。 12 16 この時開設されていたFMラジオ実験放送局9局(東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌・松山・熊本)が実用化試験放送となり、同時に東京で同放送に於けるステレオ実験放送が開始される。 1964 39 10 1 東京オリンピック国際放送センター完成。現在の東館(主に101スタジオなど複数のテレビスタジオ)の完成、1964年東京オリンピックの国際放送センターとして暫定運用後、正式にNHKの施設(NHK放送センター。以後移転完了までは便宜上「渋谷放送センター」として表記)となる。 10~24 東京オリンピック開催。世界最初の「テレビオリンピック」として、民間放送事業者と共に総力を結集して放送。その内、開会式を初めとして、レスリング、体操、バレーボールなど8種目の競技がカラーで放送される。 12 31 第15回NHK紅白歌合戦、紅白初のカラー放送になる(映像は現存せず)。 1965 40 1 10 この日初日の大相撲初場所から、テレビの大相撲中継がカラー放送になる。当初は蔵前国技館開催のみで、各地方場所は担当各放送局の態勢が整ってからの実施となった。 4 3 全国主要地域にFM実験局が整備されFMステレオ放送が全国でできるようになったため、この日放送の『夜のステレオ』最終回を最後に、中波2波によるステレオ放送終了。 8 13 甲子園球場で開催される「全国高等学校野球選手権大会」が、この日の開会式の放送からカラー化される(春の高校野球である「選抜高等学校野球大会」も、翌年3月26日の開会式の放送からカラー化)。 10 渋谷放送センターの第1期工事が完成し、本格的な第1期運用を開始する。以降は東京放送会館と渋谷放送センターで放送機能、一部の業務部署など分担させつつ、段階的に渋谷移転を進めた。 11 渋谷放送センターの第2期工事着工。 1966 41 5 ハイバンド方式による2インチVTRを導入。これに伴い、VTRコピーによるビデオ編集装置を導入。同システムの稼動を開始する(いずれもカラー対応)。 10 26 この日から、総合テレビ19時のニュースがカラー放送になる(日本のニュース番組のカラー化の始まり)。これを機に、カラーフィルムによるニュース取材が始まる。 1967 42 - この年から、日本全国で主要報道におけるカラーフィルムでの取材を開始する。 3 20 『新日本紀行』でのカラー放送開始(最初は、同日放送の「南房総」の回のみがカラーだった)。同番組は翌月3日の放送(「五島列島」)から全面カラー化される。 1968 43 4 東京オリンピックを契機としてテレビ受像機が大半の家庭に普及したことを受け受信料体系を見直し、ラジオ受信契約が廃止され、代わりに、テレビの普通(白黒)契約とカラー契約の形態に変更。これを期に、NHK、民間放送共にカラー番組が大幅に増加、全国のニュースも全時間帯カラー放送になる。連続テレビ小説もこの時期放送開始の『あしたこそ』からカラー放送に。 6 17 渋谷放送センターの第2期工事が完成、運用開始。西館(主に旧ニュースセンター(現・510スタジオ)などの複数のテレビスタジオと音声専用スタジオなど)が完成したことにより、この頃から、放送用のマスター(主調整設備)機能も全てこの渋谷の放送センターに移行した模様。 1969 44 1 『天と地と』、大河ドラマ初のカラー作品として放送開始。 3 1 超短波放送(ラジオFM放送)の本放送を開始。 5 NHK放送技術研究所が、世界初の2チャンネルステレオによるPCMデジタル録音機の試作品を完成させる。この録音機は現在、NHK放送博物館に、資料として所蔵されている。 12 21 テレビ音声多重放送の2か国語放送実験放送開始(同放送の初めの番組は、米の劇映画『ぼくはついてる』)。 1970 45 8 9 テレビ音声多重放送のステレオ音声実験放送開始(同放送の初めの番組は『NHK交響楽団演奏会』)。 12 NHK UHFテレビ実験局(極超短波(UHF)帯によるテレビの試験放送)が東京(25日)、大阪(24日開始)両放送局にて開局(チャンネルは東西とも14chで統一)。 1971 46 10 10 総合テレビの全国放送、全面カラー化(本土のみ。最後のカラー化番組は『NHKのど自慢』)。 1972 47 2 28 午前9時40分から午後8時20分まで報道特別番組「連合赤軍事件人質救出作戦始まる」が放送される。 5 15 沖縄の施政権がアメリカ合衆国から返還。これにより沖縄放送協会の業務を継承しNHK沖縄放送局が発足。同時に地上アナログ放送の総合・教育2チャンネル化が完了し沖縄でも全面カラー化。 6 25 1945年3月23日以来中断していた沖縄県での中波総合放送(ラジオ第1放送)が復活。同時に中波教育放送(ラジオ第2放送)が開始されようやく中波放送の全国ネットワークが完成。 11 渋谷放送センター本館(現:NHKホール)、完成。 1973 48 6 20 渋谷放送センター本館、運用開始。杮落しとして先ず、ラインベルガーオルガン演奏会が行われ、その後、NHKイタリアオペラ公演、オペラ『アイーダ」(ヴェルディ作曲)などが上演された。 7 31 渋谷放送センターへの移転が完了し、新生放送センターの運用が全面的に開始。これに伴い、それまで本部が置かれていた東京放送会館が廃止された。跡地は現在の日比谷シティ。渋谷移転から4ヶ月後に、現在の都営地下鉄三田線が開通し、内幸町駅も開業した。 12 31 第24回NHK紅白歌合戦、渋谷放送センター本館から生放送。以後、紅白は全て渋谷放送センター本館(現:NHKホール)からの放送となった。 1974 49 1 16 第1次オイルショックに伴い、テレビ放送の昼間、深夜の放送を一部休止。* 昼間は総合テレビ、UHF試験放送は15時~16時台前半(月~金のみ)、教育テレビは14時台後半~17時台前半を放送休止に。深夜は23時で放送打ち切りとなる。* また、1974年度のNHK予算は緊縮型となり、超小規模局を中心にした放送局の廃止(単なる中継局化、代替となる報道部・通信室の設置)で、70放送局態勢へ移行。アナウンサーはほぼ現在の54放送局へ集約された。 3 24 沖縄局での放送開始により、超短波放送(ラジオFM放送)の全国ネットワークが完成。 4 1 夜のワイドニュース番組の先駈けとなる「ニュースセンター9時」開始。 9 9 昼間の放送休止が解除される。 1975 50 4 7 UHFテレビの試験放送を終了。 1977 52 8 6 東京のFMローカル番組『FMリクエストアワー』にて、局初のPCMデジタル録音によるプログラムを放送する。 10 1 教育テレビ全面カラー化。これにより日本のテレビ番組からは過去の番組の再放送や外国映画、演出上の意図での白黒での制作など、一部の例外を除き白黒放送が消滅する。前日9月30日の『教師の時間「“自己理解”の指導」』が日本最後の白黒放送であった。 11 11 全国のFM放送のローカル放送ステレオ化工事完了。FM放送のローカル番組が全局でステレオで放送できるようになる。 1978 53 10 1 * 東京と大阪の総合テレビにおいて、標準テレビジョン音声多重実用化試験放送を開始。* 東京-名古屋-大阪間でPCMデジタル方式によるFMステレオ回線を運用開始。 11 23 国際的取り決めに基づき、JST9時をもってラジオ第1・第2の中波放送送信周波数を一斉変更(10kHzごとから9kHzごと)。まだ24時間化される前であったため、当日の放送開始から9時までは「試験放送」扱いだった。 1979 54 10 東京、普門館で行われたカラヤン指揮ベルリン・フィルの公演の中から4演目分を、NHK放送技術研究所と三菱電機が共同開発した最新オープンリール式PCMデジタル録音機にて収録。その内3演目を同年12月25~27日にFMで放送した(もう1つの10月21日公演のベートーヴェン作曲/交響曲第9番「合唱」についてのみは同日FMで生放送され(一部地域はモノラル放送)、同時にデジタル収録した演奏は同月31日にFMで再放送された(この時の送出用テープはアナログだった))。 12 24 PCM方式によるFMステレオ回線が、札幌、仙台、金沢、広島、松山、福岡と開通。これにより、沖縄県を除く全国で、それを基にしたステレオネットワークが運用開始、ステレオでの全国生中継放送が可能になる。 1982 57 17 東京などを皮切りに総合テレビで標準テレビジョン音声多重本放送を開始(1986年に全国整備完了)。 1984 59 4 * 平日の総合テレビ放送終了が24:00となり、オイルショックから続いていた深夜の放送休止を全面解除。* 沖縄にPCM方式によるFMステレオ回線が開通、全国でFMステレオ生中継が可能になり、また、沖縄県も全国放送のFM番組がやっとステレオで放送できるようになった(それまでは全国放送番組は全部モノラルだった)。 5 12 衛星放送試験放送を開始(世界初となる一般視聴者向けの人工衛星を利用した放送番組の配信である。当初は視聴困難地域の補完対策としての放送を2チャンネル体制を行う予定だったが、衛星の太陽電池の不具合が見つかったためNHK衛星第1テレビジョンの1チャンネルのみで放送を開始した)。 1985 60 4 番組紹介ミニ番組『テレマップ』放送開始。 11 総合テレビで標準テレビジョン文字多重放送を開始(1986年に全国整備完了)。 12 25 NHK衛星第2テレビジョンの試験放送開始。これに伴い、1984年の衛星放送開局当初から予定された2チャンネル体制が確立され、第1放送は総合テレビ、第2放送は教育テレビの難視聴地域への対策・補完放送が実施される。 1986 61 期日不明 総合テレビの音声多重放送の全国整備が完了。同放送が全国で実施されるようになる。 1987 62 7 4 衛星第1テレビ(BS1)で24時間放送と、独自の番組編成を開始。ただし当時は春分と秋分の時期には地球による「食」のための放送休止期間があって1997年の春分の時期まで続いた。1989年6月以降は衛星第2テレビ(BS2)も同様。 1988 63 4 * FM放送の放送終了時間を24:00から翌日の1:00に繰り下げ。* 『NHKモーニングワイド』開始。* 『イブニングネットワーク』開始に伴い、中京広域圏・関西広域圏で行われていた府県別ローカルニュースワイドを廃止。同時に他の府県別放送も廃止あるいは大幅に縮小される。 7 22 機構改革実施。小樽・岩見沢の両放送局を札幌放送局の報道室に、弘前・八戸(青森)、鶴岡(山形)、郡山・いわき(福島)、松本(長野)、浜松(静岡)、豊橋(名古屋)、高山(岐阜)、姫路(神戸)、米子(鳥取)、福山(広島)、下関(山口)並びに佐世保(長崎)の14放送局を、所在各県の県庁所在地にある放送局の支局に、それぞれ格下げ。孰れも、FMのコールサインを持っていなかった(放送部組織が無く所属アナウンサーが居なかった)ことが格下げの引き金となった。 9 19 昭和天皇重体。この日より総合テレビ、衛星第2テレビ、ラジオ第1放送、FM放送は深夜の放送終了後から翌日付放送開始時までの休止時間帯を利用し終夜放送を臨時に実施(毎正時に昭和天皇の病状を伝えるニュースを送り、それ以後はフィラーとしてクラシック音楽を放送した)。 1989 64 1 7 昭和天皇崩御。関係報道に伴い、「連続テレビ小説」史上初の放送休止。以後翌日深夜まで特別編成(教育放送とBS1除く)に切り替えた。
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