局名告知
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局名告知(きょくめいこくち)とは、放送局が放送において、自らの局名を視聴者・聴取者に告知する映像・音声を流すことである。ジャンクションとも呼ばれる。
注釈
- ^ デジタルテレビ放送でも、テレビ信州など、(親局の)送信周波数を流す局がある。
- ^ デジタルテレビ放送でも、青森朝日放送など、一部の民放テレビ局では中継局の物理チャンネルを流す局がある。
- ^ 南海放送は新居浜(JOAL-TV)で独自編成の放送をする予定だったが、実際は松山(JOAF-TV)の放送を中継するだけで独自編成は行わなかったため、コールサインを同時に織り込めなかった。
- ^ コールサインの表示および読み上げはアナログ放送の終了時のみである。
- ^ テレビ愛知は、デジタル完全移行後に終了。テレビユー福島も2011年7月24日未明をもってアナログバージョンを終了した。静岡第一テレビは、2016年1月の愛称変更に伴い使用を終了。残る放送大学も2018年9月のBS完全移行と同時に使用を終了した。
- ^ TBS新放送センター(ビッグハット)移転記念特別番組「ニューTBS 輝き!のスタート」内。
- ^ 同局の出演番組『水曜どうでしょう』の番宣企画の一環として。映像は、同番組内の企画「30時間テレビの裏側全部見せます!」内でも放送された他、番組DVD第18弾にも収録。
- ^ 2020年夏頃より2022年まではクロージング・オープニングは滅多に放送されず、EPGでは「クロージング」「オープニング」と記載されているものの、実際はその時刻になると5秒間ブラックアウトし、カラーバー(上部に「試験電波発射中 JOOY-DTV」右下に「○年○月○日(曜日) (時刻表示)MBS」とテロップ表示)を流す。放送開始はカラーバーの後、お天気カメラの映像を流し、最初の番組に接続していた。
- ^ 少なくとも1990年3月までは、日付をまたぎ24時(翌0時)を過ぎて放送を終えた場合は君が代演奏・国旗掲揚が省略され、ブルーバック字幕による終了アナウンスにとどめたが、同4月以後24時間放送開始まではアナウンス(教育は考える人 (ロダン)の銅像)→君が代・国旗は毎日放送された
- ^ 2011年6月以後、教育テレビは呼称の「Eテレ」を基本的に使うが、放送終了時の国歌演奏の時とコールサインのアナウンスの時は例外として従来通りの正式名を使用している
- ^ 日曜深夜は一部のFM局を除き、また土曜深夜も一部のAM局が深夜数時間の放送休止枠が設けられているため、その時間にも
- ^ 正式社名「兵庫エフエム放送」は読み上げず、対外呼称「Kiss FM KOBE」のみを読み上げる。
出典
- ^ 週間番組表 サンテレビ - 「オープニング」「クロージング」を表記。
- ^ だいいちテレビホームページ D・I Web →番組表 一部の日付のみ
- ^ 基本番組表(2014年9月分) KRYラジオ
- ^ 日本放送協会 編『NHKテレビ美術読本』日本放送出版協会、1981年6月20日、156 - 158頁。NDLJP:12276080/87。
- ^ 受話器の向こうのNHK 放送センター24時間の記録 - NHK放送史(動画の4分1秒から)
- ^ 開く/閉じるいちにち(監督:牧野惇)
- ^ 開始映像 「開く、いちにち」
- ^ 終了映像 「閉じる、いちにち」
放送開始
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2011年9月30日、NBCは当初の予定より1か月遅らせ、本作をハロウィン間近の10月28日から放送開始すると発表した。同11月21日、フルシーズン22話の製作が発表された。
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放送開始
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放送開始はベネズエラ現地時間の午前0時20分(JST: 同日午後1時50分)から『勇敢なる人民に栄光を』をオーケストラの演奏、子供たちの合唱で幕を開けた。その後、TVesのリル・ロドリゲス会長が開局の挨拶を行った。
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放送開始
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同年3月22日にまずNHKが、4月1日に瀬戸内海放送がこの前田山送信所を親局として放送を開始した。この時代、テレビジョン放送局の親局はVHF波による放送が主流であったが、第二次テレビ放送用周波数割当てにより前年の1968年2月20日に初のUHF親局であるNHK徳島放送局教育テレビが眉山より放送を開始したのを皮切りに全国にUHF局が増えていった。そのUHFの黎明期にあってこの前田山送信所は初期の大出力UHF親局であった。
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放送開始
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1960年代中頃、東京や大阪で始まっていた深夜放送を自社制作で作る契機となったのはゴールデンタイムにキャバレーやラブホテルなどのコマーシャルが多いため、それを深夜にまとめて移行したいという東海ラジオの思惑があった。 名古屋のラジオやテレビ、舞台で活躍していた俳優の天野鎮雄。東海ラジオ アナウンサー(当時)の中神靖、岡本典子 の3人が月曜から土曜まで週2回ずつ担当する形で番組が始まったが、中神が番組を降板する事になったため、天野がNHKのテレビドラマで何度も共演していた森本レオを番組プロデューサーに推薦した。当番組のオーディションで森本の自己流の型破りな表現にプロデューサーは眉をひそめたが、天野がスタッフを説得して、水曜と土曜の深夜を担当する2代目のパーソナリティとなった。この時に口癖であった「俺(おれ)」という言い方を注意されたことに反発して、俺をひっくり返して「森本レオ」を芸名とした話は有名である。こうして、3人とも同じ2月13日生まれのパーソナリティ「アマチン・リコタン・レオ」のトリオが誕生した。 当初は深夜の労働者向けの放送を意図していたため、成人対象の業種のコマーシャルを普通に流していたが、実際は受験生と大学生が多数を占めていると言うことが判り、コマーシャルを大幅に手直しする事になった。リスナー層は中学生、高校生に広がり、「アマチン・リコタン・レオ」のパーソナリティ 3人は放送開始の約一年後には愛知県体育館でのファンの集いに一万人のリスナーを集めるなど、大人気となった。 その後は1970年3月2日、鈴蘭高原スキー場で番組初のイベント「リコタン・レオと滑ろう」。夏休み御岳鈴蘭高原バスツアーなどのイベントを開催したが、このバスツアーの一般参加者の中に当時は高校1年生だった竹下景子がいた。竹下は天野のファンで、この時の出会いがきっかけとなり、NHK名古屋放送局 制作のテレビドラマ『中学生群像』(『中学生日記』の前身)を紹介され、女優デビューを果たした。このエピソードは『ぴったんこカン・カン』(TBSテレビ)のロケで、竹下が安住紳一郎とともに名古屋を訪れた際、天野によって語られている。 地元発の深夜放送として、若者に絶大な人気を博した番組となり、東海ラジオはニッポン放送 制作の深夜放送『オールナイトニッポン』のネット依頼を断った。オールナイトニッポンは1972年10月より、CBCラジオで第1部をネットすることになった。
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放送開始
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「エド・サリヴァン・ショー」の記事における「放送開始」の解説
アメリカにおけるテレビ黎明期の1948年6月20日に放送が開始された。番組発足当時のタイトルは『Toast of the Town』(トースト・オブ・ザ・タウン)で、直訳すると「町の人気者」となる。1955年9月に『Ed Sullivan Show』(エド・サリヴァン・ショー)と改名された。
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