とうきょう‐オリンピック〔トウキヤウ‐〕【東京オリンピック】
読み方:とうきょうおりんぴっく
昭和39年(1964)10月10日から24日まで、東京で開催された第18回夏季オリンピック大会。日本武道館や国立競技場などが会場となった。
令和3年(2021)7月23日から8月8日まで、東京で開催された第32回夏季オリンピック大会。新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の世界的流行により、前年から約1年の延期措置を経て実施。大会の延期は史上初めて。会期中、ほとんどの競技会場で無観客の措置がとられた。
市川崑監督による映画の題名。昭和40年(1965)公開。
のドキュメンタリー映画。記録映画でありながら、市川や谷川俊太郎らによって事前に書かれた脚本をベースに撮影され、完成した作品はオリンピック協会との間に「芸術か記録か」の論争を引き起こした。カンヌ国際映画祭で国際批評家賞を受賞。
[補説] 昭和15年(1940)にも開催が予定されたが、日中戦争の影響などにより開催権を返上している。また、の開会式が行われた10月10日は、昭和41年(1966)に体育の日として国民の祝日に制定された。
東京オリンピック
原題: | |
製作国: | 日本 |
製作年: | 1965 |
配給: | 東宝 |
キャスト(役名) |
解説 |
和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑の共同シナリオを軸に、ニュース、劇映画のキャメラマン一六四人が、イタリアテクニスコープ・カメラ五台と、二○○ミリ、一六○○ミリの超望遠レンズ、その他光学技術最高の技術をふるって撮影した、五輪映画初のワイド版。また監督の一員として参加した安岡章太郎が、体操と一人の選手のエピソードを担当、谷川俊太郎がカヌー競技の撮影にあたった。総スタッフ五百五十六人、総監督市川崑。 |
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
ブルドーザーが鳴り、東京の街々は“東京オリンピック”の歓迎準備は万端整った。ギリシャに端を発した近代オリンピックの火が、太平洋を渡って、今、東洋の国日本に近づいている。羽田空港には、アメリカ選手団を初めとして、各国選手が到着した。万国旗のひらめく中、聖火は点火され平和を象徴する鳩が放された。翌日から競技が開始された。一○○米男子決勝ではアメリカのへイズが、走高跳男子決勝ではソ連のブルメルが優勝。つづいて、砲丸投男子決勝でアメリカのロングが女子決勝ではソ連のタマラ・プレスが優勝。円盤投男子決勝ではアメリカのオーターが、女子決勝では再度タマラプレスが勝った。そして薄暮の中で、熱戦をくり広げた棒高跳は、ついにアメリカのハンセンの上に輝いた。翌日、雨空だった競技場で、一万米決勝でアメリカのミルズが優勝、つづい男子二○○、女子走高跳、女子槍投とうが行われた。八○○米女子決勝では、イギリスのパッカーが優勝。競技場のあちこちでは美しく逞しい身体がゆき交う。いそがしく動く報道陣の群れを追うように、国歌が流れ、女子八○メートル・ハードル期待の依田選手が口笛を吹いて緊張をほぐしている。体操では、日本選手が堂々と君が代を鳴らした。今度初めて参加した国もある、チャドだ。三名の選手が参加した。二度と来られないだろう。競技場の晴れの舞台で、独立国の責任と喜びを味わった。日本のお家芸、重量挙、レスリング、柔道も、予想以上の成績だった。フェンシング水泳、フリーライフル、自転車、サッカー、ホッケー、バスケット、水球、馬術、そして、バレーボールでは、東洋の魔女が君が代を鳴らした。カヌー、ボート、ヨット、競歩、近代五種と競技は展開し、オリンピック最後を飾るマラソンは、アべべの楽勝で終った。すべて終了した。メキシコで再会する日を祝して、聖火は太陽へ帰った。メキシコの国旗がメインポールに翻えっている。 |
東京オリンピック
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東京オリンピック(とうきょうオリンピック)
- 1 東京オリンピックとは
- 2 東京オリンピックの概要
東京オリンピック
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「TOKYO SPORTS TODAY」の記事における「東京オリンピック」の解説
TOKYO TODAY'S REPORT 7月26日 - 8月6日、『飯田浩司のOK! Cozy up!』の6:30頃、『辛坊治郎ズーム そこまで言うか!』(月 - 木曜)および『うどうのらじお』(金曜)の16:30に編成。前日のメダル獲得情報、当日の競技結果を同局五輪専従リポーターである大泉と同じくリポーターを兼務する『ズーム』の水曜代理パーソナリティを担当している吉田尚記が出演し、コーナー出演後に取材に赴く競技会場の競技の展望を伝えた。主に朝は大泉、夕方は吉田が担当。また、吉田は『あなたとハッピー!』、『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』、『ザ・ラジオショー』内でもリポートを行うほか、適宜各生放送番組でレポートを入れた。 週末に関してはコーナーは特に設けておらず、『ハッピー』『ビバリー』『ラジオショー』などと同様に適宜各生放送番組でレポートを入れた。 東京オリンピックメダル速報 先述のものとは別に、日本人選手団にメダル獲得の情報が入った際に、ニッポン放送スポーツ部アナウンサーが割り込んで伝えた。
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東京オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 22:12 UTC 版)
東京オリンピック開幕に至るまでの新型コロナウイルス感染予防策について「実質的にバブルは崩壊している。米大リーグや全豪オープンテニスなどは厳格にバブルをつくっており、全くレベルが違う。(東京五輪は入国者の)行動もアプリで監視しているというが、機能しているとは思えない。」とインタビューで発言。 東京オリンピックについて「開催できる状況にないと言わざるを得ない。」とインタビューで発言。
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東京オリンピック(2021年)
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「日本と南スーダンの関係」の記事における「東京オリンピック(2021年)」の解説
2020年に開催が予定された東京オリンピックに向け、南スーダンの陸上競技選手団(選手4人、コーチ5人)は群馬県の前橋市にて合宿を開始。しかし、2020年に発生した新型コロナの蔓延を受けて大会そのものが延期となる。選手たちは感染拡大のリスクから帰国も困難で、日本での練習継続を希望した。これを受けて前橋市は南スーダンの選手を支援を発表。滞在費は市のふるさと納税等で集め、選手たちは大会が開催される2021年の8月までの1年9か月を前橋市で過ごすことになった。支援金は3000万以上集まっており、選手たちの練習や防寒具、日本語学校に通う費用、または選手と地域の交流イベントに充てられた。この間選手達は地域の人々と交流したり、臨時コーチとなった同市の会社員からトレーニングの指導を受けた。選手たちが晴れて大会に出場した際には前橋市だけでなく、SNSでは彼らに対し「もはや群馬、前橋代表だ」という声まで上がり、日本中からも応援された。この大会でグエム・アブラハム選手は陸上男子1500メートルで予選敗退となったものの、南スーダンのナショナルレコードを更新した。一方、パラリンピックの男子400mと400mハードルの出場を目指していたアクーン選手とパラリンピック男子100mの出場を目指していたマイケル選手は、諸々の事情で出場できなかった。
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東京オリンピック
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「2021年のラジオ (日本)」の記事における「東京オリンピック」の解説
東京オリンピック・パラリンピックに関連する特別番組のうち、2020年東京オリンピックにまつわる番組の列挙(いずれも民放ラジオ99局統一番組)。オリンピック中継全般についてはジャパンコンソーシアムも参照。
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東京オリンピック
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1960年代に入ると、1964年東京オリンピックのための空港設備の整備拡張が行われた。旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)されたほか、旧A滑走路が3,000mに延伸され、旧C滑走路(3150m×60m)の新設、東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープンした。また、1963年には、航空業界と空港の守り神として、旅客ターミナルに羽田航空神社が建立された。 日本航空や外国航空会社により、ダグラス DC-8やボーイング707、コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空とシンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。 1966年には、空港周辺で単独機としては当時世界最悪の事故となった全日空羽田沖墜落事故が発生し、その1か月後にはカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が発生するなど悲劇も起きた。その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸し、旧羽田空港が一応の完成を見た。
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東京オリンピック(1964年)
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「ボクシング日本代表選手一覧」の記事における「東京オリンピック(1964年)」の解説
詳細は「1964年東京オリンピックのボクシング競技」を参照 1964年東京オリンピックには9名出場。金メダル1個獲得。 吉野洲太(フライ級) 桜井孝雄(バンタム級) - 金メダル 高山将孝(フェザー級) 白鳥金丸(ライト級) 米倉宝二(ライトウェルター級) 浜田吉治郎(ウェルター級) - ベスト8 益田弘二(ライトミドル級) 天間一(ミドル級) 丸山忠行(ヘビー級)
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東京オリンピック(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ボクシング日本代表選手一覧」の記事における「東京オリンピック(2020年)」の解説
詳細は「2020年東京オリンピックのボクシング競技」を参照 男子4階級、女子2階級で開催国枠が与えられた。アジア・オセアニア予選で男子1名、女子2名が出場権獲得。女子の出場は初。開催国枠として男子3名追加後、残りは世界最終予選で獲得を目指す予定だったが、世界最終予選は中止になりAIBAランキングにより出場枠が決められたため追加の出場枠が得られなかった。なお、世界最終予選に出場予定だった選手のうち津端ありさ(女子ミドル級)は開会式に登場した。
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東京オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 13:54 UTC 版)
「モハメド・ガムーディ」の記事における「東京オリンピック」の解説
1964年東京オリンピックに出場時点ではまだそれほど名が知られている選手ではなかったが、前年のプレオリンピックにあたる東京国際スポーツ大会に急遽参加し、10000mでは3位、5000mでは4位の成績を収めた。 東京オリンピック10000mでは、世界記録保持者であるオーストラリアのロン・クラークが優勝候補と目されていた。38人が出場した決勝では、クラークと、アメリカのビリー・ミルズの3人でファイナルラップまで競い合い、銀メダルを獲得。チュニジア初の五輪メダルであり、28分24秒8のタイムは世界歴代4位のタイムであった。 その2日後、彼は5000mにも出場し、予選C組を走った。このC組には本選で優勝するロバート・シュール、準優勝するハラルト・ノルポトも走っていたが、ガムーディは彼ら2人を含む強豪を抑え、トップで予選を通過した。しかし、水ぶくれにより、決勝は欠場を余儀なくされた。
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東京オリンピック
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ヘイズは、1964年の東京オリンピックでスプリンターとしての才能を十分に発揮した。男子100m走に於いて1レーンという悪状況にもかかわらず、10秒0(10秒06)という世界タイ記録(当時)を樹立し、まず1つ目の金メダルを獲得する。そして4×100mリレーでもアメリカチームの一員として、39秒0(39秒06)のこれも世界新記録(当時)を樹立し、2つの金メダルを獲得した。 この時、朝日放送の植草貞夫アナウンサーが放送実況(現・ジャパンコンソーシアム相当の共同製作機構)でヘイズのことを「黒い弾丸・ボブ・ヘイズ!!」と実況したという。 準決勝でヘイズは人類で初めて「10秒の壁」を破る9秒9(9秒91)を追い風参考記録でマークし、当時国立競技場に詰めかけていた約7万人の観客をダイナミックな走法で熱狂させた。
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