にっちゅう‐せんそう〔‐センサウ〕【日中戦争】
日中戦争 (にっちゅうせんそう)
日中戦争
日中戦争(満州事変、日華事変)
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「軍国美談」の記事における「日中戦争(満州事変、日華事変)」の解説
爆弾三勇士 1932年(昭和7年)の第一次上海事変において、敵の鉄条網を破壊するため3名の工兵が爆弾を持って突入して爆死したとの報道がされ、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」と呼ばれて熱狂的な反響を呼んだ。遺族への多くの恤兵金が集まり、天皇からの祭粢料も賜われた。報道から1か月ほどの間に8本の映画が作られ、明治座で舞台劇『上海の殊勲者三勇士』が演じられ、大阪毎日新聞と東京日日新聞の歌の募集では与謝野寛が1位となる。3名の故郷の久留米と東京などで銅像も建立される。子供の玩具や菓子の中にも、動く爆弾三勇士といったものや、爆弾キャラメル、爆弾チョコレートなどが売られ、銅像の模型が『少年倶楽部』の付録になった。また三勇士の母達の逸話も伝えられ、賛美された。銅像建立の際の募金には小学生10万人のものも含まれていた。教科書には1941年の改訂で国語で採用され、唱歌教材にも「三勇士」が使われる。 空閑昇 空閑少佐は上海事変において悲壮な戦死を遂げたと報じられたが、実際には重傷を負って捕虜とされており、捕虜交換で日本側に引き渡された二日後にピストル自殺を遂げた。このいきさつが「上海事変最大の悲劇」などと報じられ、これを題材とした映画が1932年に5本も上映された。 チョコレートと兵隊 前線にいた兵士が、慰問袋に入っていたチョコレートの包み紙を溜めて(100枚集めると板チョコ1枚と交換できた)、自宅の子供達に送ったが、その後いくばくもなく戦死した。これが1938年(昭和13年)に新聞に掲載され、映画『チョコレートと兵隊』などが作られた。 杉本五郎 歩兵大隊長だった杉本中佐は1937年に、敵陣攻撃において戦死した。この時は大きく取り上げられることは無かったが、死の直前まで書きつづっていた手記が翌年『大義』という題で出版されると、皇国への忠義を説く内容により、終戦までに100万部という大ベストセラーとなった。杉本は軍神と呼ばれるようになり、山岡荘八『軍神杉本中佐』(1942年)を初め多くの伝記が出版された。 軍犬利根 満州事変における軍犬金剛・那智の2匹の活躍と死を描いた教材「犬の手柄」が1933年の国語教材、軍犬利根を育てた少女と利根の活躍を描いた「軍犬利根」が1941年の国語教材に使われた。 サヨンの鐘 1938年に台湾で日本人巡査が出征する際に、台風の中その荷物を運んだ原住民タイヤル族の少女サヨン・ハヨンが川に転落して死亡した。1940年に台湾総督に赴任した長谷川清海軍大将がこの話を聞き、「愛国乙女サヨンの鐘」をサヨンの村に贈った。これが全国的に報じられ、現地では高砂義勇隊募集の宣伝に利用された。1941年には渡辺はま子の歌う「サヨンの鐘」が作られ、1943年には李香蘭主演で映画化された。 その他に日華事変で軍神あるいは模範的な軍人として扱われたものとして、戦闘機で戦死した南郷茂章少佐、「申し分ない典型的武人」として陸軍情報部によって顕彰された西住小次郎戦車長などがおり、秦賢助『軍神伝』(1942年)にまとめられている。これらも伝記や映画で数多く取り上げられ、軍の依頼によって書かれた菊池寛『西住戦車長伝』(1939年)もある。 婦人雑誌では日中戦争開始以降、子供を戦死させた母親を讃える記事や、「軍国の母手紙集」などが掲載され、子供を戦地に送り出す母を歌った『軍国の母』(1937年)や、息子を戦死させた母が靖国神社を訪ねる『九段の母』(1939年)などがヒットした。また従軍看護婦の記録である大嶽康子『病院船』(1939年)は文部省主推薦図書となり映画化もされ、宮川マサ子『大地に祈る』(1940年)には菊池寛が「聖戦に参加した女性の心の最もすぐれた記録」という推薦の言葉をよせている。『主婦之友』では1938年に「婦人愛国の歌」「少年少女愛国の歌」作詞公募、『キング』では1939年に「出征兵士を送る歌」作詞公募なども行われる。
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日中戦争(零戦初空戦)
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1940年(昭和15年)7月、零式艦上戦闘機11型が、海軍の制式戦闘機として採用される。同年9月13日、進藤三郎大尉率いる13機(岩井は小隊の3番機)は重慶爆撃の中攻隊の護衛として出撃、I-15・I-16計30数機と空戦になり単独で2機を撃墜。この空戦は内地でも大きく報道された。戦闘機隊13名はこの功績により支那方面艦隊司令長官から感状を授与された。その後も数次の出撃を重ね、10月26日の成都攻撃おいても戦果(単独でI-15を1機撃墜)を上げる。 11月、内地へ帰還、教員として筑波空に転勤。
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日中戦争(支那事変)
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「日本の慰安婦」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説
1937年7月7日の盧溝橋事件を端緒とする日中戦争がはじまり、全面戦争に突入する前に日本軍は「野戦酒保規程」を改正して慰安所を造るための法整備を行った。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」には「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」と書かれており、慰安所は軍の後方施設として兵站部が管轄することが規定されている。 1937年12月の南京戦の後、南京市内の安全区(難民区)の設置に関わり、安全区内の金陵女子文理学院に逃れて来た女性避難民の保護にあたったミニー・ヴォートリンの日記には、強姦事件の被害者からの聞き取り内容や、強姦目的で金陵女子文理学院の敷地内に侵入した日本兵とのやりとりで「(日本兵を)追い払った、(日本兵に)女性難民が拉致された、構内で強姦に及んだ兵士(日本兵)を制止した、など」が記録されている。また1937年12月24日の日記には、日本軍の某師団の高級軍事顧問の訪問を受け、避難民1万人の中から売春婦100人を選別させてもらいたいという要求に対して、以後女性を連行しないことを条件に選別を許し、日本軍が21名を連れて行ったこと、日本軍側は、兵士が利用するための正規の慰安所を開設すれば強姦被害が減ると考えている、と説明したことが記録されている。 日本軍は1937年末から大量の軍慰安所を設置し始めた。飯島守上海派遣軍参謀長の12月11日の日記には、中支方面軍から慰安所設置の指示が来た事が書かれている。上村利通上海派遣軍参謀副長も、軍の不法行為が激しいので「南京慰安所の開設において第二課案を審議す」(28日)と書いている。現地軍最高司令部であった中支那方面軍から指示が飛び、取り急ぎ各軍が南京攻略後の駐留地で憲兵に指示して慰安婦を集めさせ慰安所を開設した。内地や朝鮮半島から呼び寄せた記録もある。1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長が「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」を出し、前線での慰安所設置が報告された。 陸軍が視察を依頼した精神科医早尾乕雄の論文である『戦場心理の研究』 によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している。こうした強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる。 慰安所の設置は主に強姦対策のためになされたが、設置しても強姦事件が後を絶たないという軍関係者の報告も残されている。その一方で、後にシンガポールの初代首相となったリー・クアンユーは、当時の日本軍の振る舞いを批判しつつも、シンガポール占領時には南京で起きたような強姦事件は殆ど発生せず、その理由は慰安所の存在で説明がつくと思うと当時を振り返っている。リーは、このような問題について日本軍が現実的な処理の仕方をすると思ったと述べている:40。
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日中戦争(支那事変)
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1937年7月に日中戦争が勃発すると、翌8月に第一連合航空隊司令官戸塚道太郎大佐が上海渡洋爆撃を指揮する。前例のない渡洋爆撃は実施前から成功を危ぶむ声が多く、被害が続出して太平洋諸島に配備すべき中攻隊を消耗していった。音を上げた軍令部は航空本部教育部長の大西を台北基地に派遣した。済州島基地で大西は「台湾の司令部が中攻で戦闘機狩りをやらせようというのが間違っている。本末転倒の作戦だ」と話している。軍令部の強襲緩和の申し入れに対し、戸塚は強気で「たとえ全兵力を使い尽くすともあえて攻撃の手をゆるめず」とはねつけた。 1937年8月21日、大西は九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃に指揮官機に同乗するが、中国軍戦闘機に迎撃され陸攻4機が撃墜された。大西の搭乗機は襲われやすい編隊の最後尾を占めていたが、後に大西は「作戦の方に気をとられて、なんにも感じないんだ」と話した。それを聞いた源田実少佐は「胆、かめの如し、という言葉があるが、このひとのは底抜けだ」と評している。 1938年、大西は、学者などを利用しながら言葉巧みに接触してきた自称「町の発明家」こと本多維富に、「水からガソリンを作ることができる」と吹き込まれて信じ切ってしまい、海軍次官に昇進していた山本と航空本部長豊田貞次郎中将らに働きかけて実験が行われることとなった。実は本多は大西に話を持ち込む前に、海軍軍需局にも話を持ち込んでおり、軍需局課長・燃料局部長柳原博光少将はそれが詐欺行為ということを見抜いて、軍需局では取り上げるべきではないと結論づけていたが、大西ら航空本部主導で実験が強行されることになった。戦争が長期化するなかで、海軍の燃料不足は深刻になっており、山本や大西は冷静な判断力を欠いていたとの指摘もある。軍需局は実験中止を勧告したが、海軍次官の山本も実験を了承していたことから、軍需局も折れて、1939年1月に大西を長とする30名の調査団の立ち合いの元に、航空本部の地下室で実験が開始された。三日三晩に渡って本多は恭しく振舞っていたが、立会人が疲労した隙を狙って、予め用意していたガソリンが入った小瓶を取り出して実験は成功したと言い張った。しかし、軍需局から派遣されていた調査団員に詐欺行為を看破されて、あえなく本多は警察に引き渡された。大西は詐欺師に騙されたことを恥じて「水ヲ主体トシ揮発油ヲ製造スルト称スル発明ノ実験ニ関スル顛末報告書」という58頁にも及ぶ詳細な報告書を作成している。 1939年10月19日、第二連合航空隊司令。11月4日、大西は二連空は大挙昼間強襲すべしと命令し自らも指揮官機に同乗しようとした。しかし幕僚らは死なれては士気にかかわると反対し、代わりに13空司令奥田喜久司大佐が行くことで説得した。この出撃で奥田は戦死し遺書には戦死の覚悟と大西への感謝の言葉があったが、大西は部下らに「いったん出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳しい態度をとった。しかし奥田の弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちる場面もあった。 1939年12月5日、大西は陸軍の第三飛行集団を訪問して「この際なし得れば陸海軍で共同して蘭州(蒋介石ルート拠点)を攻撃したい」と申し入れた。要旨は、従来海軍は夜間爆撃を主としたが、その効果が比較的小さいので昼間大威力をもって敵戦闘機の活動余地をなからしめるよう攻撃を加える陸海軍の共同作戦の提案であった。これにより12月8日、陸海軍による「百号作戦」が決定した。12月26日から28日の3日間で多大な戦果をあげた。 1940年5月12日、重慶作戦のため、大西は第一連合航空隊司令官山口多聞少将と協力し、一連空と二連空を統合し連合空襲部隊を創設した。指揮官を山口が務め、参謀長を大西が務めた。重慶爆撃に関して大西が「日本は戦争をしている。イギリスは負けている。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構」と言い、山口は中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重に」と言って、二人は喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた。7月10日、山口は長慶爆撃を強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機がつけられる」と反対して対立するが、山口が折れて後に大西は「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した。 日中戦争における零式艦上戦闘機の初陣でパイロットから防弾の弱さについて「防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、技術士官は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し効果を発揮するべきと反対した。大西はそれに対し「ただ今の議論は技術士官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った。
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日中戦争 (1937年-1945年)
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「外白渡橋」の記事における「日中戦争 (1937年-1945年)」の解説
第二次上海事変で外白渡橋は重要な役割を果たした。1937年8月12日に、何千人という避難民が“右往左往する群衆”となって日本軍から逃れようと外白渡橋を通って租界になだれ込んだ。 1937年8月の終わりになると、日本軍は外国人による外白渡橋の通行を制限した。「外国人に外白渡橋を渡らせないことに固執する日本海軍当局への非難が地元で渦巻いた」。1937年8月以降、外白渡橋は共同租界と、日本が支配する虹口・閘北との事実上の境界となった。マーク・ゲインの回想によると「呉淞江は2つの世界の境界線となった。北側は恐怖、死、そして日本軍の銃剣の世界だった。南側はまだ法が支配し、爆弾の爆発がありうる程度には普通の生活が残っていた。… 通行が許されるのは外白渡橋だけになり、二つの敵対する世界が細い橋を挟んで互いに睨み合っていた」。橋の西端は上海義勇隊が守っていた。ハロルド・ラータンベリーの回想によると、「日本とスコットランドの哨兵が外白渡橋の上で向き合っていた。中国人は皆、日本兵に向かって帽子を脱がなくてはならなかった。なので私は我がスコットランド兵に向かっても喜んで帽子を脱いだ」。ケンプ・トウリによると 悪臭漂う呉淞江をまたいだ外白渡橋の上で日本の哨兵が立ち、虹口を他の共同租界から隔てていた。外国人は顔を叩かれないよう、彼らの前を通り過ぎる時は礼儀正しく腰からお辞儀をしなければならなかった。中国人の苦力が、橋の急峻な入口で重い荷車を押し上げながら、呻き、掛け声をかけていた。日本兵は銃剣を、時おり荷車の俵に突き刺したり、苦力の体をちくりと小突いたりし、誰が主人なのかは誰の目にも明らかだった。虹口は共同租界の一部だったが、租界のタクシーや人力車は許可されず、特別に認可されたぼろぼろの乗り物を借りるか、お辞儀をしながら歩いて橋を渡って日本の“領地”で乗り物に乗っていかなければならなかった。 外白渡橋の日本の哨兵の前を人力車で通ることはできなかった。橋の両端にいる日本兵たちは、中国人がきちんと敬意を示さなかった場合、必ず立ち止まらせ、辱め、罰を与えた。外国人も日本の哨兵にお辞儀を強いられ、腰まで裸にさせられた男女もいた。ユダヤ人の避難民だったレナ・クラスノの回想によると「外白渡橋を渡る全ての人間は帽子を脱ぎお辞儀することを強制された。… 日本の哨兵の前では市電電車も一時停止し、乗客全員がお辞儀すると、銃剣をつけた兵士が空いた方の手を振って応えた」。日本人にとって「哨兵は日本軍の名誉と力を具現化したものであり、きちんと敬意を払わなかった者には災難が降りかかった」。クラーク・リーによると哨兵たちは「自分たちを天皇裕仁の代理とみなしており、多くの外国人たちが帝国の代理の前で“不敬にも”喫煙したとして平手打ちされたり殴られたりした」。1937年8月、合衆国アジア艦隊司令長官であるハリー・E・ヤーネル提督は「外白渡橋で日本官軍の哨兵に、故意にひどく侮辱された」。1937年12月27日に日本の当局は、通行証なしに外白渡橋を渡ることを外国人に許可すると発表した。 1938年2月に日本の中支那方面軍の駐屯軍司令官は、外国人が虹口へ戻って居住・業務を再開するよう促す、一連の規則と緩和の条項を発表した。「呉淞江の北側に戻ってくる外国人は特に、外白渡橋と交差点の交通整理にあたる哨兵に礼儀正しくお辞儀をし『お早うございます』と挨拶して敬意を払うよう求められる。外国人は、その務めを果たす日本の兵隊が天皇の代理であることを認識しなければならない」。1938年6月にアメリカ人の医師 J・C・トンプソンは外白渡橋で日本人の哨兵に平手打ちされた。1938年6月初旬、中国人レジスタンスによる日本商社への連続テロの一環として、外白渡橋の日本軍哨兵の詰所に爆弾が投げ入れられた。1938年6月20日、共同租界で手榴弾を所持していて逮捕された19歳の学生が外白渡橋で日本軍に引き渡され、橋は再び「溜息橋」として言及された。同月、Miss Dorothea Lintihac は、行き交う車と絡まった鉄条網を避けようと、外白渡橋で本来とは違う側を母と渡ったところ、それを理由に日本の哨兵から“乱暴に扱われた”という。後に彼女らは逮捕され拘留された。イギリスの総領事ハーバート・フィリップスはこの件と、日本兵の“ますます喧嘩腰な態度”に抗議した。 1941年12月8日の早朝に真珠湾攻撃が起こり、共同租界は日本軍に占領された。「彼らは上海全域を支配下に置き、虹口と共同租界の境界として外白渡橋に置かれていた小屋を撤去した」。加えて「呉淞江にかかっている外白渡橋に柵が設けられ、日本の区画を残りの区域から封鎖した。市内全域に鉄条網が張り巡らされ、全ての橋に日本の哨兵が配置された」。アメリカ人の住人だったエドナ・リー・ブーカの回想によると「憲兵隊や尋問官をはじめとして日本人の横柄さと強欲さは頂点に達した。外灘から北へ虹口に至る外白渡橋では、日本の衛兵によって多くの人が平手打ちされたり、叩かれたり、小突かれたりしていた」。
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日中戦争(支那事変)
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1936年(昭和11年)12月、軽巡洋艦「五十鈴」艦長。1937年(昭和12年)7月、日中戦争勃発。12月、戦艦「伊勢」艦長。1938年(昭和13年)11月15日、少将に昇進し、軍令部出仕。12月、第五艦隊参謀長。1939年(昭和14年)11月、第一艦隊司令部付。12月戦艦「長門」乗艦。 1940年(昭和15年)1月15日 第一連合航空隊司令官。大西瀧治郎の案で大西を司令とする第二連合航空隊とともに第一空襲部隊を編成し、山口がその指揮官を務め、101号作戦(重慶爆撃)を開始する。5月12日、山口は准士官以上の搭乗員に「これから開始する101号作戦では兵力が半減しても重慶に連続猛攻撃を加え蔣介石政権を壊滅させる」と訓示する。爆撃を護衛戦闘機がないまま強行したために大きな犠牲を出してパイロットからは「人殺し多聞丸」と呼ばれた。重慶爆撃に関して大西が「日本は戦争をしている。イギリスは負けている。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構」と言い、山口は中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重に」と言って、二人は喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた。7月10日、山口は重慶爆撃を強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機がつけられる」と反対して対立する。山口が折れて、後に大西は源田実に対し「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した。 7月中旬、横山保以下6機の十二試艦上戦闘機(零戦)が漢口に進出してきた。横山は、この新鋭機の重要なトラブルを事前に解決する必要があるとして実験飛行を実施した。101号作戦を遂行中の山口、大西両司令官はなるべく速やかに十二試艦戦で敵本拠地の敵戦闘機群を撃滅せよと命じた。護衛のない中攻隊からすれば敵戦闘機群の撃滅を熱望するのは当然だったが、まだ納得できない横山は事情を説明して猶予を乞うた。しばらくして司令官たちは横山を呼び出し、「貴様はいのちが惜しいのかッ」と挑発的な言葉をぶつけたと言う。
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日中戦争(支那事変)
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「第11師団 (日本軍)」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説
1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変に動員される。日中戦争(支那事変)では再び上海に投入された。1938年(昭和13年)9月、満州に派遣され、以後満州に駐屯した。1939年(昭和14年)10月、隷下の歩兵第22連隊(松山)が新設の第24師団に編入され、三単位制師団となった。
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「日中戦争」の例文・使い方・用例・文例
- 日中戦争という戦争
日中戦争と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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