日中戦争とは? わかりやすく解説

にっちゅう‐せんそう〔‐センサウ〕【日中戦争】

読み方:にっちゅうせんそう

昭和12年(1937)7月盧溝橋(ろこうきょう)事件きっかけにして起こった日本中国との間の戦争。はじめ日本政府支那事変あるいは日支事変とよび、宣戦布告も行わなかったが、戦線全中国に拡大太平洋戦争発展した日華事変


日中戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/25 10:08 UTC 版)

日中戦争にっちゅうせんそうは、盧溝橋事件により発生した、1937年昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争である。支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)[注釈 1]日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる[5][注釈 2][注釈 3][注釈 4]




「日中戦争」の続きの解説一覧

日中戦争(満州事変、日華事変)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 14:00 UTC 版)

軍国美談」の記事における「日中戦争(満州事変日華事変)」の解説

爆弾三勇士 1932年昭和7年)の第一次上海事変において、敵の鉄条網破壊するため3名の工兵爆弾持って突入して爆死したとの報道がされ、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」と呼ばれて熱狂的な反響呼んだ遺族への多く恤兵金が集まり天皇からの祭粢料も賜われた。報道から1か月ほどの間に8本の映画作られ明治座舞台劇上海殊勲三勇士』が演じられ大阪毎日新聞東京日日新聞の歌の募集では与謝野寛が1位となる。3名の故郷久留米東京などで銅像建立される。子供玩具菓子中にも、動く爆弾三勇士といったものや、爆弾キャラメル爆弾チョコレートなどが売られ銅像模型が『少年倶楽部』の付録になった。また三勇士の母達の逸話伝えられ賛美された。銅像建立の際の募金には小学生10万人のものも含まれていた。教科書には1941年改訂国語採用され唱歌教材にも「三勇士」が使われる空閑昇 空閑少佐上海事変において悲壮な戦死遂げた報じられたが、実際に重傷負って捕虜とされており、捕虜交換日本側に引き渡され二日後にピストル自殺遂げた。このいきさつが「上海事変最大悲劇」などと報じられ、これを題材とした映画1932年に5本も上映された。 チョコレートと兵隊 前線にいた兵士が、慰問袋入っていたチョコレート包み紙溜めて100枚集めると板チョコ1枚交換できた)、自宅の子供達に送ったが、その後いくばくもなく戦死した。これが1938年昭和13年)に新聞掲載され映画チョコレートと兵隊』などが作られた。 杉本五郎 歩兵大隊長だった杉本中佐1937年に、敵陣攻撃において戦死した。この時は大きく取り上げられることは無かったが、死の直前まで書きつづっていた手記翌年大義』という題で出版されると、皇国への忠義説く内容により、終戦までに100万部という大ベストセラーとなった杉本軍神呼ばれるようになり、山岡荘八軍神杉本中佐』(1942年)を初め多く伝記出版された。 軍犬利根 満州事変における軍犬金剛那智2匹活躍と死を描いた教材の手柄」が1933年国語教材軍犬利根育てた少女利根活躍描いた軍犬利根」が1941年国語教材使われた。 サヨンの鐘 1938年台湾日本人巡査出征する際に、台風の中その荷物運んだ原住民タイヤル族少女サヨン・ハヨンが川に転落して死亡した1940年台湾総督赴任した長谷川清海軍大将がこの話を聞き、「愛国乙女サヨンの鐘」をサヨン贈った。これが全国的に報じられ現地では高砂義勇隊募集宣伝利用された。1941年には渡辺はま子の歌う「サヨンの鐘」が作られ1943年には李香蘭主演映画化された。 その他に日華事変軍神あるいは模範的な軍人として扱われたものとして、戦闘機戦死した南郷茂章少佐、「申し分ない典型的武人」として陸軍情報部によって顕彰された西住小次郎戦車長などがおり、秦賢助軍神伝』(1942年)にまとめられている。これらも伝記映画数多く取り上げられ、軍の依頼によって書かれ菊池寛『西住戦車長伝』1939年)もある。 婦人雑誌では日中戦争開始以降子供戦死させた母親讃える記事や、「軍国の母手紙集」などが掲載され子供戦地送り出す母を歌った軍国の母』(1937年)や、息子戦死させた母が靖国神社訪ねる九段の母』(1939年)などがヒットした。また従軍看護婦記録である大嶽康子病院船』(1939年)は文部省推薦図書となり映画化もされ、宮川マサ子『大地に祈る』(1940年)には菊池寛が「聖戦参加した女性の心の最もすぐれた記録」という推薦言葉をよせている。『主婦之友』では1938年に「婦人愛国の歌」「少年少女愛国の歌」作詞公募、『キング』では1939年に「出征兵士を送る歌作詞公募なども行われる

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日中戦争(零戦初空戦)

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岩井勉」の記事における「日中戦争(零戦初空戦)」の解説

1940年昭和15年7月零式艦上戦闘機11型が、海軍制式戦闘機として採用される同年9月13日進藤三郎大尉率い13機(岩井小隊3番機)は重慶爆撃中攻隊の護衛として出撃I-15I-1630数機と空戦になり単独で2機を撃墜。この空戦内地でも大きく報道された。戦闘機13名はこの功績により支那方面艦隊司令長官から感状授与された。その後数次出撃重ね10月26日成都攻撃おいても戦果単独I-15を1機撃墜)を上げる。 11月内地帰還教員として筑波空に転勤

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日中戦争(支那事変)

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日本の慰安婦」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説

1937年7月7日盧溝橋事件端緒とする日中戦争がはじまり、全面戦争突入する前に日本軍は「野戦酒保規程」を改正し慰安所造るための法整備行った1937年9月29日の陸達第48号野戦酒保規程改正」には「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」と書かれており、慰安所は軍の後方施設として兵站部管轄することが規定されている。 1937年12月南京戦の後、南京市内の安全区難民区)の設置関わり安全区内の金陵女子文理学院逃れて来た女性避難民保護あたったミニー・ヴォートリン日記には、強姦事件被害者からの聞き取り内容や、強姦目的金陵女子文理学院敷地内侵入した日本兵とのやりとりで「(日本兵を)追い払った、(日本兵に)女性難民拉致された、構内強姦及んだ兵士日本兵)を制止した、など」が記録されている。また1937年12月24日日記には、日本軍の某師団の高級軍事顧問訪問を受け、避難民1万人の中から売春婦100人を選別させてもらいたいという要求に対して以後女性連行しないことを条件選別許し日本軍21名を連れて行ったこと、日本軍側は、兵士利用するための正規慰安所開設すれば強姦被害が減ると考えている、と説明したことが記録されている。 日本軍1937年末から大量の軍慰安所設置し始めた飯島上海派遣軍参謀長12月11日日記には、中支方面軍から慰安所設置指示が来た事が書かれている上村利通上海派遣軍参謀副長も、軍の不法行為激しいので「南京慰安所の開設において第二課案を審議す」(28日と書いている。現地軍最高司令部であった中支那方面軍から指示飛び取り急ぎ各軍南京攻略後の駐留地で憲兵指示して慰安婦集めさせ慰安所開設した内地朝鮮半島から呼び寄せた記録もある。1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長が「皇軍将兵慰安婦渡来ニツキ便宜供与依頼ノ件」を出し前線での慰安所設置報告された。 陸軍視察依頼した精神科医早尾乕雄論文である『戦場心理研究によれば1938年の上海では強姦輪姦頻発し南京では「皇軍強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している。こうした強姦多発により、慰安所設置急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長日記』『上村利通上海派遣軍参謀副長日記』『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる。また小川関治郎陣中日記1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述見られる慰安所設置は主に強姦対策のためになされたが、設置して強姦事件後を絶たないという軍関係者報告残されている。その一方で、後にシンガポール初代首相となったリー・クアンユーは、当時日本軍振る舞い批判しつつも、シンガポール占領時には南京起きたような強姦事件は殆ど発生せず、その理由慰安所存在説明がつくと思うと当時振り返っている。リーは、このような問題について日本軍現実的な処理の仕方をすると思った述べている:40

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日中戦争(支那事変)

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大西瀧治郎」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説

1937年7月に日中戦争が勃発すると、翌8月第一連合航空隊司令官戸塚道太郎大佐上海渡洋爆撃指揮する前例のない渡洋爆撃実施前から成功危ぶむ声が多く被害続出し太平洋諸島配備すべき中攻隊を消耗していった。音を上げた軍令部航空本部教育部長の大西台北基地派遣した済州島基地大西は「台湾司令部中攻戦闘機狩りやらせようというのが間違っている。本末転倒作戦だ」と話している。軍令部強襲緩和申し入れ対し戸塚強気で「たとえ全兵力使い尽くすともあえて攻撃の手ゆるめず」とはねつけた1937年8月21日大西九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃指揮官機同乗するが、中国軍戦闘機迎撃され陸攻4機が撃墜された。大西搭乗機襲われやすい編隊最後尾占めていたが、後に大西は「作戦方に気をとられて、なんにも感じないんだ」と話した。それを聞いた源田実少佐は「胆、かめの如し、という言葉があるが、このひとのは底抜けだ」と評している。 1938年大西は、学者などを利用しながら言葉巧み接触してきた自称「町の発明家」こと本多維富に、「からガソリン作ることができる」と吹き込まれ信じ切ってしまい、海軍次官昇進していた山本航空本部長豊田貞次郎中将らに働きかけ実験が行われることとなった。実は本多大西に話を持ち込む前に海軍軍需局にも話を持ち込んでおり、軍需局課長燃料局部柳原博光少将はそれが詐欺行為ということ見抜いて軍需局では取り上げるべきではないと結論づけていたが、大西航空本部主導実験強行されることになった戦争長期化するなかで、海軍燃料不足深刻になっており、山本大西冷静な判断力欠いていたとの指摘もある。軍需局実験中止勧告したが、海軍次官山本実験了承していたことから、軍需局折れて1939年1月大西を長とする30名の調査団立ち合い元に航空本部地下室実験開始された。三日三晩渡って本多恭しく振舞っていたが、立会人疲労した隙を狙って、予め用意していたガソリン入った小瓶取り出して実験成功したと言い張った。しかし、軍需局から派遣されていた調査団員に詐欺行為看破されて、あえなく本多警察引き渡された。大西詐欺師騙されたことを恥じて主体トシ揮発油製造スルトスル発明実験ニ関スル顛末報告書」という58頁にも及ぶ詳細な報告書作成している。 1939年10月19日第二連合航空隊司令11月4日大西二連空は大挙昼間強襲すべしと命令し自らも指揮官機同乗ようとした。しかし幕僚らは死なれては士気にかかわる反対し、代わりに13司令奥田喜久司大佐が行くことで説得した。この出撃奥田戦死し遺書には戦死覚悟大西への感謝言葉があったが、大西部下らに「いったん出撃臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳し態度をとった。しかし奥田弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちる場面もあった。 1939年12月5日大西陸軍第三飛行集団訪問してこの際し得れば陸海軍共同して蘭州蒋介石ルート拠点)を攻撃したい」と申し入れた要旨は、従来海軍夜間爆撃を主としたが、その効果比較小さいので昼間威力をもって戦闘機活動余地をなからしめるよう攻撃加え陸海軍共同作戦提案であった。これにより12月8日陸海軍による「百号作戦」が決定した12月26日から28日3日間で多大な戦果をあげた。 1940年5月12日重慶作戦のため、大西第一連合航空隊司令官山口多聞少将協力し一連空と二連空を統合し連合空襲部隊創設した指揮官山口務め参謀長大西務めた重慶爆撃に関して大西が「日本戦争をしている。イギリス負けている。アメリカ戦争文句あるまい絨毯爆撃で結構」と言い山口中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重にと言って二人喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた7月10日山口長慶爆撃強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機つけられる」と反対して対立するが、山口折れて後に大西は「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した。 日中戦争における零式艦上戦闘機初陣パイロットから防弾弱さについて「防弾タンクしてほしい」と不満が出たが、技術士官零戦特性である空戦性能航続距離失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し効果発揮するべきと反対した。大西はそれに対しただ今議論技術士官言う通りと言って収めてパイロットたち黙った

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日中戦争 (1937年-1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:37 UTC 版)

外白渡橋」の記事における「日中戦争 (1937年-1945年)」の解説

第二次上海事変外白渡橋重要な役割果たした1937年8月12日に、何千人という避難民が“右往左往する群衆となって日本軍から逃れよう外白渡橋通って租界になだれ込んだ1937年8月終わりになると、日本軍外国人による外白渡橋通行制限した。「外国人外白渡橋を渡らせないことに固執する日本海軍当局への非難地元渦巻いた」。1937年8月以降外白渡橋共同租界と、日本支配する虹口・閘北との事実上境界となったマーク・ゲイン回想によると「呉淞江2つ世界境界線となった北側恐怖、死、そして日本軍銃剣世界だった。南側はまだ法が支配し爆弾爆発ありうる程度には普通の生活残っていた。… 通行許されるのは外白渡橋だけになり、二つ敵対する世界が細い挟んで互いに睨み合っていた」。西端上海義勇隊が守っていた。ハロルド・ラータンベリーの回想によると、「日本スコットランド哨兵外白渡橋の上向き合っていた。中国人は皆、日本兵向かって帽子を脱がなくてはならなかった。なので私は我がスコットランド兵に向かって喜んで帽子脱いだ」。ケンプ・トウリによると 悪臭漂う呉淞江またいだ外白渡橋の上日本哨兵が立ち、虹口を他の共同租界から隔てていた。外国人は顔を叩かれないよう、彼らの前を通り過ぎる時は礼儀正しく腰からお辞儀をしなければならなかった。中国人苦力が、急峻な入口で重い荷車押し上げながら、呻き掛け声をかけていた。日本兵銃剣を、時おり荷車の俵に突き刺したり、苦力の体をちくりと小突いたりし、誰が主人なのかは誰の目にも明らかだった虹口共同租界一部だったが、租界タクシー人力車許可されず、特別に認可されぼろぼろ乗り物借りるか、お辞儀しながら歩いて渡って日本の“領地”で乗り物乗っていかなければならなかった。 外白渡橋日本哨兵の前を人力車で通ることはできなかった。両端にいる日本兵たちは、中国人がきちんと敬意を示さなかった場合、必ず立ち止まらせ、辱め、罰を与えた外国人日本哨兵お辞儀強いられ、腰まで裸にさせられ男女もいた。ユダヤ人避難民だったレナ・クラスノの回想によると「外白渡橋を渡る全ての人間帽子脱ぎお辞儀することを強制された。… 日本哨兵の前では市電電車一時停止し、乗客全員お辞儀すると、銃剣をつけた兵士空いたの手振って応えた」。日本人にとって哨兵日本軍の名誉と力を具現化したものであり、きちんと敬意を払わなかった者には災難降りかかった」。クラーク・リーによると哨兵たちは「自分たちを天皇裕仁代理みなしており、多く外国人たち帝国代理の前で“不敬にも”喫煙したとして平手打ちされたり殴られたりした」。1937年8月合衆国アジア艦隊司令長官であるハリー・E・ヤーネル提督は「外白渡橋日本官軍哨兵に、故意にひどく侮辱された」。1937年12月27日日本当局は、通行証なしに外白渡橋を渡ることを外国人許可する発表した1938年2月日本中支那方面軍駐屯軍司令官は、外国人虹口戻って居住業務再開するよう促す一連の規則緩和条項発表した。「呉淞江北側戻ってくる外国人は特に、外白渡橋交差点交通整理にあたる哨兵礼儀正しくお辞儀をし『お早うございます』と挨拶して敬意を払うよう求められる外国人は、その務めを果たす日本兵隊天皇代理であることを認識しなければならない」。1938年6月アメリカ人医師 J・Cトンプソン外白渡橋日本人哨兵平手打ちされた。1938年6月初旬中国人レジスタンスによる日本商社への連続テロ一環として外白渡橋日本軍哨兵詰所爆弾投げ入れられた。1938年6月20日共同租界手榴弾所持していて逮捕され19歳学生外白渡橋日本軍引き渡されは再び「溜息橋」として言及された。同月Miss Dorothea Lintihac は、行き交う車と絡まった鉄条網避けようと、外白渡橋で本来とは違う側を母と渡ったところ、それを理由日本哨兵から“乱暴に扱われた”という。後に彼女ら逮捕され拘留された。イギリス総領事ハーバート・フィリップスはこの件と、日本兵の“ますます喧嘩腰態度”に抗議した1941年12月8日早朝真珠湾攻撃起こり共同租界日本軍占領された。「彼らは上海全域支配下に置き、虹口共同租界境界として外白渡橋置かれていた小屋撤去した」。加えて呉淞江かかっている外白渡橋に柵が設けられ日本区画残り区域から封鎖した市内全域鉄条網張り巡らされ全ての日本哨兵配置された」。アメリカ人住人だったエドナ・リー・ブーカの回想によると「憲兵隊尋問官はじめとして日本人横柄さ強欲さは頂点達した外灘から北へ虹口に至る外白渡橋では、日本衛兵によって多くの人が平手打ちされたり叩かれたり、小突かれたりしていた」。

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日中戦争(支那事変)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:38 UTC 版)

山口多聞」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説

1936年昭和11年12月軽巡洋艦五十鈴艦長1937年昭和12年7月、日中戦争勃発12月戦艦伊勢艦長1938年昭和13年11月15日少将昇進し軍令部出仕12月第五艦隊参謀長1939年昭和14年11月第一艦隊司令部付。12月戦艦「長門」乗艦1940年昭和15年1月15日 第一連合航空隊司令官大西瀧治郎の案で大西司令とする第二連合航空隊とともに第一空襲部隊編成し山口がその指揮官務め101号作戦重慶爆撃)を開始する5月12日山口准士官上の搭乗員に「これから開始する101号作戦では兵力半減しても重慶連続猛攻撃加え蔣介石政権壊滅させる」と訓示する。爆撃護衛戦闘機がないまま強行したために大きな犠牲出してパイロットからは「人殺し多聞丸」と呼ばれた重慶爆撃に関して大西が「日本戦争をしている。イギリス負けている。アメリカ戦争文句あるまい絨毯爆撃で結構」と言い山口中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重にと言って二人喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた7月10日山口重慶爆撃強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機つけられる」と反対して対立する山口折れて、後に大西源田実対し山口の方が一枚上手だったよ」と回想した7月中旬横山保以下6機の十二試艦上戦闘機零戦)が漢口進出してきた。横山は、この新鋭機の重要なトラブル事前に解決する必要があるとして実験飛行実施した101号作戦遂行中の山口大西司令官はなるべく速やかに十二艦戦敵本拠地の敵戦闘機群を撃滅せよと命じた護衛のない中攻からすれば戦闘機群の撃滅熱望するのは当然だったが、まだ納得できない横山事情説明して猶予乞うた。しばらくして司令官たちは横山呼び出し、「貴様はいのちが惜しいのかッ」と挑発的な言葉ぶつけたと言う

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日中戦争(支那事変)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:27 UTC 版)

第11師団 (日本軍)」の記事における「日中戦争(支那事変)」の解説

1932年昭和7年1月第一次上海事変動員される。日中戦争(支那事変)では再び上海投入された。1938年昭和13年9月満州派遣され以後満州駐屯した。1939年昭和14年10月隷下歩兵第22連隊松山)が新設第24師団編入され、三単位制師団となった

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