日中戦争から国共内戦へとは? わかりやすく解説

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日中戦争から国共内戦へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/03 18:46 UTC 版)

趙子立」の記事における「日中戦争から国共内戦へ」の解説

18歳時に西北軍国民軍)に兵士として加入する1927年民国16年)冬、南京に赴き、中央陸軍軍官学校第6期工兵科入学した1929年民国18年)に卒業し国民革命軍入隊数年後士官にまで上りつめている。1935年民国24年)、陸軍大学学び翌年陸軍工兵少校1937年民国26年5月工兵中校となった日中戦争抗日戦争勃発後、第52軍で中校連絡参謀となり、まもなく上校参謀昇進したその後陸軍大学復学して、1938年民国27年7月同大正則班を第14期生として卒業している。同年8月、第1兵団総部少将高級参謀作戦科長に任ぜられ、武漢防衛戦や贛北戦役参戦した1939年民国28年)、第9戦区司令長官部(長官薛岳参謀少将処長作戦科長となり、さらに参謀処処長、参謀長へと昇進している。1944年民国33年)夏、薛岳第4次長沙会戦日本軍敗北長沙失陥した。この際に、敗戦責任問われ趙子立収監重慶移送されるが、最終的に無罪となる。 釈放後の趙子立陸軍大学戻り将官第1期訓練受けた1945年民国34年1月将官班を卒業し翌月には第5戦区司令長官参謀処処長に任ぜられ、まもなく参謀長昇進している。日中戦争終結後同年12月鄭州綏靖公署主任劉峙中将参謀長任命された。しかし翌1946年民国35年9月鄭州綏靖公署所属の整編第3師が中国人民解放軍定陶殲滅された責め負い、劉と趙は罷免されてしまう。

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日中戦争から国共内戦へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 04:37 UTC 版)

陳立夫」の記事における「日中戦争から国共内戦へ」の解説

その一方で陳立夫は、日本侵略対抗するためには、「安内攘外」よりも国共合作優先すべきとの立場とっていた。1935年から、蔣介石密命により、陳立夫共産党との接触開始し、さらにソ連訪問している。この接触は、後の第2次国共合作成立大きく貢献した日中戦争抗日戦争勃発後、陳立夫軍事委員第6部部長に任ぜられ、民衆動員訓練につき責任者となった1938年民国27年1月からは、国民政府教育部長も兼任し抗日教育推進した。さらに、1944年民国33年)には「国民学校法」を公布するなど、教育制度整備行っている。 しかし日本敗北間際から、CC系陳誠率い三民主義青年団などとの党内抗争激化していき、陳果夫陳立夫兄弟が、かつてほどの権勢を振るう余地なくなっていった。1947年民国36年2月中央組織党団指導委員会主任委員に任ぜられたが、蔣経国との対立解消できずに終わる。その後経済改革委員会主任委員立法院副院長行政院政務委員などをつとめたが、国共内戦の中では精彩欠いた

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