日中戦争から国共内戦へ
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18歳の時に西北軍(国民軍)に兵士として加入する。1927年(民国16年)冬、南京に赴き、中央陸軍軍官学校第6期工兵科に入学した。1929年(民国18年)に卒業し、国民革命軍に入隊、数年後に士官にまで上りつめている。1935年(民国24年)、陸軍大学で学び、翌年に陸軍工兵少校、1937年(民国26年)5月に工兵中校となった。 日中戦争(抗日戦争)勃発後、第52軍で中校連絡参謀となり、まもなく上校参謀に昇進した。その後、陸軍大学に復学して、1938年(民国27年)7月に同大学正則班を第14期生として卒業している。同年8月、第1兵団総部少将高級参謀兼作戦科長に任ぜられ、武漢防衛戦や贛北戦役に参戦した。1939年(民国28年)、第9戦区司令長官部(長官:薛岳)参謀処少将副処長兼作戦科長となり、さらに参謀処処長、参謀長へと昇進している。1944年(民国33年)夏、薛岳が第4次長沙会戦で日本軍に敗北、長沙を失陥した。この際に、敗戦の責任を問われて趙子立は収監、重慶へ移送されるが、最終的には無罪となる。 釈放後の趙子立は陸軍大学に戻り、将官班第1期で訓練を受けた。1945年(民国34年)1月、将官班を卒業し、翌月には第5戦区司令長官部参謀処処長に任ぜられ、まもなく参謀長に昇進している。日中戦争終結後の同年12月、鄭州綏靖公署(主任:劉峙)中将参謀長に任命された。しかし翌1946年(民国35年)9月、鄭州綏靖公署所属の整編第3師が中国人民解放軍に定陶で殲滅された責めを負い、劉と趙は罷免されてしまう。
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日中戦争から国共内戦へ
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その一方で陳立夫は、日本の侵略に対抗するためには、「安内攘外」よりも国共合作を優先すべきとの立場をとっていた。1935年から、蔣介石の密命により、陳立夫は共産党との接触を開始し、さらにソ連も訪問している。この接触は、後の第2次国共合作の成立に大きく貢献した。 日中戦争(抗日戦争)勃発後、陳立夫は軍事委員会第6部部長に任ぜられ、民衆の動員と訓練につき責任者となった。1938年(民国27年)1月からは、国民政府教育部長も兼任し、抗日教育を推進した。さらに、1944年(民国33年)には「国民学校法」を公布するなど、教育制度の整備も行っている。 しかし日本敗北間際から、CC系は陳誠率いる三民主義青年団などとの党内抗争が激化していき、陳果夫・陳立夫兄弟が、かつてほどの権勢を振るう余地はなくなっていった。1947年(民国36年)2月、中央組織党団指導委員会主任委員に任ぜられたが、蔣経国との対立は解消できずに終わる。その後、経済改革委員会主任委員、立法院副院長、行政院政務委員などをつとめたが、国共内戦の中では精彩を欠いた。
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