日中戦争での奮戦
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1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、孫は第2集団軍副総司令兼第1軍団司令として参戦し、さらに日本軍を恐れて逃亡した総司令劉峙に代わって総司令に昇進した。民国27年(1938年)の台児荘戦役では、第5戦区の李宗仁指揮下に入り、板垣征四郎率いる第5師団や磯谷廉介率いる第10師団などを相手に戦う。孫は勇戦して大きな戦果をあげ、第60軍軍長の盧漢とともに、蒋介石の賞賛を受けた。その後も、日本軍を相手に善戦し、1945年(民国34年)7月には第11戦区司令長官に昇進した。日中戦争終結後に、北平・天津地区で日本軍の降伏受諾事務を担当している。 戦後の国民政府中央は腐敗が甚だしく、また、孫連仲のような非中央系軍人とその部隊には差別待遇を加えたため、孫は怒りと不満を覚えた。それでも、国共内戦では共産党軍を相手に戦ったが、日中戦争時の損害の甚大さなどもあって、苦境が続く。1947年(民国36年)、孫は自ら辞任し、翌年、首都衛戍司令に転任した。1949年(民国38年)3月、台湾へ逃れた。以後、総統府戦略顧問、総統府国策顧問、国民党中央評議委員、国民党中央紀律委員会委員などを歴任している。 1990年(民国79年)8月14日、孫連仲は台北市で病没した。享年98(満97歳)。
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日中戦争での奮戦
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同年、第二次上海事変(淞滬会戦)が勃発すると、薛岳は第19集団軍総司令に任ぜられ、左翼軍に配置される。10月8日、左翼軍中央作戦区総指揮に任ぜられ、10月28日から竹園村で日本軍と激戦を展開し、双方互角であった。しかし11月5日、日本軍の増援部隊が金山衛に上陸したため、第19集団軍は呉福線まで撤退している。13日、左翼軍総司令に昇進して抗戦を続けたが、その後も日本軍の攻勢に苦戦し、後退を余儀なくされた。 南京陥落後、薛岳は第3戦区前敵総指揮に任ぜられる。薛岳は正規軍は防御し、ゲリラ部隊で攻撃するという方針を採用して、日本軍に対処した。1938年(民国27年)5月、第1戦区第1兵団総司令に任ぜられ、同月末には第1戦区前敵総指揮に昇進している。このとき、土肥原賢二率いる第14師団が河南省内黄県などを占領していたが、薛は効果的に反撃してこれらの占領地の多くを奪回している。 武漢会戦では、薛岳は第9戦区第1兵団総司令に任ぜられて、日本軍と戦闘を繰り広げた。最終的に武漢会戦は中国側の敗北に終わるが、薛自身は第106師団など日本側各師団に大打撃を与え、良好な戦績をあげている。
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