日中戦争での活躍
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日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、王耀武は部隊を率いて最前線で日本軍と戦うことになる。南京防衛戦、武漢会戦、第1次長沙会戦などに参戦した。1940年(民国29年)、第74軍軍長に昇進し上高会戦に参戦、ここで軍功をあげて国民政府から星形栄誉旗を授与されている。その後も第2次・第3次長沙会戦、浙贛会戦、鄂西会戦、常徳会戦などに参戦した。 1943年(民国32年)8月、王耀武は第5集団軍副総司令、翌1944年(民国33年)2月には第24集団軍総司令と昇進し、同年5月には長衡会戦に参戦している。1945年(民国34年)2月、陸軍中将に任ぜられ、翌月には陸軍総司令部第4方面軍司令官に抜擢、4月に湖南省西部(湘西)で日本軍を迎撃した。6月、中国国民党第6期中央執行委員に当選し、日中戦争終結後、長沙・衡陽で日本軍の降伏受諾を担当している。
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日中戦争での活躍
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1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、衛立煌は第14集団軍総司令に任ぜられ、北平郊外などで日本軍と交戦を開始した。10月、第2戦区前敵総指揮に任ぜられ、板垣征四郎率いる第5師団を迎撃する。衛は八路軍ともよく連携し、第5師団に打撃を与えた。翌年1月、第2戦区副司令長官兼前敵総指揮、1939年(民国28年)1月には第1戦区司令長官と昇進した。9月、河南省政府主席兼全省保安司令に任ぜられている。 日本軍との戦いでは、衛立煌は朱徳ら中国共産党の幹部とも協力関係を構築し、蔣介石が反共方針を加速させても衛は容易に従おうとはしなかった。そのため1942年(民国31年)1月、猜疑を募らせた蔣により衛は第1戦区から異動を命じられ、軍事委員会西安弁公庁主任に左遷されている。 しかし、蔣介石も衛立煌の能力はやはり無視し得ず、1943年(民国32年)10月、陳誠と交代で中国遠征軍司令長官に衛を任命した。衛は雲南省保山県に駐留し、雲南省政府主席竜雲や中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官ジョセフ・スティルウェルと協力関係を確立している。翌1944年(民国33年)5月より衛は雲南の日本軍に攻撃を開始する。1945年(民国34年)1月までに、衛は日本軍をほぼ掃討し、援蔣ルートも回復させた。3月、中国陸軍副総司令に昇進している。
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