日中戦争での勇戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 09:49 UTC 版)
日中戦争が勃発すると、関麟徴は第52軍軍長に任ぜられ、平漢路北段で日本軍を迎撃することになる。9月の保定戦役等で日本軍相手に激戦を繰り広げた。そして1938年(民国27年)3月、台児荘戦役に参戦して日本軍に大打撃を与え、この軍功により関は第32軍団軍団長に昇進している。なお、関の指揮を目の当たりにした日本軍の第5師団師団長板垣征四郎は、「関麟徴率いる1個軍は、並の中国軍10個軍に相当する」と驚嘆したという。 その後、関麟徴は第15集団軍副総司令(代理総司令)に昇進し、1939年(民国20年)9月から10月の第1次長沙会戦でも日本軍撃退に大いに貢献した。この際の軍功により、関は第15集団軍総司令に正式に就任した。この時、関はまだ34歳の若さであり、黄埔軍官学校卒業生としては初の集団軍総司令である。1940年(民国29年)からは雲南省に移駐し、また軍の番号も第9集団軍と改められ、そのまま関が総司令をつとめた。1944年(民国33年)、第1方面軍副司令官に昇進し、国民党においても第6期中央執行委員に選出されている。 以上のように、赫々たる武勲で昇進した関麟徴だったが、その一方で国民革命軍内での権力闘争にも巻き込まれることになる。特に何応欽派と陳誠派との争いでは、関は何派につき、陳から度々人事で掣肘を受けることになった。日中戦争後に関は東北九省保安司令長官に任ぜられ東北に向かう予定であったのが、陳の横槍で取り消しとなり、雲南警備司令に留め置かれてしまったことが、その一例である。さらに1945年(民国34年)12月には、昆明で「一二・一惨案」が発生し、関はその責任をとらされて停職処分を受けてしまった。
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