日中戦争での不振
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:13 UTC 版)
1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、劉峙は第1戦区第2集団軍総司令として保定に駐留し、平漢路沿線の守備を担当した。ところが9月中旬から始まった日本軍の攻撃に抗し得ず、24日には保定を失陥してしまう。その後も敗退を続けた劉は、指揮権を第20集団軍総司令商震や第2戦区副司令長官黄紹竑に委ね、開封に逃げ帰っている(後に孫連仲が後任の第2集団軍総司令となる)。これ以後、劉が対日戦の最前線に立つことは無かった。 1938年(民国27年)3月、劉峙は、第1戦区副司令長官兼陸軍第1区新兵督練公署主任となる。後に宜昌へ移り、鄂湘川黔辺区綏靖公署主任兼第5予備軍司令官に任ぜられた。1939年(民国28年)春、重慶衛戍司令兼防空司令となっている。しかし1941年(民国30年)6月の重慶爆撃に際し、防空壕の不備により避難民から大量の窒息死者を出す事故が発生したため、責任を取って防空司令職を辞した。以後、1945年(民国34年)2月まで第5戦区司令長官を務めている。
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