対日戦
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「エンカウンター (駆逐艦)」の記事における「対日戦」の解説
極東で戦争の危機が高まってくると、「エンカウンター」は巡洋戦艦「レパルス」などと共に1941年10月に当時イギリスの植民地支配下にあったシンガポールへ向かい、12月初めに到着した。 戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が1941年12月10日のマレー沖海戦で日本軍に撃沈された後は、最初はインド洋での船団護衛に従事しそれからアメリカ-イギリス-オランダ-オーストラリア連合部隊(ABDACOM)に加わった。
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対日戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「対日戦」の解説
マレー作戦 北部マレー半島で日本軍は数的にはわずかに優勢であるにすぎなかったが、制空権、戦車戦、歩兵戦術、戦闘経験において優越していた。日本軍は瞬く間にマレー半島のイギリス軍を屈服させ南下を続けた。さらにイギリス領シンガポール沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが日本軍の爆撃機によって沈められた。チャーチルは「あの艦が」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」「私は、ベッドの中で、身もだえした。もう、アジアは、日本のものになった」と後に回顧録の中に記している。 香港陥落 イギリスが阿片戦争で獲得した永久領土である香港島を含む香港は、1941年12月8日の日本軍の侵攻開始よりわずか18日間の戦いで日本軍の手に落ちた。 シンガポール陥落 1942年1月終わりからシンガポールは日本軍に包囲されたが、チャーチルは同市のイギリス軍に死守命令を下し、降伏を許さなかった。また「アジア人に対するイギリスの威信が弱まる恐れがある」として「包囲」という言葉の使用を禁じた。だが日本軍による猛攻を受けて、現地司令官アーサー・パーシバル中将は独断で包囲軍司令官山下奉文中将に降伏を申し出、シンガポールは陥落、イギリス軍、オーストラリア軍などからなる連合国軍12万人から13万人が捕虜となった。 シンガポールはイギリスがほぼゼロから作り上げ、世界第4位の港にまで育て上げた大英帝国繁栄の象徴であっただけに、それが陥落した衝撃は大きかった。 「シンガポールは難攻不落」と豪語していたチャーチルは、先の2隻の戦艦の撃沈に続き、マレー半島全域の喪失とシンガポール陥落とそれに伴う多くの戦死者、捕虜を出したことで国会において野党の労働党からの厳しい追及を受け、ショックのあまり寝込んでしまったという。 またチャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。一時は心労のあまり首相辞任を考えるほどであった。 ビルマ、インド 日本軍は更にイギリス領インド帝国に隣接する植民地であるビルマにも進軍を開始した。こうした中でインドの全インド会議派委員会は独立のチャンスが来たと見て1942年8月より反英闘争「インド退去運動(Quit India Movement)」を開始し、イギリス当局は徹底的に弾圧した。ガンジーやネルー、全インド会議派委員会幹部が次々と逮捕・投獄されていった。 この直後、またしてもアメリカから「インドに大西洋憲章を適用せよ」との横やりが入ったが、チャーチルは拒絶した。この後もアメリカはしつこくイギリスのインド支配破壊を画策し続け、我慢の限界に達したインド総督リンリスゴー侯爵は、1943年に本国インド担当省に対して「善意の干渉家がアメリカから流出してくるのを防いでほしい」と要請している。 インド洋、セイロン 日本海軍は、1942年4月に行われたセイロン沖海戦などでイギリス海軍を駆逐し、これまでは「イギリスの海」であったインド洋の制海権を手にした。この為にイギリスやインドとオーストラリア間の海上貿易や軍用品の供給は止まることを余儀なくされた。さらにシンガポールやペナンの日本海軍基地にドイツ海軍やイタリア海軍の潜水艦が常駐し、インド洋で通商破壊戦を行う有様であった。さらに日本海軍はアフリカ大陸沿岸のマダガスカルに上陸し、同地でイギリス軍との間に陸戦を展開した。 オーストラリア 南下した日本軍はオーストラリアへの攻撃を開始し、1942年初頭から1943年暮れにかけてオーストラリア本土への空襲を実施した。 これらのアジア太平洋の戦局の方は、1943年中盤以降はアメリカのダグラス・マッカーサー大将が率いる「飛び石作戦」の導入により、オーストラリア軍やニュージーランド軍の協力を受けて日本への反撃の主戦地を太平洋諸島に移しており、イギリスの出る幕はなくなっていった。この状況についてイギリスの外交文書も「マッカーサー将軍の一人遊び」、「マッカーサー将軍の独裁」という表現をよく使用するようになる。
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