死守命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:59 UTC 版)
一方、第18師団はフーコンから撤退し、中国新一軍はモガウンを占領し、ミイトキーナへ進撃を始めた。 ビルマ戦線では日本軍のインパール作戦が失敗し、ビルマ方面軍としては作戦の重点を雲南方面に移して、インド・中国の地上連絡線の遮断を続けることになった。 詳細は「断作戦」を参照 第33軍は雲南方面で中国軍と決戦を交えることになったが、問題は北ビルマのミイトキーナが早期に陥落すれば背後を脅かされることであった。 第33軍司令部は雲南遠征軍との決戦に先立ち、ミイトキーナ守備隊に対して電報で持久可能期間の見通しを質問したところ、「今後二ヶ月の持久は可能」と「長期にわたる持久は困難」という矛盾する報告が届いた。第33軍は、前電は水上少将の報告で、後電は丸山大佐の報告だろうと推測した。 第33軍はミイトキーナ守備隊に対し「水上少将はミイトキーナを死守すべし」と命じた。第33軍の参謀だった野口省己によると、この文章を起案したのは辻政信参謀で、同僚の安倍光男少佐が「水上少将は」から「水上部隊は」に校正しようとしたが、辻参謀に制止させられたという。後日この件については辻参謀から「以前ノモンハン事件で戦場から脱出してくる兵の処置に困ったことがあったので、水上少将は死守すべしと命じておけば謹厳な少将のことだから軍の真意を酌んで目的を達成するだろうし、万一脱出する将兵が出てもそれらが命令違反にならないようにこの文面にした」と説明されたという。 第56師団長の松山祐三中将はこの命令を伝え聞いて激怒し、川道参謀長を通じて抗議したが、既に守備隊は56師団の指揮を離れていたため突っぱねられた。 米中連合軍も厳しい気候環境に苦しめられていた。7月12日に空軍の支援の下に総攻撃を開始したが、日本軍の防戦と友軍の誤爆で大混乱の末に失敗した。とはいえ少しずつ日本軍を圧迫していった。
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