インパール作戦
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インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に大日本帝国陸軍により開始[8]、7月初旬まで継続された、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦はビルマ防衛のために敵の拠点を攻略するといった“攻撃防御”や援蔣ルートの遮断という戦略目的に加えて[9]、イギリスの植民地インドに進攻することによって、独立運動を誘発しイギリスの植民地支配体制に打撃を与えるという政治的目的もあった[10]。
- 1 インパール作戦とは
- 2 インパール作戦の概要
インパール作戦
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1944年、第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパールと同時にコヒマにも進撃し、実際に佐藤幸徳陸軍中将率いる日本軍第31師団はコヒマを制圧した。しかし連合軍の抵抗は頑強であり、その上連合軍の強力な反撃でインパール方面が瓦解し無残な状態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退している。このインパール作戦が東南アジア戦線の転換点となり、アウンサン率いるビルマ軍の反乱を呼ぶなどこの方面での日本軍の優位は失われた。コヒマでの白兵戦では双方が大きな被害を出し、日本軍はインドの平野部に入るための重要な高地を制圧できなかった。テニスコートの戦い(英語版)で知られるコヒマの激戦地「ギャリソン・ヒル」の斜面には現在、これらの戦いで命を落としたイギリス連邦出身者など連合軍兵士の大きな墓地がある。
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インパール作戦
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「スバス・チャンドラ・ボース」の記事における「インパール作戦」の解説
その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指して、1944年1月7日にビルマのラングーンに本拠地を移動させた。ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会った。河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった。 河辺中将は日本軍によるインド侵攻のための「インパール作戦」の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、この頃アジア太平洋戦線の各地でイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して劣勢となって来ていた日本軍にとっては、不要不急な作戦でしかない作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている。ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた。 わずか1国でイギリス軍とそれを支援するアメリカ軍と戦わざるを得ない日本軍の物量不足もあり、6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ」と考えていた。インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合国軍と戦った。
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インパール作戦
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「第33師団 (日本軍)」の記事における「インパール作戦」の解説
1944年(昭和19年)3月には、師団は第15師団・第31師団とともにインパール作戦に参加した。
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インパール作戦
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「インパール作戦」も参照 1944年(昭和19年)のインパール作戦では、第31師団(通称号:烈)の師団長として参加する。このとき、上司の第15軍司令官には、前述のように参謀本部時代に因縁のある牟田口廉也中将が就いていた。 インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さが指摘されており、佐藤も作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を主張していた。佐藤は、第15軍司令部に作戦中の補給量の確約を求めた。佐藤は、部下の師団の将校を集めて、「諸君の大半はアラカン山中で餓死するだろう」と訓示していた。 作戦が始まったが、佐藤の予想通り、第31師団の前線には十分な糧秣・弾薬が補給されなかった。第15軍司令部からは「これから物資を送るから進撃せよ」などの電報が来るばかりで、佐藤はその対応に激怒していた。それでもなお3月15日にチンドウィン川を渡り、4月6日に左突進隊とされた隷下の第58連隊が要衝コヒマを占領したものの、佐藤は部下の損害を嫌って攻撃指示を出すことは控え、コヒマ後方15kmの地点から自身は前進せずにいた。この時点で補給問題に強い関心を持っていたのは渡河時に兵が携行していた20日分の食料が尽きつつあったからである。師団が引き連れていた馬匹の内、象はチンドウィン川渡河後2日に帰り、牛は餌にするべき草が無く、竹の葉や芭蕉を食わせたために、パトカイ山系に踏み込む前に殆どが倒れた。なお、第31師団の前面に展開していた英軍部隊は第33軍団(コヒマ方面、軍団長:M.ストップフォード中将)であり、その隷下にはワーテルロー以来の戦歴を誇る英第2師団があったが、その後第7インド歩兵師団も加わり攻撃は激しさを増していった。 佐藤は補給要請に全精力を注いでいたが、ついに物資不足を危惧し撤退を進言するに至った。補給を軽視した司令部は佐藤に作戦継続を強要したが、師団はすでに武器弾薬や食料の不足から著しく苦戦しており、これ以上の進撃は不可能な状況だった。そこで直接の上官ではなく第5飛行師団の田副登師団長宛にまで直接補給を要請したが、それでも佐藤はこのままでは全滅は不可避と判断していた。 そのような中、5月31日、コヒマ西方で58連隊が守備していた5120高地が英印第7師団の猛攻を受け、陣地にて紛戦状態となった。この時玉砕を決意した守備隊長白石大佐の告別電により佐藤はコヒマ放棄と主力の撤退を独自に決断し、病兵1500名の後送を指示、部下の宮崎繁三郎少将に遅滞戦闘を命じた。そして、 「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に詫びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文は漢字・カタカナ) と返電し、6月1日に兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却させた。この際にビルマ方面軍宛に、 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇したりとて、軍規を楯にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」 「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」 「久野村参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり」 「司令部の最高首脳者の心理状態については、すみやかに医学的断定をくだすべき時機なりと思考す」 などの激しい司令部批判の電報を送った。6月3日に師団は一斉にコヒマから撤退したが、退却先のウクルルにも弾薬・食糧が全く無かったため、佐藤は独断でさらにその後方のフミネまで後退した。 これは陸軍刑法第42条(抗命罪)に該当し、師団長と言う陸軍の要職にある者が上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ、作戦中止後の7月9日に師団長を更迭された。第15軍隷下の第33師団長・柳田元三、第15師団長・山内正文も更迭されており、作戦に参加する3師団すべての司令官が更迭される異常な事態であった。もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったという。しかしこの抗命撤退により多くの兵士たちの生命が救われることになった。 7月10日、牟田口司令官は「佐藤が食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった」との補給を軽視した訓示を行ったが、すでに栄養失調の将校たちは長時間に及ぶ訓示に耐えきれず、次々に倒れていったという。
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インパール作戦
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上海特務機関長を経て第13師団歩兵第26旅団長。第13師団は当時計画されていた重慶侵攻作戦の基幹部隊と目されていた。南方方面の戦況悪化により旅団付属の歩兵第58連隊と共に宮崎はビルマへ送られ、自身は第31師団(佐藤幸徳師団長)歩兵団長に補された。 第15軍司令官牟田口廉也中将の主導したインパール作戦は補給を無視した無謀な作戦であり多くの犠牲者を出した。宮崎は指揮下の三個連隊から第58連隊のみを指揮下に置き、これに一個山砲大隊を加えた3000人の兵を率いてインパール北方のコヒマ攻略を命ぜれた。 ホマリンを出発した宮崎支隊は、ミンタミ山系を超えてサン・ジャックにおいて英印軍第50落下傘旅団を攻撃、これを敗走させその装備を奪った(サン・ジャックの戦い(英語版))。ここで半日の休息を取った後にさらにコヒマ・インパール間のトヘマでインパール街道に出て一気に北上した。英軍はコヒマにおいて陣地構築中だったが、宮崎による急進は予想を上回り、不意を付かれた英印軍はコヒマ中心部を撤退し三叉路西南の英弁務官公邸のある丘陵地に逃げ込んだ(コヒマの戦い(英語版))。第58連隊によるコヒマ占領によって、インパールに対する補給線であったディマプール・インパール間のインパール街道は遮断された。宮崎はさらに弁務官公邸に英軍が設けた陣地攻略を目したが、英軍の抵抗によりこれは果たせなかった(テニスコートの戦い(英語版))。その後、英軍が二個師団をもっておこなったコヒマ奪還作戦に対して、宮崎支隊は頑強に抵抗したが、第31師団の他部隊から支援を受けられず大きな損害を被り、兵数は当初の三分の一にまで減少した。佐藤師団長の抗命による第31師団退却後、宮崎の元には軍司令部から「インパール占領までインパール街道で持久せよ」との状況を無視した命令が送られた。宮崎は既に全ての砲を失い600人にまで減少した部隊を二分し、「一方が英軍に抵抗する間にもう一方がその後方のインパール街道に陣地を構築することを繰り返し、徐々に街道を南下する」との計画をたてた。「街道上で一ヶ月持久できれば世界記録となる」と兵を励ましたが、17日目にカロンにおいてついに英軍戦車により突破され、インパールへの補給線は奪い返された。 街道東方の山岳地帯において英軍に包囲された宮崎支隊に対して、ついに軍司令部から撤退命令が下された。負傷兵を戦場に残さないという信念の下、宮崎も負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えた。他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体は埋葬し負傷兵を収容させた。 「量より質、質より和」をモットーとした支隊において、宮崎は常に「攻撃に際しては先頭を、退却では最後尾を」を貫き、部隊は大きな損害を蒙りながら最後まで統制を保った。
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