【硫黄島の戦い】(いおうとうのたたかい)
戦闘概要 | ||
戦争 | 太平洋戦争(大東亜戦争) | |
年月日 | 1945年(昭和20年)2月19日~3月26日 | |
戦場 | 硫黄島 | |
結果 | アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | 枢軸国 | 大日本帝国 |
連合国 | アメリカ合衆国 | |
戦力 | 日本軍 | 22,786人 |
アメリカ軍 | 110,000人 | |
損害 | 日本軍 | 戦死者20,129人(うち82人は軍属)、捕虜1,023人 |
アメリカ軍 | 戦死者6,821人、戦傷者21,865人 |
太平洋戦争(大東亜戦争)の末期において、小笠原諸島・硫黄島において日本軍とアメリカ軍の間で生じた戦闘。
背景
日本を徐々に追い詰めていたアメリカ軍は、マリアナ諸島を攻略し、そこから戦略爆撃機「B-29」を日本本土に飛ばし、戦略爆撃を行っていた。
しかし、航法ミスや損傷、故障などでマリアナ諸島にたどり着けず、さらに日本軍の爆撃機が硫黄島を経由して、マリアナ諸島の基地に駐機するB-29に損害を与えるということがあった。
アメリカ軍は、B-29の航法上のロス解消や日本軍の航空基地制圧などを目的に硫黄島の占領を決定した。
戦闘
アメリカ海兵隊は2月19日、硫黄島に上陸を開始。
アメリカ軍は当初、(それまでの島嶼攻略戦の経験から)すぐに攻略できると踏んでいたが、栗林忠道中将率いる日本軍の決死の抵抗により苦戦。
長大なトンネルで防御陣地を構築した日本軍は、数万発以上の地形が変わるほどの凄まじい上陸前の艦砲射撃に耐え、待ち伏せすると海兵隊の上陸部隊に猛攻を加え、多大な損害を与えた。
日本軍守備隊は「一人十殺」の覚悟で万歳突撃をせず、硫黄島の特徴的な地形を駆使した地下要塞をもって奇襲攻撃を繰り返し、大火力をアメリカ軍に加えた。
結果、アメリカ軍の犠牲者は上陸して数時間で数千人になり、第二次世界大戦で最大の上陸作戦といわれる「ノルマンディー上陸作戦」を上回る激戦となった。
それでも物量に勝るアメリカ軍は日本軍を徐々に追い詰め、苦戦を強いられながらも硫黄島最高峰の擂鉢山を占領した。
必死の抵抗を続ける日本軍は300名余りが最後の攻撃を仕掛けるが、玉砕。
栗林忠道中将もここで自決し、組織的戦闘はここで終結した。
後援・救護部隊を持たなかった日本軍は96%の損傷率となり、アメリカ軍も戦死者・戦傷者の合計が日本軍の兵員を上回る激戦となった。
硫黄島の戦い
硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:26 UTC 版)
「ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「硫黄島の戦い」の解説
1月下旬にウルシーで短期間のメンテナンスを行った後、ザ・サリヴァンズを含む第58.2任務集団は日本本土への空襲を行う。2月16日から17日にかけて本州の東京やその周辺の目標を空襲し、さらに18日から21日まで硫黄島の戦いを支援するため硫黄島の地上目標に激しい攻撃を加えた。さらなる東京への4日間の空襲は悪天候により断念された。海域を離れた任務集団は、2月28日午後に沖縄沖で給油を行った。同日、ザ・サリヴァンズは浮遊する機雷1個を発見し破壊した。3月1日の夜明けに艦載機を発進させ、沖縄の日本側拠点へ空襲を行う。任務集団は日本側の反撃を受けることなく速やかにウルシーへ後退した。 ザ・サリヴァンズは12日後、九州と本州南部を空襲する第58.2任務部隊を護衛するために出撃した。3月20日、ザ・サリヴァンズは空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)と並走しながら洋上給油を受けていたが、給油を終えて5分後の11時52分に神風特別攻撃隊による空襲の警報があり乗員達を慌てさせた。14時39分、再びエンタープライズと並走中に警報が起こった。今度はザ・サリヴァンズのFDレーダーにはっきりと捉えられた。ところが、直後に別の敵編隊による空襲が艦隊を揺るがした。ザ・サリヴァンズは増速して他の艦艇から距離を置くと、僚艦とともに対空砲火を始めた。一機の特攻機が弾幕を突破し、空母ハンコック(USS Hancock, CV-19)から給油中だった駆逐艦ハルゼー・パウエル(USS Halsey Powell, DD-686)の艦尾に突入した。損傷したハルゼー・パウエルは操舵不能となり、向きを変えるとハンコックの艦首に接近していった。幸いにも、ハンコックは急転舵で回避に成功した。 ザ・サリヴァンズはすぐにハルゼー・パウエルへ援助のために接近する。減速し11分後に完全に停止したザ・サリヴァンズは内火艇に軍医と薬剤師補を乗せて送り出したが、16時10分に零式艦上戦闘機が接近しつつあるのをレーダーで発見した。内火艇を速やかに揚収したザ・サリヴァンズは、直ちに増速して面舵をとると接近する零戦に40mmと20mmの機銃を発砲した。零戦はザ・サリヴァンズのマストの100フィート上空を通過していったため難を逃れた。5ノットでのろのろと移動するハルゼー・パウエルに付き添いながら、ザ・サリヴァンズはウルシーへ後退した。 ところが問題は続き、3月21日10時46分にザ・サリヴァンズは15マイル先から接近する敵機を捉えた。それは1機の銀河であり、ザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルの5インチ主砲によって撃墜された。12時50分には、ザ・サリヴァンズからの管制の下でヨークタウンから発進した戦闘空中哨戒(CAP)任務のF6F戦闘機が二式複座戦闘機もしくは一〇〇式司令部偵察機と思われる敵機を撃墜している。 3月25日にザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルはウルシーへ到着した。ハルゼー・パウエルは修理を行い、ザ・サリヴァンズはメンテナンスと訓練を実施した。
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硫黄島の戦い(1945年2月~3月)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:06 UTC 版)
「テリー (DD-513)」の記事における「硫黄島の戦い(1945年2月~3月)」の解説
2月16日朝、硫黄島南方約9マイルの地点で掃海部隊と合流した。10時過ぎ、浜辺への海路を掃海する掃海部隊を護るべく砲撃を開始した。約14時32分、日本軍の4インチ砲がテリーを夾叉した。テリーは25ノット(46 km/時)まで加速し、前進すると敵の弾幕は航跡へ飛んでいった。彼女の5インチ主砲は斉射し無礼者をすぐに静かにした。テリーの砲撃のおかげで掃海部隊は一人も犠牲者を出す事なく16時過ぎに任務を完了した。 夜間は硫黄島を掃討したが、翌日にまた戻ってきて対砲兵射撃を続行した。2月19日の上陸後、浜辺の部隊への支援砲撃を一日中行い、その日の夜に第54任務部隊に加わった。 3月1日朝2時45分、日本軍潜水艦を探索するキャップス(DD-550)(英語版)を支援していた時、数本の魚雷がテリーの艦首右舷へ向かってきた。テリーから約1000ヤード離れた距離から日本軍潜水艦が魚雷を発射したのである。見張り員は瞬時に魚雷の位置を特定して叫んだ、「魚雷接近!」。テリーは最大船速で走り出し、右舷へ大きく傾いた。魚雷は艦尾から50ヤード離れた場所を無事に通り過ぎて行った。7時20分、テリーは硫黄島北部の掃討に向かった。硫黄島北部沿岸の北ノ鼻を通過した時、日本軍の迫撃砲は発砲し、すぐにテリーの射程内に入った。テリーは主砲で応戦した。テリーの速い速力と巧みな操艦は日本軍の照準に対して無駄ではなかったが、遂には沈黙し、右舷上甲板に迫撃砲弾が直撃した。右舷機関は停止、操舵不能と通信不能に陥った。 テリーは左舷機関の出力を上げた。その間、ペンサコーラ (重巡洋艦)、ネバダ (戦艦)、その他駆逐艦数隻が沿岸の迫撃砲を攻撃し無効化した。多くの艦船やボートがテリーの救助に駆け付け、驚くほど素早く衛生兵や工兵が乗り込んだ。舷側の応急修理が施され、すぐに病院船へ運ばれた。テリーは硫黄島北部沿岸へ向かい、応急修理のため2日間停泊した。3月3日、アメリカへの長い帰路の第一歩として火山列島を掃海した。 サイパン島で中間修理を行った後、エニウェトク環礁と真珠湾で停泊し、メア・アイランド海軍造船所に帰投した。その後2ヵ月間、テリーは本格的な修理とカリフォルニア沿岸での訓練を行った。6月13日、テリーは南進してサンディエゴの海域で演習に参加し、その後ワスプ (CV-18)をハワイまで護衛した。7月11日、テリーとワスプとベナー(DD-807)は真珠湾を離れ第58任務部隊に合流した。その後終戦までの数週間、テリーは高速空母部隊による日本本土への最後の空襲に参加した。 終戦直後の数か月、テリーは日本沿岸を哨戒した。テリーはパトロールを行い、占領軍の運び屋として活動した。11月1日、東へ進路を向け、母港へ帰投した。真珠湾に停泊した後、カリフォルニア州サンディエゴへ向かい、11月20日に到着した。 それから数年間、テリーはサンディエゴを離れ太平洋艦隊での活動を続けた。1947年1月、テリーは太平洋予備艦隊のサンディエゴ部隊に配属された。最初はサンディエゴで、次はロングビーチで、最後はワシントン州ブレマートンで予備役としてアメリカ海軍艦の余生を過ごした。1974年4月1日、除籍。7月27日、ペルーへ売却されスペアパーツとして解体された。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:03 UTC 版)
詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった。 栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった。 敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る1部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。生還者の1人であった歩兵第145連隊第1大隊長原光明少佐は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった。 持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦いや、ペリリューの戦いにおいては、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族で裕福であった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある。 隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延しているしていることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった。 翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲と擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された。 その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断しながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積より多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積より遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる。 その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長の蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。 翌17日付で戦死と認定され、特旨により陸軍大将に親任された。陸軍大臣の杉山元・元帥は、内閣総理大臣の小磯國昭に送付した文書に次のように記している。 第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候 — 杉山元。出典では漢字カナ表記、 太平洋戦争(大東亜戦争)において中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職(軍事参議官。陸軍では、陸軍三長官、陸軍航空総監、師団長以上の団隊の長、侍従武官長など。海軍では、海軍大臣、軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)、海軍で5名が戦死後に大将に親任された。 昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された。 同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君テ顧ミルヲ許サズ 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ 大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった。
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硫黄島の戦い
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詳細は「硫黄島の戦い」を参照 アメリカ軍は1944年11月より開始されていたマリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲が、マリアナの飛行場から日本本土までの距離があまりにも遠く、戦闘機の護衛を付けることができないことや、燃料の消費を考慮して爆弾の搭載量を抑制しなければいけなかったので、期待していたほどの戦果を挙げることができていなかった。そこでアメリカ軍はマリアナから日本本土の途中にある硫黄島を、戦闘機や中型爆撃機の出撃基地としてだけではなく、B-29の燃料補給所や日本本土で損傷したB-29の不時着場として確保することとした。しかし、マッカーサーによるフィリピン侵攻に大量の兵力が投入されたことと、日本軍の頑強な抵抗によりフィリピン攻略が長引いたことで硫黄島への侵攻スケジュールは遅れることとなった。アメリカ軍の侵攻が遅れる間、硫黄島守備隊の小笠原兵団司令官栗林忠道中将は硫黄島の徹底した要塞化に着手、激しい空襲により工事の妨害をしながらも、要塞化の進行を確認していたアメリカ海兵隊第56任務部隊司令官ホーランド・スミス中将は上陸艦隊の第58任務部隊司令官レイモンド・スプルーアンス中将に「硫黄島は我々が今まで占領しなければならなかった島の中で、一番堅固な島でしょう。なぜあの島をとりたいというのかわかりませんが、とることはとりましょう」と悲観的に語っており、スプルーアンスは作戦の先行きに不安を感じている。 日本軍も硫黄島がアメリカ軍の手に落ちた場合の影響の重大性を痛感しており、硫黄島を爆破して海没させるという珍案が真面目に検討されたこともあったが、莫大な爆薬が必要であることから断念し、守備する小笠原兵団の強化を図った。栗林は要塞化した硫黄島で徹底した持久戦を将兵に命じ、「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」などと戦闘方針を定めた栗林自ら起草がした『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布している。 アメリカ軍は入念な爆撃と艦砲射撃を加えたのちに硫黄島に上陸してきたが、巧みに構築された日本軍陣地は殆ど損害を受けておらず日本軍の攻撃の前に海岸線に貼り付けとなって多大な損害を被った。作戦初日に硫黄島に上陸できたアメリカ海兵隊は30,000人であったがそのうち2,400人が戦死していた。日本軍は硫黄島を空から支援するため、神風特別攻撃隊「第2御盾隊」を出撃させた。32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) (英語版)など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電している。 その後も摺鉢山を巡っての激戦などで、両軍兵士は互いに多大な損害を被りながら激戦を続けたが、当初5日で攻略予定であったアメリカ軍を1か月以上も足止めした栗林は、3月26日に残存兵約400人とともにアメリカ軍に夜襲を敢行して戦死した。日本軍は21,000人の守備隊のうち20,000人が戦死したが、アメリカ軍は26,000人が死傷し人的損失はアメリカ軍が上回った。甚大な損害を被ったこの戦いについて、アメリカ側の軍事的な評価は厳しいものとなり、政治学者五百籏頭真は戦後にアメリカの公文書を調査していた際に、硫黄島の戦いとこの後の沖縄戦については、アメリカの方が敗者意識を持っている事に驚いている。 甚大な損害を被りながらも攻略した硫黄島の戦略的価値は非常に高く、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に最初のB-29が硫黄島に緊急着陸すると、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000人の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった。一方で日本軍は、マリアナ諸島への攻撃の前進基地だけでなく、日本本土空襲への防空監視拠点をも失うこととなって、いよいよ戦局の悪化に歯止めがかからなくなっていった。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/14 11:55 UTC 版)
「フランクリン・スースリー」の記事における「硫黄島の戦い」の解説
1944年1月5日に海兵隊に入隊。スースリーは第5海兵師団所属となった。3月から半年間ペンドルトン基地で訓練を行い、部隊は9月19日にサン・ディエゴを出港する。10月にハワイ島のタラワ基地に到着して、ここで更に実戦的な訓練を行った。 1945年1月、スースリーの部隊は硫黄島の戦いに参加すべくタラワ基地を出発した。途中のテニアン島で上陸演習を行った後、2月19日にスースリーは硫黄島に上陸を果たす。上陸から3日後の1945年2月23日、アイラ・ヘイズ、マイク・ストランク、ジョン・ブラッドリー、ハーロン・ブロック、レイニー・ギャグノンらと共にスースリーは硫黄島南部の擂鉢山山頂に星条旗を掲げた。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/13 14:06 UTC 版)
1944年3月、第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊E中隊に転属となったハーロンは、それから半年間ペンドルトン基地(英語版)で訓練を行った。部隊は9月19日にサン・ディエゴを出港した後、10月にハワイ島のタラワ基地(英語版)に到着し、ここで更に実戦的な訓練を行った。 1945年1月、部隊はタラワ基地を出発し、兵士たちにはホノルルで数日間の休暇が与えられた。ハーロンはここでチームメイト達と再会し、タラワの戦いで負傷した仲間の見舞いに行っている。数日後にホノルルを離れた部隊は、途中のテニアン島で上陸演習を行った後、2月19日にハーロンは硫黄島に上陸を果たした。上陸から3日後の1945年2月23日、アイラ・ヘイズ、マイケル・ストランク、ジョン・ブラッドリー、フランクリン・スースリー、レイニー・ギャグノンらと共に硫黄島南部の摺鉢山山頂に星条旗を掲げた。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/17 14:50 UTC 版)
「マイケル・ストランク」の記事における「硫黄島の戦い」の解説
1944年3月、休暇を終えて帰隊したストランクは第5海兵師団に転属となり、E中隊第2小隊の分隊長となった。半年間ペンドルトン基地(英語版)で訓練を行い、部隊は9月19日にサン・ディエゴを出港した。10月にハワイ島のタラワ基地(英語版)に到着して、ここで更に実戦的な訓練を行った。 1945年1月、ストランクの部隊は硫黄島の戦いに参加すべくタラワ基地を出発した。途中のテニアン島で上陸演習を行った後、2月19日にストランクの部隊は硫黄島に上陸を果たした。上陸から3日後の1945年2月23日、アイラ・ヘイズ、フランクリン・スースリー、ジョン・ブラッドリー、ハーロン・ブロック、レイニー・ギャグノンらと共に硫黄島南部の摺鉢山山頂に星条旗を掲げた。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:25 UTC 版)
詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1945年(昭和20年)2月16日に硫黄島に米軍が上陸した。日本軍は2万人の兵力で、優勢な火力を擁する7万人の米軍を相手に戦う事態となった。硫黄島の日本軍は1,023人の捕虜を除いて全滅したが、栗林忠道中将の優れた指揮により米軍に28,686人もの損害を与えた。
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硫黄島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:59 UTC 版)
詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1945年2月19日、「飛び石戦略」に沿って日本本土を目指していたアメリカ軍が硫黄島に上陸した。もともと硫黄島は攻略計画に含まれていなかったが、沖縄攻略の前段階であったフィリピン攻略が予想以上に早く終わったことから、マリアナ諸島と日本本土の中間にある硫黄島の攻略が決まった。当時、日本本土爆撃はマリアナ諸島から行われていたが、硫黄島を制圧することによってB-29爆撃機の緊急着陸場所、ならびに護衛のP-51戦闘機の基地を確保することができた。 硫黄島は、日本軍の栗林忠道陸軍大将率いる小笠原兵団によって要塞化されていた台形の火山島で、上陸した海兵隊に多くの損害を与えた。硫黄島は当時から東京都の一部であったことから、同島占領は連合軍による最初の日本本土占領となることを意味していた。その意味で日本にとっても硫黄島は絶対に失ってはならない島であった。 戦略的には島を見渡せる高さ166 mの摺鉢山がもっとも重要な拠点であった。日本軍は硫黄島防衛のため、半地下式の掩蔽壕とトーチカをつくり、それらを結ぶ地下トンネルを掘削した。このためアメリカ軍が手榴弾や火炎放射器でトーチカ内の日本兵を倒しても、トンネルを通りまた新しい兵が入ってきて抵抗を続けるというパターンが繰り返された。アメリカ軍は最初に摺鉢山を目標に兵力を集中し、4日間の攻防のすえ2月23日にこれを制圧した(硫黄島の戦い#摺鉢山の戦い)。 摺鉢山制圧後も日本軍の抵抗は終わらず、最終的に31日後に組織的な抵抗がおわり、硫黄島の「制圧」が宣言された。
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「硫黄島の戦い」の例文・使い方・用例・文例
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