占守島の戦い
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占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終結前後の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
注釈
- ^ 後方の沼尻拠点にいた第91師団第一砲兵隊長の加瀬谷陸男大佐は、約130発の発砲があったが目標は座礁船との報告だったとする[15]。
- ^ 国端崎の警備にあたっていた片桐茂中尉によると、22時45分頃、小泊と竹田浜に対して着弾していた[16]。
- ^ 中山ほかは、ソ連側とは2時間の時差があるとしてソ連時間では4時半頃とする。ただし、大野158頁は時差は3時間であるとする。また上陸時刻も、証言などから午前0時半頃と推定している。
- ^ ソ連側はロパトカ岬からの砲撃開始時刻を、ソ連時間午前2時15分(時差2時間とすると日本時間午前0時15分)としている[20]。
- ^ 後年の長島の証言では士官1名と兵1名が希望して最後までついて来たとしている[30]。師団副官部付き将校の木下末一少尉は、士官1名と兵1名がいたが、木下とともに途中で戻ったとして証言している[9]。いずれも士官1名と兵1名で、大野芳は、最後まで長島についていった部下らの証言も紹介しているが、長島の部隊は銃撃の中でいったんバラバラになっているので、木下の後にまたあらたに合流できた部下2名の可能性もある。
- ^ 長島大尉の随員であった木下末一少尉は、18日夜に軍使がソ連側に到達できなかった経緯を、次のように証言している。軍使の派遣が命じられた時、霧が深かったため、船が航路を見失い、幌筵島から占守島到着に予想外の時間を費やしてしまった。さらに、日ソ両軍が撃合っている状態で、被弾の恐れがあったため、ソ連軍基地に近づくことは容易ではなかった。日本側から攻撃している状態で、軍使を派遣しても、信用してもらえないので、17時ごろ、長島大尉は日本軍の攻撃を止めるように求めるため、木下少尉を大観台の司令部に派遣した。その間に、軍使一行はソ連側からの射撃を受けて死傷者が生じた。20時30分頃、多数で行くのは危険と判断した長島大尉は、一人で行くことに決めた[31]。
- ^ 19日朝になると、日本軍はソ連軍の攻撃を止めていたため、ソ連軍からの攻撃も無く、軍使は自動車に白旗を立てて出かけ、ソ連軍側に到達することができた[32]。
- ^ 大野芳は、この山田大尉と木下少尉らの一行が、いわば長島軍使の後続ともいうべき仮軍使として実際に出発したのかどうか、疑問を抱いて調査、長島軍使が山田・木下らも最終的にソ連軍陣営に止められて共にいた筈を気付かなかったといったことで、山田軍使の出発はなかったと判断したようである[28]。ただし、『昭和史の天皇』によれば、次の正式の軍使である杉野軍使の一行に参加した加瀬谷砲兵隊長は、木下らが帰還したことを知っている形で証言しており、また、水津師団作戦参謀も、ひとから聞いただけのことだと思われるが山田軍使らの存在については知っている。
- ^ 大島芳のカムチャッカとの時差3時間との説に基づく。
- ^ 「池田末男#攻撃(第2回)、戦死」に付した注釈を参照。
- ^ 別所二郎蔵は独航船を26隻であるとしている[44]。第91師団副官の宮沢田八衛大尉は独航船を22隻であるとしている[45]。
- ^ 冬期間において雪に士魂の文字が埋もれる事を危惧した当時の大隊長命令(士魂の文字が残っている限り除雪せよ)により、現在においても配備されている90式戦車の他に用途廃止となって展示されている61式や74式戦車の士魂の文字だけは除雪し、常に確認出来るようにされている。
出典
- ^ “終戦後の開戦 -占守島の戦いと指揮官-”. 木戸博. 2022年12月25日閲覧。
- ^ “豊橋で「占守島の戦い」学ぶ展示会”. 東愛知新聞 (2021-0814). 2022年12月25日閲覧。
- ^ “占守島・1945年8月”. 井澗裕 (2011年). 2022年12月25日閲覧。
- ^ a b “占守島の戦いで健闘空しく停戦命令…負け方が下手な日本”. 渡部昇一 (2014年11月17日). 2022年12月25日閲覧。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 第044巻 北東方面陸軍作戦〈2〉―千島・樺太・北海道の防衛―』朝雲新聞社、昭和46年3月31日発行、581頁 (302コマ目)。
- ^ 中山117頁。
- ^ 中山200頁。ただし、北海道については拒否した。
- ^ 中山68~69頁。
- ^ a b c d e f 『昭和史の天皇』 7巻、読売新聞社、1969年、71,14-15,24-25,47-48,56,32頁。
- ^ 戦史叢書543頁。
- ^ a b 潮田健二 (4 1973). “み霊よやすかれ 船水達夫君・伊藤力雄君のこと:戦車第11聯隊の最期(連載第2回)”. 偕行: 47.
- ^ “ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も”. 北海道新聞 (2017年12月30日). 2018年9月2日閲覧。
- ^ 中山193頁。連日続いていたアメリカ軍による空襲は停止していた。
- ^ 中山198~199頁。
- ^ 昭和史の天皇152頁。
- ^ 大野54頁。
- ^ a b c 井 澗 裕. “スラヴ_00A巻頭部分 - 02_itani”. スラブ・ユーラシア研究センター. 北海道大学. pp. 54-55. 2023年1月31日閲覧。
- ^ 昭和史の天皇155頁。独歩282大隊長の村上少佐は、自分の記憶では、敵は上陸前には砲撃していないと証言している。
- ^ 中山202~203頁。ソ連側は、日本軍が気付く前に艦船が過早に発砲を始めてしまったとしている。 日本側は、1時半頃からロパトカ岬砲台の発砲が再開され、村上少佐が、夜中に数千人で上陸する状況から軍使ではないと判断して射撃開始を命じたとする。
- ^ 大野161~162頁。
- ^ “Смертники и полусмертники против Красной Армии” (ロシア語). 2017年8月23日閲覧。
- ^ 土井全二郎 2000, p. 244
- ^ 相原 2017, 位置No. 946-975、第2章 終戦三日後の激戦:「白虎隊たらんとするものは手を上げよ」
- ^ a b “戦史叢書第044巻 北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛”. 防衛省 NIDS武衛研究所. p. 574. 2023年2月14日閲覧。
- ^ “戦史叢書第044巻 北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛”. 防衛省 NIDS武衛研究所. p. 577. 2023年2月14日閲覧。
- ^ a b 山口武光『秘録大東亜戦史 原爆国内篇』富士書苑、1953年11月10日、34,38頁。
- ^ 『故樋口季一郎遺稿集』私家版(つきさっぷ郷土資料館所蔵)、119頁。
- ^ a b c d e f g h 大野 芳『8月17日、ソ連軍上陸す』(株)新潮社、2010年8月1日、289,290,272,273-275,295-302,277-278,276,276-279頁。
- ^ 中山214頁。
- ^ 「「終戦後の死闘」記憶鮮明」『朝日新聞』、2012年8月21日、北海道版、朝刊。
- ^ 昭和史の天皇182~184頁。
- ^ 昭和史の天皇184頁。
- ^ 水津満 『北方領土奪還への道』 日本工業新聞社、63~64頁。日本軍参謀・水津満少佐は堤不夾貴師団長の傍らにいて、ソ連の要求はあまりにも理不尽であり、到底受け入れられないと助言した。
- ^ 中山219頁。ソ連側は日本機の雷撃を巧みに回避したとしているが、当時の北千島には航空魚雷は全く配備されていなかった。
- ^ 昭和史の天皇186頁。日本側随員の木下少尉も、片岡湾への艦隊進駐がソ連側の提示した条件の一つに含まれていたとしている。
- ^ スラヴィンスキー118~120頁。
- ^ 司馬遼太郎『【ワイド版】街道をゆく 29 秋田県散歩、飛騨紀行』朝日新聞社、2005年11月30日 第一刷発行、ISBN 4-02-250129-4、42頁。
- ^ 「北千島の激戦語る日本兵遺骨発掘」『朝日新聞』、2022年8月5日、北海道版、朝刊。
- ^ a b c 相原 秀起『一九四五 占守島の真実 少年戦車兵が見た最後の戦場』PHP〈PHP新書〉、2017年7月14日、166,179-180,170-171頁。
- ^ 占守島戦没者を追悼 元少年戦車兵「僕らの戦争は8月18日」
- ^ a b c d e f “274戦史叢書第044巻 北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛”. 防衛研究所. pp. 546-547,549,576. 2023年9月5日閲覧。
- ^ a b 『フレップの島遠く』第三文明社、1984年8月15日、87-88頁。
- ^ 「昭和史の天皇 娘さん400人脱出」『読売新聞』、1968年10月28日、朝刊。
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- ^ “第11戦車隊”. 第11戦車隊公式サイト. 2022年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月8日閲覧。
- ^ 日本兵遺骨「祖国に返す」ロシア団体、占守島で収集/49柱収集「最後まで捜し続ける」『日本経済新聞』夕刊2018年11月20日(社会面)掲載の共同通信配信記事、2018年11月20日閲覧。
- ^ “占守島の激戦 千歳へ慰霊碑 旧陸軍遺族が寄贈、陸自駐屯地に移設 写真や名刺300点も”. 北海道新聞. 2023年8月3日閲覧。
占守島の戦い
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末期の1945年7月、北海道の防空戦力強化のため第54戦隊派遣隊は主力11機が札幌に移動。8月10日、残る4機に対しても北海道撤収が第1飛行師団より命じられ、天候回復を待っている。4月より海軍も北千島地上戦力の撤退を始めているが防空部隊と北東空の九七艦攻は残留とされている。8月9日にソ連が対日参戦し、九七艦攻は9日・10日にカムチャッカ半島を攻撃するも積極策の指令でなかったこともあり戦果は無かった。 8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し降伏を決定、日本軍は停戦し北方方面の日本陸海軍も武装解除に移行したが、同月18日に千島列島東端の占守島にソ連軍が上陸し日本軍北部遊撃隊(第91師団)と交戦(占守島の戦い)。士気の高い第54戦隊の一式戦4機および北東空の九七艦攻4機は第91師団部隊を掩護すべく出撃した。九七艦攻1機が対空砲火で撃墜され喪失するも、輸送船に直撃弾1発・掃海艇1隻撃沈の戦果を報告(戦果不明)、一式戦は九七艦攻を掩護するとともに掃海艇を攻撃している(戦果無し)。翌19日には九七艦攻が示威飛行でソ連軍艦艇を威嚇するも、着陸時に1機が損傷し稼働2機となったため、北東空の操縦員3名は第54戦隊の操縦者に交渉し一式戦操縦訓練の依頼をしている。一連の空戦で特に物的戦果は無かったものの一式戦と九七艦攻は日本軍占守島守備隊の善戦に貢献、また18日の戦闘は第二次大戦最後の空戦のひとつとなった。 停戦交渉がまとまったのちの8月21日、一式戦・九七艦攻は操縦者共々北海道に脱出。一式戦3機のうち池野准尉機は途中不時着によりソ連軍捕虜となり抑留、入江軍曹機は行方不明、森永軍曹機は方位を間違え樺太に不時着するも船に便乗し1ヵ月後に北海道に到着した。ここに千島航空戦は日本の敗戦・第二次大戦の終戦とともに終了した。
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