千島航空戦
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1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島が陥落。キスカ島からの撤退準備のため、北千島対策を迫られた陸軍は同年6月に一式戦装備の第54戦隊を同方面へ移動させることを決定。7月20日、戦隊長以下第54戦隊第2中隊・第3中隊の一式戦二型23機(第1中隊は台湾台北へ派遣中、1944年2月末にこれは独立飛行中隊へ改編されるとともに第54戦隊は新第1中隊を編成)は、幌筵島北東端に位置し占守島を望む北ノ台飛行場に全機無事に進出した。進出9日後の7月29日にキスカ島撤退作戦が発動され作戦成功、約5,000名の将兵は海軍第五艦隊に輸送され8月1日に幌筵島に上陸している。しかしこの玉砕・撤退による西部アリューシャン放棄によって、占守島や幌筵島の北千島は北方方面の最前線となった。 8月12日、アメリカ陸軍航空軍第11空軍は北千島へ7月22日以降第3回目の爆撃行としてB-24 9機を出撃させた。以後2年「以上」続くこととなるこの千島航空戦の初陣に第54戦隊は戦隊長機以下全機が邀撃、爆撃を終え帰還するB-24を攻撃し防御砲火の反撃で1機を喪失するも2機を撃墜した(第404爆撃飛行隊。撃墜は戦隊本部附山田成一准尉機・第3中隊榎田正一軍曹機(協同撃墜)、第3中隊第2小隊長岩瀬勲中尉機(単機撃墜)による)。これは「日本本土防空戦撃墜第1号(および第2号)」である。この空戦には先に千島に進出していた占守島の第四五二海軍航空隊の二式水上戦闘機と零式水上観測機も加わっているが戦果は無く、また幌筵島南端の第二八一海軍航空隊の零戦も離陸自体はしているが戦意無く武蔵飛行場の上空警戒に終始し防空戦には参加していない(二八一空は当時北千島最大の邀撃戦力でありながら千島航空戦に一切寄与することなく転出していった)。 日本陸海軍の一式戦・水上機・高射部隊は春から秋にかけて厚い濃霧の発生する同戦線で来襲するアメリカ軍爆撃機を迎撃。9月12日の空戦ではアメリカ軍はB-24 3機・B-25 7機喪失(7機はソ連領カムチャッカ半島に不時着)、7機被弾の損害を被っている。 同時期、戦力強化のため北海道で防空の任にあたっていた第63戦隊第1中隊(一式戦装備)が幌筵島に進出し第54戦隊の指揮下に入るも、11月に戦隊主力がニューギニア航空戦に転出することとなり同第1中隊も機材を第54戦隊に引渡し主力に追随。海軍も冬季を迎えるため10月・11月に歴戦の四五二空(水上機部隊)が、また10月から12月にかけて二八一空の零戦が、9月から12月にかけて第七五二海軍航空隊の一式陸攻が、重巡洋艦「那智」以下の第五艦隊がそれぞれ南方・内地に転出。これにより北千島から海軍航空部隊は消滅し、同方面の防空は年明けまで第54戦隊のみが担うこととなった。残った第54戦隊は日本軍航空部隊では初となる厳寒地北千島で越冬を実施。暴風により一式戦やトラックは吹き飛ばされ、風の無い日は1m以上の積雪を記録する条件下で(除雪車の故障により)戦隊長以下操縦者を含めた戦隊員全体が雪かきに励み、整備隊は一晩中エンジン下で焚火を行い暖気に努るなどしている。濃霧・強風・酷寒は北千島の日本軍のみならずアリューシャンに展開するアメリカ軍にとっても最大の障害であった。 大損害を受けた9月12日以降本格的な爆撃を控えていたアメリカ陸軍航空軍に代わって海軍航空部隊がこれを実施、1944年1月20日以降約4か月にわたり第139哨戒爆撃飛行隊PV-1による夜間偵察爆撃は78回を数えた。2月4日夜には巡洋艦・駆逐艦による艦砲射撃が、同月15日には陸軍航空軍のB-24による爆撃も再開している。日本海軍航空部隊と異なり夜間出撃・夜間飛行・夜間戦闘の技量が単座戦闘機操縦者にも求められる日本陸軍航空部隊において、夜間邀撃は「本来は」可能であったものの、他戦域と大きく異なる暴風・豪雪下の北千島で夜間の離着陸は危険なためこれは行えなかった。 春となる3月・4月、日本陸海軍は千島方面の航空戦力を増強し、戦闘・軽爆・重爆・襲撃・司偵・艦爆・艦攻・陸攻・水偵の各飛行部隊が北千島・中千島・南千島へ進出。第54戦隊の一式戦はこれらの零戦とともに千島航空戦を戦っている(P-40・P-38のアメリカ陸軍戦闘隊は航続距離不足のため爆撃機の掩護は行えず、防空戦の相手はB-24やPV-1が主体)。しかし同年7月・8月、マリアナ諸島が陥落しフィリピン決戦の準備が始まったため、再度千島方面の飛行部隊は一部が派遣隊(残留隊)を残し主力は南方・内地に転出。第54戦隊も予備機5-6機を残し8月中旬に札幌に移動、同地で三型へ改変し9機を北ノ台飛行場へ帰したのち、10月25日に戦隊長以下第54戦隊主力28機はフィリピン航空戦に転戦していった。 千島に残った第54戦隊派遣隊の一式戦15機は引き続き防空戦に従軍、10月末には同じく残留隊である海軍北東航空隊派遣隊の艦攻(九七式艦上攻撃機・天山、1機のみ残された天山はのち主脚故障により着陸時に損傷廃棄)が駐屯する占守島の片岡飛行場に第54戦隊派遣隊も合流した。戦果としては11月5日に一式戦が損害無くPV-1 1機を撃墜(第131哨戒爆撃飛行隊)するなどしている。
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