ぎょく‐さい【玉砕/玉×摧】
【玉砕】(ぎょくさい)
割れた玉(宝石)のように煌びやかに砕け散ること。転じて、誇りと共に語り継ぐに値する壮絶な死のこと。
「死亡」「全滅」などの言い換えとしての敬語表現の一つであるが、戦後は旧軍に対する偏見の影響で意味が変質している。
現代では主にスポーツの試合などで、格上の相手に対して果敢に挑むも惜しくも敗れ去る、などの意味で用いられる。
実際に死者が発生した場合に「玉砕」と表現するのは現代日本語においては重大なタブーである。
語源は中国の歴史書『北斉書』の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全」から。
「立派な男子は脆い宝玉のように砕け散る事を尊びはするが、屋根瓦のようにくだらない生涯を全うする事は望まない」の意。
「玉(天皇陛下)のために砕け散る」の意であるとする珍説もあるが、これは間違い。
言葉の指し示す事柄の実態を考えれば自明であるが、この語を用いる表現は著しく不穏である。
自ら「我々は玉砕しようと思う」などと仲間を鼓舞したとして、よほど平静を失った人間でなければ素直に頷けるものではない。
あるいは戦死者に関して「爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む」との発表があったとして、その言葉が遺族への慰めになるわけでもない。
日本語での「玉砕」という言葉の本質は「死ぬ」「死んだ」と口にするのを避けるための隠喩であって、実際に敬意を込める事は多くない。
太平洋戦争における「玉砕」
第二次世界大戦の後半、大日本帝国大本営は「玉砕」という表現を異様なほど多用した。
それは何故かと言えば、「玉砕した」と表現するしかない状況が異様なほど多発したためである。
そのような絶望的戦況を生み出したものが何であるかはさておき、勝利も撤退も不可能になった部隊の多くが、なお降伏せず戦い続けて全滅した。
そうした態度を戦中当時の陸軍大臣・東條英機の著『戦陣訓』などの思想的影響と見る向きもある。実際、当時の軍上層部にはその影響も確かに見られる。
しかし現実問題として、前線の兵士達は玉砕を望んでいたのではなく、「生きて虜囚となる」事を許されなかったと見るべきだろう。
真珠湾で捕らえられた太平洋戦争最初の捕虜は身元が明らかになるや功績を抹消され、生存している事実さえ極秘とされた。
その後の捕虜達も家族が「非国民」として差別される事を恐れ、戦時法で保証されている家族との文通を自ら拒否したという。
また、そもそも兵卒は捕虜の扱いについて何ら教導を受けず、ただ「捕虜になるのは死ぬより恐ろしい」とだけ言い聞かされていたという。
玉砕(たまさい)
玉石砕石。道路用砕石の場合玉石を原石とする場合、砕石の最大寸法が3倍以上の玉石を砕いたものは丸味をおびた部分がきわめて少なくなるので砕石と認めるが、それ以下の玉石や砂利を砕いて粒度調整したものを玉石砕石と言う。
玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/12 15:55 UTC 版)
玉砕(ぎょくさい、旧字体:玉碎)は、玉のように美しく砕け散ること、指導層が提唱する大義、名誉などに殉じて潔く死ぬこと[1]。大東亜戦争の前線で日本軍部隊が殲滅[注釈 1]されたことを表現する言葉として大本営発表で用いられた。対義語は、瓦全(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為に生き永らえること[2]。中国の古書『北斉書』の「元景安伝」中の記述「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(勇士は瓦として無事に生き延びるより、むしろ玉となって砕けた方が良い)」を語源とする。
- 1 玉砕とは
- 2 玉砕の概要
玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 17:28 UTC 版)
6/2午後、雲南遠征軍、怒江東岸の鉢巻山から拉孟陣地(怒江西岸)に対して攻撃を開始。 6/14、新第39師(師長洪行少将)、拉孟北方より攻撃を開始。 6/20、新第28師長主力の2個連隊が再攻撃 栄与第1師団(師長李弥少将)、攻撃を開始。 6月末、恵通橋が開通(衛立煌大将は、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した橋を、今度は反攻作戦のために復旧した)。 6/28、日本陸軍機10機、拉孟上空から空中補給。空中補給はそれ以降もたびたび行われたが、撃墜される機体も多く、投下した物資も半分くらいが敵に奪われた。 7/4~15、雲南遠征軍第2次攻撃。このころからロケット砲と火炎放射器が登場し、拉孟守備隊はこの攻撃によって兵を大きく失う。しかし、この攻撃にも守備隊は耐えた。 7月中旬、この頃、第33軍辻政信参謀より、連合軍によって北ビルマから雲南省に新たに築きつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟、騰越守備隊を救援するという「断作戦」が発令される。拉孟守備隊の残存兵力は既に500名を切っていたが、このことを伝え聞いて大いに希望を持った。しかし日本軍はインパール作戦の失敗により糧食と兵力を大きく損耗し、救援に裂く余力がないのが実状であり、救援は単なる口約束で、辻は最初から拉孟守備隊を見捨てる気であった。なお、救援部隊は9月上旬に送ると言う約束であったが、拉孟守備隊はその前に全滅する。 7/20、雲南遠征軍第3次攻撃。 7/27、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将から拉孟守備隊の勇戦に対し、感状が届く。翌日、第33軍本多政材軍司令官からも感状が届いた。 8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。 8/12、挺身破壊班、雲南遠征軍陣地を奇襲。 8/20、雲南遠征軍、地下坑道に仕掛けた爆薬により関山陣地を爆破。 9/6、17時頃に金光少佐が戦死し、後任に副官の真鍋邦人大尉が就いた。 9/7、未明に真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け、松山陣地陥落。午後、真鍋大尉が戦死(死後、少佐に進級)。18時頃、全ての陣地が陥落し、戦闘終結。 9月7日をもって全戦闘は終結した。1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。中国軍の捕虜となった傷病者と、本隊への連絡のために軍命によって拉孟を脱出した者が、わずかながら生還している。 一方の中国軍も日本軍の数倍の死傷者を出した。拉孟の戦いについて9月9日に蔣介石は次のような"逆感状"をもって雲南軍を叱咤激励した。 わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし — 防衛庁防衛研修所戦史室 編、『イラワジ会戦 ビルマ防衛の破綻』 朝雲新聞社〈戦史叢書25〉、1969年 p285 拉孟が陥落する直前の6日、真鍋大尉は戦闘詳細報告のために木下昌己中尉ら3人の部下を脱出させていた(別にほか一名が脱出)。彼らは地元民に変装し16日に無事、第33軍本部のある芒市に辿り着き、第49師団の第168連隊(連隊長:吉田四郎大佐)と会い、翌17日に33軍司令部へと向かい、道中、松井大佐と出会った。松井大佐はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路を聞き、涙したという。
※この「玉砕」の解説は、「拉孟・騰越の戦い」の解説の一部です。
「玉砕」を含む「拉孟・騰越の戦い」の記事については、「拉孟・騰越の戦い」の概要を参照ください。
玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 17:28 UTC 版)
7/28、松山師団長、蔵重大佐に対し、師団主力の龍陵会戦の間、騰越を死守の命令を下す 8/2、雲南遠征軍総攻撃。60機のグラマン、ロッキードなどの戦闘機が援護射撃。城壁の一部が破壊 8/3、騰越城の南西角のトーチカが破壊。雲南遠征軍はそこから侵入するも日本軍の夜襲により撃退される 8/4、雲南遠征軍、南西角の城壁に攻撃を集中するもその都度、撃退される。第54師長方天中将、爆撃隊の協力及び、手榴弾2万発の空輸を要請 8/5、B-25、15機が騰越城を爆撃。城壁の十数か所が破壊 8/8、爆撃隊、騰越城を空爆。南西角と南東角のトーチカが吹き飛ぶ 8/9、雲南遠征軍は早朝、昨日の爆撃した箇所から5千の軍勢で突入を試みるも成功せず。一方、騰越守備隊もこの日までに820名まで兵を失っていた 8/12、雲南遠征軍、城壁上を占領。その夜、守備隊は夜襲を決行し、これを城壁上から突き落とした。第36師の李師長は、再度電文をおくり、「第2大隊約500名が傷つき・・・」の悲観的な見方を示した。その後、雲南遠征軍は、南西と南東角付近の城壁に坑道を掘り始める。地下に爆弾を仕掛け、一気に粉砕しようとした 8/13、早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆。その爆弾の一発が蔵重大佐ら32名の幹部や兵がいる防空壕を直撃。全員が戦死した。後任は先任将校の太田正人大尉(28歳)が指揮をとった 8/14、早朝から雲南遠征軍は第2次総攻撃を仕掛ける。しかし、騰越城守備隊の粘り強い反抗でまたしても挫折した。しかし、5時間に渡る戦闘で将校を含む兵30数名が犠牲になった 8/15~17にかけ日中双方、壮絶な市街戦が繰り広げられた。雲南遠征軍は攻撃重点を南西角の城壁に絞り、17日午後から2個連隊を増員し、その日の夕刻、これを占領した。太田大尉は、防衛線を西門と南門を結ぶ線で守りを固めることにした この頃、第33軍本多軍司令官は10月初めに騰越救援の兵を送ると打電した 8/19、第3次総攻撃。雲南遠征軍は新たに第198師を増員 8/20、太田大尉、松山師団長に航空機による手榴弾の補給を無線要請 8/21、占領された騰越飛行場に連合軍の飛行機が発着をはじめる。これにより雲南遠征軍は空輸によって物資の直接補給が可能になった。この頃すでに城内の3分の1は雲南軍によって占領されていた。騰越城守備隊の残存兵力は640名。糧秣は数日分、弾薬、手榴弾は各自の持分しかなかった。太田大尉は残りを兵を集めて次のように編成した本部、病院 太田大尉以下150名 南正面 日隅大尉以下300名 北東正面 高木中尉以下120名 北西正面 早瀬大尉以下70名 8/22、第198師の主力が西門付近とイギリス領事館付近に進出 8/25、日本軍戦闘機12機が騰越城守備隊に手榴弾500発を空輸 8/27、騰越守備隊、夜陰に紛れ西門に近づき、手榴弾による投擲攻撃。雲南遠征軍に多くの損害を与えた。またこの攻撃で元読売巨人軍の吉原正喜伍長が活躍 このころ第33軍は龍陵方面の第11集団軍に対する決戦を進めていた。第3次「断作戦」である。雲南遠征軍はそれに対して、かつてない大攻勢に転じる。騰越の攻略を早め、その兵力を決戦場に向かわせるためであった 9/1~5、この間、攻撃は下火になったが守備隊の兵力は350名を割っていた。守備隊は東方へ追い詰められていた 9/5、最後の総攻撃。守備隊が籠る中門正面に集中した 9/7、連隊本部付近に追い詰められた守備隊の残存兵力は太田大尉以下70名であった 9/9、蔣介石、雲南遠征軍に拉孟とミイトキーナ守備隊への逆感状を送ると同時に9月18日の“国辱記念日”(柳条湖事件の日)までに騰越を攻略することを厳命。 9/11、9時軍旗を奉焼した。守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。午後10時ごろ、松山師団長宛てに無電 9/12、6時ごろ、松山師団長宛てに最後の無電 9/13、太田大尉以下70名の将兵、敵陣地に突入。全員戦死(重傷者3名を除く。この3名はその後中国軍に収容された) 9/14、第20集団軍長霍撥彰中将、雲南軍総司令官衛立煌大将宛てに騰越占領の電文を送った この戦いによる中国遠征軍の損害は、総勢21万2500人中 死傷6万3000人(全滅した二個師団を含む数個師団が戦力喪失)であった。
※この「玉砕」の解説は、「拉孟・騰越の戦い」の解説の一部です。
「玉砕」を含む「拉孟・騰越の戦い」の記事については、「拉孟・騰越の戦い」の概要を参照ください。
玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 16:53 UTC 版)
「"brother"YASSHI」の記事における「玉砕」の解説
金的へのクローによる反則攻撃。2人に対して同時にかけると二子玉川となり、3人に対して同時にかけると(1人には噛み付き)サンタマリアとなる。
※この「玉砕」の解説は、「"brother"YASSHI」の解説の一部です。
「玉砕」を含む「"brother"YASSHI」の記事については、「"brother"YASSHI」の概要を参照ください。
玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 10:29 UTC 版)
『戦陣訓』は複数の戦場において、玉砕命令文中に引用された。「玉砕」とは『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕、何能瓦全」(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)による表現である。第二次世界大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。1943年5月29日、北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐は「非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり」と軍属も含めて発令した。アッツ島玉砕を伝えた朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しで報道された。 1944年7月3日にはサイパン島守備隊南雲忠一中将がサイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に「サイパン島守備兵に与へる訓示」を発表。「断乎進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。」この結果、戦死約21,000名、自決約8,000名、捕虜921名となった。そして南雲自身も自決したと伝えられている。沖縄戦では日本軍将兵による沖縄県民への集団自決強制が為され、結果、座間味島では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされるがこれについては論争がある(大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判も参照)。
※この「玉砕」の解説は、「戦陣訓」の解説の一部です。
「玉砕」を含む「戦陣訓」の記事については、「戦陣訓」の概要を参照ください。
「玉砕」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
- >> 「玉砕」を含む用語の索引
- 玉砕のページへのリンク