アッツとうぎょくさい〔‐タウギヨクサイ〕【アッツ島玉砕】
アッツ島玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 09:22 UTC 版)
アッツ島玉砕(アッツとうぎょくさい)は[1]、太平洋戦争におけるアッツ島の戦いで玉砕した日本軍アッツ島守備隊員と、アメリカ軍との白兵戦を題材として、藤田嗣治が1943年に描いた戦争画[2]。日本の戦争画の中で最もよく知られた作品の一つとされ、戦後は接収されて1951年にはアメリカ合衆国に移送されるが、1970年に無期限貸与という形で日本に戻り、東京国立近代美術館が保管している[2]。
注釈
- ^ 田中日佐夫は、1938年の海軍、陸軍の命による戦地取材をもとに描いた絵について、軍によって駆り出されてやっつけ仕事をしたのだといえるかもしれないと評価している[43]。
- ^ 藤田が描いたとされるソ連軍に蹂躙されるもう一枚のノモンハン事件の絵画は、荻洲立兵の四男である照之の証言によれば、荻洲家に保管されていたが、終戦の混乱の中、行方が分からなくなった[48]。
- ^ 海軍からの要請に基づいて『アッツ島玉砕』と並行して制作していたソロモン海海戦の絵画『ソロモン海域に於ける米兵の末路』は、1943年12月開催の第二回大東亜戦争美術展に出品された[78]。
- ^ 藤田は戦後、現存する全ての戦争画のサインを書き換えてはいない。書き換えられているのは『アッツ島玉砕』と『サイパン島同胞臣節を全うす』である。自信作のみ書き換えたのか、あるいは書き換えられる環境下にあった作品のみ変えたのかについてはわかっていない[108]。
- ^ 藤田君代は夫、嗣治が亡くなって40年あまり後の2009年に98歳で世を去った[123]。
- ^ 椹木は更に、戦争画は様々なものとの接続が可能な総合性や娯楽性要素、いわゆる大衆的迫真性を持ち、アニメ作品に代表される戦後のポップカルチャーは戦争画を起源として引用、参照していて、著名なアニメ作品などは戦争や兵器の描写などを通して「戦争画の負の遺産」を脱近代、近未来的なイメージとしてフィードバックしており、これが多くの人々に受け入れられてきたと主張している[152]。
出典
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アッツ島玉砕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
詳細は「アッツ島の戦い」を参照 1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。山崎保代大佐以下日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが(ニューギニアの戦い)、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。同年の暮れ頃には、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは度重なる空襲を受け孤立化し始める。
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