ソロモン諸島の戦い
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ソロモン諸島の戦い(ソロモンしょとうのたたかい)は、第二次世界大戦[注釈 1]中に日本軍と連合軍の間で、南太平洋ソロモン諸島の争奪をめぐり行われた戦闘である。
注釈
出典
- ^ 戦史叢書 49 p.356
- ^ #S1704七戦隊日誌(3)p.29『(一)八月一日戰艦一、航空母艦二、巡洋艦又ハ駆逐艦九隻ヨリナル敵ノ機動部隊「ツリンコマリ」ノ北東方海面ニ出現セル等ノ爲B作戰ヲ一時延期セラレ「メルギー」ニ待機中ノ処外南洋方面ノ情勢急迫セシヲ以テB作戰ヲ取止メ同部隊ノ大部ヲ外南洋方面作戰ニ参加セシメラル』
- ^ 平塚柾緒 42 ページ
- ^ ニミッツ 129ページ
- ^ 戦史叢書 14 285ページ、戦史叢書 49 514ページ、平塚柾緒 70 ページ
- ^ ニミッツ 151,160ページ
- ^ 戦史叢書40 169 ページ
- ^ 戦史叢書96 4 ページ
- ^ BULL HALSEY 360ページ
- ^ BULL HALSEY 401ページ
- ^ ニミッツ 168ページ
- ^ 戦史叢書40 383 ページ
- ^ 戦史叢書40 539 ページ
- ^ BULL HALSEY 403ページ
- ^ 戦史叢書96 456 ページ
- ^ 戦史叢書 96 479ページ
ソロモン諸島の戦い
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「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
1942年(昭和17年)8月7日早朝、米軍はツラギ島とガダルカナル島に上陸し、南太平洋での本格的な反攻に転じた。急報を受けた外南洋部隊指揮官三川軍一中将(第八艦隊司令長官)は重巡鳥海(第八艦隊旗艦)と第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡4隻(青葉、加古、衣笠、古鷹)の計5隻で米揚陸部隊の撃滅を計画した。軽巡天龍と夕張、夕凪はたまたまラバウル在泊中で、第十八戦隊が参加を上申し、夕張と夕凪も艦隊に加わった。鳥海以下の艦船は同日午後2時半にラバウルを出撃、約2時間後に第六戦隊と合流しガダルカナル島に進撃した。三川長官直率の外南洋部隊は連合軍の重巡洋艦4隻を撃沈し、巡洋艦と駆逐艦複数隻に損傷を与えた。帰路で重巡加古を喪失したものの、勝利を収めた(海戦に到る経緯と行動の詳細は、当該記事を参照)。 詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照 8月11日夜、追風と夕凪と共にラバウルを出撃、13日にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を砲撃し14日に帰投した。8月24-25日の第二次ソロモン海戦前後における外南洋部隊は、日本陸軍一木支隊をのせた輸送船団(第二水雷戦隊司令官田中頼三少将護衛)を間接支援するため、ソロモン諸島を機宜行動する。夕凪は、鳥海(第八艦隊旗艦)や第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)などと行動を共にし、また8月19日からはサンタイサベル島レカタ水上機基地の設営に協力した。21日、外南洋部隊は白露型駆逐艦江風(第24駆逐隊)と夕凪にガダルカナル島ルンガ泊地へ進入と襲撃を命じた。だが波浪のため夕凪は速力22ノット以上を出すことができず、江風のみでの突撃となった。江風はルンガ泊地で駆逐艦ブルーを撃沈している。夕凪は引き揚げてきた江風と合流し、ショートランド泊地に移動した。第二次ソロモン海戦当日の夕凪は外南洋部隊の重巡洋艦群と行動を共にし、輸送船団の支援をおこなった。 夕凪は8月下旬までソロモン諸島方面で行動し、9月上旬からはナウル島・オーシャン島攻略作戦に従事した。以降は中部太平洋の輸送ルートを守る第二海上護衛隊の各艦と共に活動、ソロモン諸島、マーシャル諸島などで護衛任務に従事した。 10月中旬、マーロン・S・ティスデール(英語版)少将が指揮する重巡洋艦ポートランドと軽巡洋艦サンフアンは、南太平洋を南下していた。ポートランド(旗艦)は単艦で10月15日にタラワ島へ到達し、タラワ在泊および近海の日本軍艦船(夕凪、浮島丸、筑紫、日立丸)やタラワ守備隊(横須賀鎮守府第六特別陸戦隊)に対して艦砲射撃をおこなう。また艦載機のSOCシーガル水上観測機で空襲を敢行した。当初、筑紫はポートランドを大和型戦艦武蔵と思っていたという。夕凪も当初は戦艦と報告している。ポートランドは約30分間にわたり砲撃を敢行する。日本側各艦に若干の損害があったが決定的な被害はなく、ポートランドは日本軍の空襲を懸念して去っていった。翌日、米巡洋艦は監視艇2隻を撃沈し、ソロモン諸島へむかった。この砲撃により、タラワの横六特は収容中の民間人3名と捕虜19名を処刑してしまった。 10月26日、第四艦隊司令長官は井上成美中将から鮫島具重中将に交代した。11月中旬、鮫島長官は練習巡洋艦鹿島に乗艦し、マーシャル群島を視察することにした。夕凪と朝凪は鹿島を護衛して中部太平洋諸島(クェゼリン環礁、ルオット島、イミエジ島、ヤルート島、ヤルート島)を視察する。途中で朝凪がマーシャル方面に残り、鹿島と夕凪は12月2日トラックに帰投した。以後の夕凪は、ふたたび第二海上護衛隊として護衛任務に就いた。
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ソロモン諸島の戦い
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「萩風 (駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
8月7日、米軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸、ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月16日午前5時、陽炎型駆逐艦6隻(指揮官/有賀第4駆逐隊司令:嵐《司令駆逐艦》、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は陸軍一木支隊約900名(指揮官一木清直大佐)を分乗させトラック泊地を出撃。8月18日21時以降ガダルカナル島タイボ岬へ揚陸した。この部隊は21日イル川渡河戦で全滅している。第17駆逐隊3隻(谷風、浦風、浜風)はラビの戦い(「レ」号作戦)に従事するためガダルカナル島海域を離脱してラバウルに向かった。陽炎型3隻(嵐、萩風、陽炎)は警戒艦として、ひきつづきルンガ泊地附近を行動した。 8月19日、「萩風、陽炎」はサボ島周辺で米軍魚雷艇数隻を砲撃で撃沈。「萩風」は1隻を拿捕して調査したあと自沈させた。日中、B-17爆撃機の空襲を受け艦尾(三番砲塔とも)に被弾。舵故障を起こす。「萩風」は「嵐」の援護下でガ島の浅瀬に停泊、舵を中央で固定した。有賀司令は「陽炎」にガ島海域警戒任務を引き継がせると、2隻(嵐、萩風)をトラック泊地へ回航させた。泊地到着直前の23日午後1時、「嵐、萩風」は山本五十六連合艦隊司令長官座乗の戦艦「大和」、空母「春日丸(大鷹)」、第7駆逐隊(漣、潮、曙)と遭遇した。 9月8日附で岩上中佐(萩風艦長)は陽炎型11番艦「浦風」駆逐艦長へ転任。萩風駆逐艦長には畑野健二少佐(睦月型駆逐艦1番艦「睦月」沈没時駆逐艦長)が任命された。10月1日、左舷推進軸を損傷していた「萩風」は日本本土へ回航される。7日、右推進器の切損により航行不能となり、朝潮型駆逐艦「山雲」に護衛され8日に横須賀港へ戻った。到着後、翌1943年(昭和18年)1月22日まで浦賀船渠で修理に従事する。この間、12月1日附で畑野(萩風)艦長は夕雲型駆逐艦8番艦「清波」艤装員長に任命されている。清波艤装員長の職務は12月28日附で有馬時吉中佐に交代した。また第4駆逐隊僚艦「野分」は12月7日の鼠輸送中に損傷、「嵐」は昭和18年1月15日の鼠輸送作戦で損傷、「舞風」は2月4日ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)従事中に損傷、それぞれ内地帰投と修理を余儀なくされる。 1943年(昭和18年)2月20日、第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐に交代する。2月24日、杉浦司令は司令駆逐艦を「嵐」から「萩風」に変更した。修理を終えた「萩風」は、夕雲型駆逐艦7番艦「大波」と共に空母「冲鷹」を護衛して2月28日に横須賀を出港し、トラックへ進出。3月8日、「萩風」は第27駆逐隊の駆逐艦「夕暮」と共に空母「冲鷹」の横須賀回航を護衛する。横須賀帰投後の2隻(萩風、夕暮)は戦艦「金剛」の内海西部回航を護衛した。3月下旬は、空母「翔鶴」及び第50航空戦隊(鳳翔、龍鳳)の訓練に協力。28日、トラック泊地より内地へ帰投中の第七戦隊部隊(鈴谷、熊野、浦風)掩護に派遣される。 4月1日、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の各艦(金剛、榛名、浦風、萩風)は呉を出発。6日トラック泊地到着。その後、同泊地とラバウル方面で輸送任務に従事した。4月下旬、トラック泊地にあった第15駆逐隊(親潮、黒潮 、陽炎)、第24駆逐隊(海風)、第4駆逐隊(萩風)は4月24日附で南東方面部隊に編入され、中部ソロモン方面の輸送作戦に従事することになった。各艦は26日にラバウルへ到着して増援部隊に編入、作戦のためブインへ進出した。2隻(萩風、海風)は4月29日の第二次コロンバンガラ島輸送作戦、5月4日第四次輸送任務に従事した。ところが第五次輸送作戦に従事中の第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は米軍が敷設した機雷によって大破、さらに航空攻撃を受けて3隻とも沈没した。第六次作戦のため待機中の2隻(萩風、海風)は急遽出動。コロンバンガラ島を一周して第15駆逐隊を捜索し、内火艇1隻を発見する。乗船中の陽炎先任将校から第15駆逐隊3隻沈没と生存者救助済の連絡を受け、2隻(萩風、海風)は引き返した。第15駆逐隊の全滅によって鼠輸送(駆逐艦輸送作戦)は5月下旬まで中止されている。なお「陽炎」の除籍にともない陽炎型駆逐艦は『不知火型駆逐艦』に改定された。 5月17日、「萩風」は第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦「長良」)に編入された。煙突や短艇の標識塗装に変化はない。6月5日、「萩風」は夕雲型駆逐艦「清波」、吹雪型駆逐艦「潮」と共に空母2隻(雲鷹、冲鷹)の横須賀回航を護衛する事になった。6月5日トラックを出発し、本土へ向かう。6月10日(横須賀到着前日)、「萩風」は第四水雷戦隊の指揮下を離れた。 同日夕刻、第27駆逐隊(有明、夕暮)に護衛されていた空母「飛鷹」は米潜水艦トリガーの雷撃を受けて航行不能となる。横須賀へ回航中の軽巡洋艦「五十鈴」が被雷現場におもむき曳航救難を開始。6月11日、横須賀停泊中の扶桑型戦艦2番艦「山城」と「萩風」にも飛鷹曳航のため出撃命令が下されるが、飛鷹側は曳航状態良好のため「山城の曳航は必要なきものと認む」と発信した。6月12日、飛鷹隊は横須賀に到着する。6月16日附で萩風駆逐艦長は畑野少佐から馬越正博少佐に交代した。 7月10日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、水上機母艦「日進」、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は横須賀を出撃。各艦は、マーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や軍需物資も搭載していた。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、米潜水艦ティノサとポーギーがトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した。 7月19日、大型艦5隻(利根、筑摩、最上、大淀、日進)と第十戦隊(阿賀野、萩風、嵐、磯風、涼月、初月)は更にトラック泊地を経てラバウルへ進出した。7月21日、第十戦隊司令官大杉守一少将は「阿賀野」から一時的に「萩風」へ移乗、旗艦を変更した。「嵐」は「利根」、「萩風」は「筑摩」、「磯風」は「大淀」に接舷し、それぞれ補給を受ける。準備完了後、不知火型3隻(萩風、嵐、磯風)は、中戦車22両・野砲16門・歩兵三個大隊・各種軍需物資を満載した水上機母艦「日進」を護衛してラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かう。第61駆逐隊(涼月、初月)も続けて出港し、ブカ島へ向かった。だがブイン輸送隊はブイン直前で米軍機70機以上の攻撃を受け「日進」は撃沈される。3隻(萩風、嵐、磯風)はブインに約750名の兵員を輸送したのち日進沈没現場に戻り、海軍92名・陸軍81名を救助した。「日進」の沈没は3月3日ビスマルク海海戦の再現になってしまった。
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ソロモン諸島の戦い
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「朝潮 (朝潮型駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
1942年(昭和17年)10月20日、第8駆逐隊に満潮が復帰した。第8駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将)に編入された。10月22日、第8駆逐隊(満潮、朝潮)は横須賀を出発、10月30日にラバウルへ到着。11月1日からガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事する。 11月1日、増援部隊は第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて1日23時にショートランド泊地を出撃した。甲増援隊(駆逐艦朝雲、軽巡天龍、第2駆逐隊《村雨、春雨、夕立》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、第6駆逐隊《暁、雷》、第11駆逐隊《白雪》)および乙増援隊(満潮、朝潮、第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》、望月)も第一攻撃隊と前後してショートランド泊地を出撃した。甲増援部隊の揚陸はガ島揚陸地点の強風波浪により一部失敗したが、乙増援部隊の輸送は成功した。 11月4日、甲増援隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)は4日23時30分にショートランド泊地を出撃。乙増援隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)は5日午前0時に同泊地を出撃した。5日深夜、各隊はガ島揚陸に成功し、2隻(朝雲、天龍)が米潜水艦に雷撃されるも損害はなかった。7日、ガ島輸送は乙増援隊(朝雲、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮)によって実施された。7日23時にショートランド泊地を出撃、輸送作戦は成功した。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月12日以降、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場基地に対する砲撃と日本軍輸送船団をめぐり、日米双方は主力艦隊を投入して大規模海戦に発展していった(第三次ソロモン海戦)。12日第一次夜戦で帝国海軍は3隻(戦艦《比叡》、駆逐艦《夕立、暁》)を喪失、飛行場砲撃も中止された。11月13日未明、アメリカ軍大型機の空襲により出撃準備中の満潮が大破。このため主隊所属の朝潮が飛行場砲撃時に支援隊を護衛することになった。同日午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(重巡《鳥海、衣笠》、軽巡洋艦《五十鈴》)と外南洋部隊支援隊(重巡《鈴谷、摩耶》、天龍、第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》、朝潮)はショートランド泊地を出撃する。同日23時30分より鈴谷、摩耶はヘンダーソン飛行場砲撃を敢行するが、飛行場の作戦能力に影響はなかった。このあとガ島海域を離脱してニュージョージア諸島南方を航行中の外南洋部隊は空母エンタープライズ艦載機とヘンダーソン基地から飛来した急降下爆撃機SBDドーントレスおよび雷撃機TBFアベンジャーの攻撃を受ける。衣笠が沈没し、朝潮は損傷した軽巡五十鈴を護衛して帰投した。 11月17日朝、朝潮以下、外南洋部隊主力艦艇はラバウルに到着、パプアニューギニアのブナに上陸した連合軍に対処することになった(ブナ・ゴナの戦い)。駆逐艦3隻(朝潮、海風、江風)と鴻型水雷艇2隻による陸兵500名のバサブア輸送作戦は、揚陸中にB-17の空襲をうけて本艦以下3隻が損傷(海風大破、江風中破、朝潮小破)。海風は航行不能となった。江風は単艦で退避、朝潮は海風を曳航して21日ラバウルへ戻った。ラバウルに停泊中だった駆逐艦2隻(親潮、陽炎)も救援のため出撃している。 12月1日午前0時、第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(朝潮、荒潮、磯波、電)はブナ輸送のためラバウルを出撃する。アメリカ軍大型爆撃機の執拗な空襲に悩まされた上に揚陸地点で大発動艇部隊との連絡がつかず、2日未明に一部物件を揚陸したにとどまった。電・朝潮はB-17と交戦して撃墜された友軍航空機搭乗員1名をそれぞれ救助した。12月8日早朝、風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波、電はブナ輸送を実施するためラバウルを出撃するが、8時15分、飛来したB-24(1機)を味方機と誤認した朝潮は空襲を受け艦尾に至近弾となり二番・三番砲塔損傷、中破した。天龍が救援に向かう中、外南洋部隊の下令に従い輸送駆逐隊は反転した。帰途、磯波も至近弾で小破した。 応急修理後の12月17日、陸兵輸送のため朝潮と望月はラバウルを出撃してカビエン(ニューアイルランド島)へ移動、18日にカビエン出撃、19日にダンピール海峡ニューギニア側のフォン半島フィンシュハーフェンへ陸兵約250名を揚陸した。帰途、空襲をうけた望月は死傷者40数名を出した。12月20日、カビエンに回航(望月はラバウル帰投)。朝潮は重巡2隻(熊野、鈴谷)より燃料補給を受けた。21日、朝潮はカビエンを出発、ラバウルへ向かった。12月22日、外南洋部隊は朝潮にショートランド泊地への移動を下令。同地に取り残されていた満潮をトラック泊地までの曳航、駆逐艦天霧に護衛を命じた。12月29日、大潮が第8駆逐隊に復帰、最前線に進出した。 1943年(昭和18年)1月7日、駆逐艦6隻(電、磯波、有明、夕暮、朝潮、天霧)、鈴谷、戦艦陸奥、空母瑞鶴はトラック泊地を出発、内地へ向かった。12日、3隻(陸奥、朝潮、電)は横須賀に帰投する。 2月7日、駆逐艦3隻(村雨、浦波、朝潮)は空母冲鷹を護衛して横須賀を出港。2月12日、4隻はトラック到着。2月15日、駆逐隊司令に佐藤康夫大佐が就任した。2月20日、大潮が米潜水艦アルバコア の雷撃で大破、2月21日に沈没した。22日夜、朝潮と浦波はマダンに陸軍航空基地員250名を揚陸した。
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ソロモン諸島の戦い
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「朝雲 (駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
不時着した二式飛行艇の捜索にむかった「夏雲」(19日トラック着)を除く第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は第4戦隊(愛宕/第二艦隊旗艦、高雄)を護衛してトラック泊地へ進出、24日-25日の第二次ソロモン海戦に参加する。その後、9月20日からガダルカナル島輸送に9回従事した。10月5日、第9駆逐隊僚艦「峯雲」は空襲により損傷、戦線から離脱した。10月12日、サボ島沖海戦の損傷艦救援にむかった第9駆逐隊僚艦「夏雲」が空襲を受け沈没、「朝雲」は同艦乗組員の救助を行う。10月25日、第四水雷戦隊旗艦「秋月」が被弾して中破、「秋月」以前の旗艦だった軽巡洋艦「由良」も沈没した。高間完第四水雷戦隊司令官は一時「村雨」に将旗を掲げたのち、10月31日から旗艦を「朝雲」に変更した。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月中旬、第四水雷戦隊旗艦「朝雲」は第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)・第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)を指揮し、第11戦隊(司令官阿部弘毅少将:戦艦比叡・霧島)を中核とする『挺身艦隊』に所属して第三次ソロモン海戦に参加する。挺身艦隊は悪天候の中で何度も反転したため四水戦の陣形は崩れ、警戒隊として先行するはずだった「朝雲」及び第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)は第11戦隊本隊と同行する事になり、第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)のみ艦隊前面に突出する格好となった。このような状況下ではじまった13日第一夜戦で、挺身艦隊は駆逐艦「暁」沈没、戦艦/旗艦「比叡」操舵不能、駆逐艦「夕立」航行不能、「雷」「天津風」中破、「村雨」「春雨」損傷という損害を受ける。午前1時、「朝雲」は炎上する「夕立」に接近。高間司令官は「夕立」乗組員に艦を放棄してガダルカナル島へ向かうよう命令した。カッターボートを降ろした「朝雲」は「夕立」を残して離脱していった。その後、「五月雨」が救援のために到着し、夕立乗組員を救助している。「朝雲」は戦艦「霧島」を護衛して戦闘海域を離脱した。第一夜戦で「朝雲」は主砲88発・魚雷8本を発射、敵駆逐艦1隻撃沈を記録した。一方、「雪風」、「照月」、「時雨」、「白露」、「夕暮」に護衛されていた「比叡」は空襲を受けて損傷が進み、13日夕刻になって放棄され沈没した。 詳細は「霧島 (戦艦)#第二夜戦」を参照 日本海軍は艦隊の再編を行い、戦力を整えた。第一夜戦に参加した「朝雲」、「五月雨」、「照月」は近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)の指揮下に入り、再びガダルカナル島へ向かう。これを米軍第64任務部隊(司令官ウィリス・A・リー少将)の米新鋭戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)が迎撃し、第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起する。「朝雲」は秋月型駆逐艦「照月」に対し魚雷戦を命令。「朝雲」は酸素魚雷4本を発射して2本命中を確認、他艦と共同によりノースカロライナ級戦艦1隻撃沈と記録した。同様に「愛宕」「高雄」も多数の酸素魚雷を発射して米戦艦撃沈を報告したが、実際には米駆逐艦の残骸に命中するか自爆しており、米戦艦に命中した魚雷は1本もなかった。結局「愛宕」、「高雄」、「霧島」、「朝雲」、「照月」は米戦艦に決定的損害を与えられず、逆に「霧島」がワシントンに撃沈された。戦闘終了後、駆逐艦3隻(朝雲・五月雨・照月)は沈没直前の「霧島」に接近して救助活動を実施。「朝雲」は「霧島」の乗員618名を救助しトラックに帰投する。本海戦において「朝雲」が受けた被害は無かった。11月下旬、四水戦旗艦は軽巡洋艦「長良」に変更された。12月中旬、「朝雲」「時雨」は横須賀からトラック泊地へ進出する空母2隻(龍鳳、冲鷹)と駆逐艦2隻(時津風、卯月)をサイパン附近まで出迎える予定であったが、「龍鳳」は12日の米潜水艦の雷撃で中破、横須賀へ避退した。「冲鷹」「卯月」のみ横須賀からトラックへ向かい、「朝雲」「時雨」はサイパン北西で2隻と合流した。この後も「朝雲」「時雨」は空母「冲鷹」の横須賀〜トラック往復を護衛した。1943年(昭和18年)1月21日、米潜水艦シルバーサイズの雷撃で撃沈された輸送船「明宇丸」救援のため「朝雲」はトラック泊地を出発し、「明宇丸」の乗員を救助した。 1943年(昭和18年)2月上旬、「朝雲」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)参加した。当初は支援部隊として行動していたが、第一次撤収作戦(2月1日)で第31駆逐隊「巻波」が大破、第10駆逐隊「巻雲」が沈没、その代艦として「朝雲」と「五月雨」は撤収部隊に編入され、ガダルカナル島方面に進出する。第4駆逐隊「舞風」が損傷した第二次撤収作戦(2月4日)、第17駆逐隊「磯風」が損傷した第三次撤収作戦(2月7日)の両方に参加したが、被害はなかった。2月中旬、「朝雲」は第9戦隊(北上、大井)、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、「五月雨」、「皐月」、「文月」、「長月」と共にウェワク輸送船団を護衛した。2月28日、第3水雷戦隊(木村昌福少将:旗艦/第11駆逐隊「白雪」)・第8駆逐隊(荒潮、朝潮)・第9駆逐隊(朝雲)・第16駆逐隊(雪風、時津風)・第19駆逐隊(浦波、敷波)は陸軍輸送船団を護衛されてラバウルを出撃、速力9ノットで西方へ向かう。3月2日、B-17爆撃機による爆撃で輸送船「旭盛丸」が沈没、「朝雲」と「雪風」は船団に先行してラエへ向かい、「旭盛丸」の人員や物資を揚陸すると再び船団へ戻った。 詳細は「ビスマルク海海戦」を参照 3月3日、ラエ輸送中にダンピア海峡でビスマルク海海戦が起こり、輸送船団はクレチン岬南東沖でアメリカ、オーストラリア軍機の空襲を受けた(ダンピール海峡の悲劇)。空襲により輸送船は全隻沈没。また護衛の駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)も沈没した。「朝雲」は「雪風」、「浦波」、「敷波」および救援のために駆け付けた「初雪」と共に救助活動を行う。485名を救助。最後まで救助活動を行った「朝雲」、「敷波」、「雪風」は3月5日にカビエンに帰投した。同日、コロンバンガラ島輸送作戦に従事していた駆逐艦「村雨」と第9駆逐隊「峯雲」は米艦隊の奇襲により一方的に撃沈される(ビラ・スタンモーア夜戦)。「峯雲」の喪失により第9駆逐隊は「朝雲」1隻となったが、4月1日附で駆逐艦「薄雲」「白雲」が編入されて戦力を回復した。なお朝潮型ネームシップ「朝潮」の沈没にともない、同日附で朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』に改定された。その後、「朝雲」はコロンバンガラ島輸送作戦に従事、3月8日(朝雲、雪風、長月、敷波、浦波)、3月13日(朝雲、雪風、長月)。4月1日(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)、4月5日(五月雨、朝雲、夕雲、秋雲)。4月6日をもって「朝雲」は外南洋部隊からのぞかれ、北方部隊に編入された。13日は「雪風」、16日には第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)が外南洋部隊からのぞかれ、代わりに第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、「海風」、「萩風」が同部隊に編入された。
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ソロモン諸島の戦い
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「熊野 (重巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
第七戦隊が呉で整備待機中の1943年(昭和18年)5月12日、アメリカ軍は北方方面で反攻作戦を実施、アッツ島に上陸を開始した(アッツ島の戦い)。5月17日、第七戦隊に最上(航空巡洋艦)が復帰した。アリューシャン方面の戦いに備えて作戦準備を行うが、アッツ島守備隊が5月29日に全滅し、第七戦隊は内海西部へ戻った。 6月15日附で第七戦隊は前進部隊に編入され、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡五十鈴、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、涼風、新月、清波)と共に横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した。6月23日、熊野は鈴谷、新月、涼風、有明とラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った。新月は外南洋部隊増援部隊に編入され、ラバウルに残った。 詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 6月30日、連合軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、南東方面の状勢は緊迫化した(ニュージョージア島の戦い)。7月9日、第七戦隊は南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)の指揮下に入り、外南洋部隊支援隊に編入される。7月10日、西村司令官直率の4隻(熊野、鈴谷、有明、朝凪)はラバウルに進出した。 7月15日、第七戦隊は外南洋部隊夜戦部隊に編入される。7月16日の出撃(熊野、鈴谷、川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は空振りに終わった。 7月20日、第七戦隊指揮下の夜襲部隊(重巡3隻《熊野、鈴谷、鳥海》、水雷戦隊《川内、雪風、浜風、夕暮、清波》)は、輸送部隊(三日月、水無月、松風)と共にコロンバンガラ島輸送のためラバウルを出撃。だがPBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受ける。夕暮と清波が沈没した。熊野にはTBFアベンジャー雷撃機が投下した魚雷1本が命中。魚雷を命中させた敵機は魚雷投下後「熊野」の後部マストに翼を引っ掛けて墜落したという。木俣滋郎によれば、魚雷ではなく反跳爆撃であるという。舵故障を起こしたため熊野は浜風に護衛されて避退した。 7月21日、旗艦が鈴谷に変更された。熊野は工作艦山彦丸の支援を受ける。7月29日、応急修理を終えた熊野は駆逐艦皐月、望月に護衛されてラバウルを出発、トラックへ回航される。トラックに到着後、8月中は工作艦明石等の応急修理を受けた。8月28日、トラック泊地を出発。9月2日、熊野と雪風は呉に帰還した。 熊野は呉にて修理を行った。11月3日、熊野と駆逐艦浜風は南方へ出撃した(8日、トラック泊地着)。その後、小沢機動部隊と共にクェゼリン環礁等、中部太平洋諸島を行動する。12月5日、トラック到着。12月7日、第七戦隊旗艦に復帰。25日までトラック泊地で待機。その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)として参加する。ちなみに、戊一号輸送任務は3隻(戦艦《大和》、駆逐艦《谷風、山雲》)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は重巡洋艦3隻(妙高、羽黒、利根)・駆逐艦2隻(白露、藤波)によるトラック〜カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)・駆逐艦2隻(秋月、山雲)によるトラック〜カビエン輸送任務である。12月26日、熊野は戦艦大和に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)はアメリカ軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、再出撃。29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年(昭和19年)1月1日にトラック泊地に帰還した。
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ソロモン諸島の戦い
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「鈴谷 (重巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
第七戦隊が呉で整備待機中の1943年(昭和18年)5月上旬、アメリカ軍は北方アリューシャン列島で反攻作戦を実施。5月12日、アッツ島に上陸を開始した(アッツ島の戦い)。5月17日、第七戦隊に最上が復帰した。アリューシャン方面の戦いに備えて作戦準備を行うが、アッツ島守備隊が全滅し、第七戦隊は内海西部へ戻った。 6月15日附で第七戦隊は前進部隊(司令官栗田健男中将)に編入し、第三戦隊(金剛、榛名)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡五十鈴、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》)、涼風、新月、清波と共に横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した。6月23日、鈴谷は熊野、新月、涼風、有明と共にラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った。 詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 6月30日、連合軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、南東方面の状勢は緊迫化した(ニュージョージア島の戦い)。7月9日、第七戦隊は南東方面部隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下に入り、外南洋部隊支援隊に編入される。7月10日、鈴谷は熊野、有明、朝凪と共にラバウルに進出した。7月15日、第七戦隊は外南洋部隊夜戦部隊に編入された。7月16日の出撃(熊野、鈴谷、川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は空振りに終わった。 7月20日、鈴谷と熊野、鳥海、水雷戦隊(軽巡川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は夜戦部隊を編制、輸送部隊(三日月、水無月、松風)と共にラバウルを出撃しコロンバンガラ島へ向かった。だがPBYカタリナ飛行艇に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受け、夕暮と清波が沈没した。熊野が被雷したため、7月21日、旗艦が鈴谷に変更された。7月29日、熊野は修理のためトラックへ回航した。鈴谷は10月上旬までラバウルにとどまったのち、トラック泊地へ戻った。 11月1日、連合軍はラバウルに対する攻勢を強化するため、ブーゲンビル島に飛行場を建設するため上陸作戦を敢行した(ブーゲンビル島の戦い)。この脅威に対処するため、連合艦隊はトラック泊地に待機している第二艦隊や第三艦隊(機動部隊)の艦艇をラバウル方面に派遣することになった。第七戦隊(鈴谷、最上)は遊撃部隊と共に南東方面部隊に編入。ろ号作戦に協力する。11月3日朝、遊撃部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》、第二水雷戦隊《能代、早波、玉波、藤波、涼波》)はトラック泊地を出撃。被弾したタンカー救援のため2隻(鳥海、涼波)を分離した遊撃部隊は、南下中の4日夜、輸送任務に従事する第十四戦隊(那珂、五十鈴)と遭遇する。11月5日午前6時30分前後、遊撃部隊はラバウルに到着した。同地にはブーゲンビル島沖海戦に参加した連合襲撃隊の一部艦艇(阿賀野、長波、時雨、白露、五月雨、若月)等が待機していた。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 遊撃部隊がラバウルに到着してから間もなく、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) と軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) から発進した米海軍艦載機約100機が空襲した(ラバウル空襲)。草鹿任一南東方面艦隊長官は遊撃部隊をトラック泊地におくりかえす事を決定。摩耶以外の遊撃部隊は駆逐艦部隊(涼波、玉波、島風)等に護衛されて同日夕刻ラバウルを出発、鈴谷は速度のでない最上を島風、玉波と共に援護し、8日昼過ぎトラック泊地に到着した。 11月19日よりアメリカ軍はタラワ島とマキン島に対する空襲を強化し、21日に上陸を開始してマキンの戦いとタラワの戦いが生起する(ギルバート諸島の戦い)。トラック泊地の連合艦隊も対応にせまられ、遊撃部隊(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩、能代、早波、藤波、初月、野分、舞風)は南洋方面部隊に編入され、マーシャル諸島に進出した。一種の陽動作戦だったが、圧倒的なアメリカ海軍の戦力と比較すると、遊撃部隊はあまりにも劣勢だった。しばらく待機したが、陸軍部隊のヤルート環礁やミレ環礁への輸送が終わったこと、アメリカ軍が占領したマキンより空襲を受ける危険が高まったことでトラック退避を指示される。12月3日夜、栗田中将指揮下の重巡4隻(鳥海、筑摩、鈴谷、熊野)、水雷戦隊(能代、早波、藤波、涼月、初月、浜風)はロイ=ナムル島(ルオット島)を出発。トラック着後の12月7日、第七戦隊旗艦は鈴谷から熊野に移った。12月25日までトラック泊地で待機した。 その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)として参加する。ちなみに、戊一号輸送任務は戦艦大和、駆逐艦2隻(谷風、山雲)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は重巡洋艦3隻(妙高、羽黒、利根)・駆逐艦2隻(白露、藤波)によるトラック〜カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)・駆逐艦2隻(秋月、山雲)によるトラック〜カビエン輸送任務である。12月26日、鈴谷は戦艦大和に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)はアメリカ軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、再出撃。29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年(昭和19年)1月1日にトラック泊地に帰還した。
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ソロモン諸島の戦い
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「チャールズ・オースバーン (DD-570)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説
チャールズ・オースバーンは太平洋に向かい、1943年6月28日にニューカレドニアのヌーメアへ到着する。ガダルカナルの戦いを支援する哨戒と護衛任務の夏が始まり、エファテ島やエスピリトゥサント島のような港からガダルカナル島への船団護衛に従事した。8月27日、チャールズ・オースバーンはパーヴィス港を拠点に、夜間にソロモン諸島からブーゲンビル島やニューブリテン島へ兵員を撤退させる「東京急行」(鼠輸送)の日本海軍駆逐艦を阻止する攻撃部隊に参加した。8月27日から28日にかけての「ザ・スロット」(ニュージョージア海峡)での最初の哨戒は何も起こらなかったが、9月7日に敵機の空襲によって最初の会敵が発生する。この時、ソロモン諸島へ兵員を展開させるLSTを護衛し、夜間戦闘機と共同行動をとる試みにも加わった。 1943年9月27日から28日にかけての夜、ベララベラ島沖合でチャールズ・オースバーンは正確な砲撃によって舟艇2隻を撃沈した。10月初め、チャールズ・オースバーンは訓練と補給のためエスピリトゥサント島へ戻る。そこで10月23日に駆逐戦隊で最も有名な司令となるアーレイ・バーク大佐を迎え、チャールズ・オースバーンに司令旗が掲げられた。バーク大佐が指揮した、彼自身の命名による通称「リトル・ビーバーズ」(Little Beavers)は海戦史における非凡な存在であり、それは殊勲部隊章を授けられたことで示された。リトル・ビーバーズによる日本海軍水上部隊と沿岸拠点に対する作戦は続き、ソロモン諸島の戦いでの勝利に多大な貢献を残した。チャールズ・オースバーンは1943年10月31日から1944年2月23日にかけて、最も激しい戦いに置かれることになった。 チャールズ・オースバーンは1943年10月31日にブーゲンビル島の戦いでの支援を開始し、所属する任務部隊は激しい砲撃でブカ島の日本軍飛行場を無力化した。チャールズ・オースバーンはまた、給油で南下する際に任務部隊が通過するショートランドで沿岸砲台を砲撃した。11月1日の早朝、米軍はエンプレス・オーガスタ湾に侵攻し、そして日本の巡洋艦4隻と駆逐艦6隻がブーゲンビル島沖の輸送船を攻撃するためにラバウルを出撃し南へ移動しているという連絡を受けた。すぐにチャールズ・オースバーンと僚艦は敵艦隊迎撃のため北上した。11月2日午前2時27分に最初の会敵が起こり、ブーゲンビル島沖海戦が生起した。 旗艦のレーダーに敵艦がはっきりと捉えられた時、チャールズ・オースバーンと3隻の僚艦からなるリトル・ビーバーズは魚雷攻撃を敢行した。チャールズ・オースバーンらは、既にアメリカ海軍の巡洋艦による攻撃で炎上中の軽巡洋艦川内を片付けると、続いて32ノットで駆逐艦初風に接近する。スペンスが攻撃に加わり、チャールズ・オースバーンは初風を沈めた。それから雷撃で損傷したフートを護衛してパーヴィス湾へ戻った。 11月の残りの期間、チャールズ・オースバーンはブーゲンビル島周辺の砲撃と哨戒を行い、島への補給船団を護衛した。ボニス(英語版)にある日本の飛行場へ猛砲撃を加え、橋頭堡で対空戦闘を実施、駆逐戦隊はほとんど障害なく行動した。 1943年11月24日、駆逐戦隊はハーボーン海峡で給油中だったが、ブカ島から兵員の撤退活動を行う日本艦隊を迎撃せよとの命令を受けた。速やかにチャールズ・オースバーンら5隻の駆逐艦はラバウル-ブカ島間を捜索するために北上し、セント・ジョージ海峡で駆逐戦隊が哨戒中だった11月25日午前1時41分にレーダーで目標を発見、セント・ジョージ岬沖海戦が発生した。 チャールズ・オースバーンは2隻の僚艦を引き連れ、残りの2隻による援護を受けながら2隻の日本の駆逐艦へ魚雷攻撃を行うべく突進した。魚雷は大波を撃沈し、巻波を真っ二つにした。援護している僚艦が巻波に止めを刺すと、チャールズ・オースバーンと僚艦は、退避しようとしている輸送任務中の3隻の敵駆逐艦を追跡するため速やかに転回した。3隻の敵艦は散開したが、チャールズ・オースバーンはそのうち夕霧に対して追跡を継続し、繰り返し命中弾を与えた。すぐに艦首から艦尾へかけて火災が発生し、夕霧は遁走を図るも急速に接近され沈められた。日の出が近づき、駆逐戦隊はラバウルの日本側飛行場から距離を離すために後退した。このセント・ジョージ岬沖海戦で、日本側は駆逐艦3隻を喪失したが、チャールズ・オースバーンらアメリカ側には全く損害がない完勝であった。 1943年12月の間、チャールズ・オースバーンはブーゲンビル島での作戦を支援し、哨戒、護衛、対空、地上砲撃といった任務をこなした。チャールズ・オースバーンはオーストラリアでつかの間のオーバーホールを行うと、1944年1月30日にソロモン諸島北部に戻る。2月3日には再び戦闘任務へ向かい、日本軍の激しい航空攻撃をはねのけながらブーゲンビル島北部沿岸への砲撃任務を行った。グリーン諸島の戦いを支援したほか、2月18日のカビエン港攻撃をはじめとする多くの敵水上目標捜索を実施した。この攻撃により、敵の港湾施設、滑走路、備蓄物資はほぼ完全に破壊された。 1944年2月22日、チャールズ・オースバーンとダイソン、スタンリー(USS Stanly, DD-478)はニューアイルランド島沖で日本の敷設艇夏島を沈め、コンヴァースとスペンスを加えた5隻はカビエンの北西で救難曳船長浦を沈めた。また、他にも特設駆潜艇第八玉丸(西大洋漁業、279トン)、小型貨物船Choryu Maru、No.9 Tokuyama Maruと海軍徴用船協成丸(東和汽船、556トン)を沈めたとされている。 その後はビスマルク諸島北方へ哨戒に向かう3月5日まで揚陸艇の護衛を行った。
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固有名詞の分類
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