ソロモン諸島での作戦(1943年9月~1944年4月)
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「テリー (DD-513)」の記事における「ソロモン諸島での作戦(1943年9月~1944年4月)」の解説
3日後、ヨークタウン (CV-10)、ダシール(DD-659)(英語版),マッキー(DD-575)(英語版)の部隊のいる海域に向かった。 3隻は7月10日にパナマ運河に到着した。二日後、テリー、ヨークタウン、マッキー、シグスビー(DD-502)(英語版)はハワイに向け出航した。真珠湾に到着したのは24日で、テリーは8月中旬までハワイ近海で演習を行った。8月19日、テリーは真珠湾を離れ太平洋の南西へ向かった。フラム (DD-474)(英語版)とゲスト (DD-472)(英語版)と共に航行し、一旦フィジーのスバに停まった後、9月6日にニューヘブリディーズ諸島(現在のバヌアツ共和国)のエファテ島のハヴァナ港に到着した。ニューカレドニアのヌメアを訪れた後、9月末のソロモン諸島での任務に就くためテリーは単独でエファテ島に戻った。 1943年9月中旬、テリーは過酷なソロモン諸島の戦いに遅れて加わった。彼女は作戦の最後の5ヵ月間だけを経験し最後の2つの水陸両用作戦に参加した。ソロモン諸島での彼女の主な任務は輸送部隊の護衛や、日本軍の撤退を阻止するための輸送路の分断であった。稀にソロモン海を離れてニューカレドニアに行き船舶の護衛を行った。 ソロモン海における彼女の最初の戦闘は10月の初めに発生した。10月2日、テリーはフート(DD-511)(英語版)、コンバース (DD-509)(英語版) 、ジェンキンス (DD-447)と共にチョイスル島とコロンバンガラ島の間にあるニュージョージア海峡に集められた。彼女らの任務はコロンバンガラ島から撤退する日本兵を乗せた機動艇部隊の迎撃であった。戦闘開始前、彼女と3隻の姉妹艦は島から撤退する日本兵を待ち伏せした。21時14分、目標を捉えた。4隻は右舷に回頭し、5分後、砲門を開いた。 テリーが一斉射撃すると、射撃式装置が停止した。3分後、砲撃を止め修理を開始した。すぐさまレーダー員が砲の“眼”を回復させ、程なくしてテリーは砲撃を再開した。日本軍の舟艇は反撃したがテリーとその他駆逐艦はレーダーの画面から彼らが消えるまで激しい砲撃を浴びせた。その直後、若竹型駆逐艦に護衛された更なる舟艇がレーダーに捉えられた。テリーとその僚艦らは斉射し魚雷を広範囲に発射した。日本軍駆逐艦は反撃したが、魚雷により鎮められアメリカ艦艇の方への転進を余儀なくされた。その間、アメリカ駆逐艦は魚雷発射のため射撃を止め、5inch主砲は再び火を噴いた。アメリカ軍の連続砲撃で日本軍が大きな損害を受けるにつれ、反撃は徐々に弱まった。戦闘が終了すると、テリーはギゾ海峡へ進路を向けた。 テリーは10月の終わりにかけて護衛任務とパトロールの任務を再開した。11月の初め、ブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾強襲のためジョージ・クライマー(APA-27)、ハンター・リゲット (APA-14)とプレジデント・ジャクソン (APA-18)を護衛しつつ再び北上した。タロキナ岬上陸の前の11月1日、テリーとフラムは日本軍の航空攻撃を回避した。小さな輸送船の砲手は2機を撃ち落とし、残りの敵機を追い払った。翌早朝、部隊は上陸した。5時45分、テリーは発砲し強襲上陸部隊の支援を1日中続けた。11月3日、テリーは同海域を掃討しガダルカナル島近くのフロリダ諸島に向け南へ戻った。 その次の三か月間、テリーは補給部隊の護衛とパトロールという通常任務を再開した。時折ブーゲンビル島を訪れラッセル諸島とトレジャリー諸島のパトロールを行った。テリーは2度ヌメアを訪れた。12月の最初の一週間、テリーは日本軍の掃討を2回行った。12月3日、ガダルカナル島からブーゲンビル島へ移動していると、ほぼ同時に空と海中からの攻撃を受けた。日本軍の潜水艦が2本の魚雷を発射したが、テリーは雷跡が艦尾を通過するのを見つけた。そしてほぼ同時に日本軍の複数の戦闘機が襲い掛かった。戦闘機は何度も接近に失敗し、テリーの対空砲により一機が撃ち落とされると攻撃を諦めた。11日後、テリーは再びブーゲンビル島を攻め、他の日本軍機が攻撃を試みた。テリーの砲撃が礼儀を教えると敵機はすぐに引き下がった。 ヌメアにおいてパトロールや護衛任務などを行った後、テリーはソロモン攻略作戦の最後の主要な水陸両用作戦の支援を命じられた。1944年2月13日、ブレイン (DD-630)とウォリントン(DD-383)(英語版)と共にパーヴィス湾を出航した。2月15日の上陸では、3隻は敵機の迎撃を開始したが、“傷を負わされた”アメリカ海兵隊の戦闘機が迎撃した際は砲撃を止めた。その後、テリーと戦車揚陸艦隊は強襲目標の基地から飛来した日本軍の急降下爆撃機に恐れおののいた。爆撃機は掃討の終わりまで広範囲に残っていた。2月21日、テリーはグリーン諸島を離れツラギ島へ戻った。 テリーの次なる目標はビスマルク諸島ニューブリテン島にある日本軍の大規模な基地であった。2月23日にツラギ島を出航し、トレジャリー諸島で燃料を補給し、25日の夜明け前にラバウルに到着した。彼女の主砲はナポレの日本軍の沿岸施設に対し23分間に渡り砲弾を浴びせた。攻撃中の3時頃、複数の爆発が起き、20マイル離れた海上からでも見えるような猛烈な炎で目標地点を飲み込んだ。デューク・オブ・ヨーク諸島(英語版)海域に墜落したパイロットの捜索のため駆逐隊司令官は更なる砲撃を取り止めた。 その後3ヶ月に渡りテリーは南西太平洋戦域に留まった。テリーはエミラウ島に侵攻する任務部隊に編成され、3月20日のエミラウ島の無血占領に成功した。その後は通常のパトロールや護衛任務を再開した。4月2日、テリーは墜落したB-24爆撃機の生存者を救出した。5月上旬にオーストラリヤのシドニーで休息をとった後、エミラウ島へ向け出航し13日に到着した。5月の後半には、アイダホ (戦艦)、ニューメキシコ (戦艦)、ペンシルベニア (戦艦)の3隻の戦艦で構成される第三戦艦隊との演習を行った。
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